〝鱗吐き〟と迷いの山⑧
ノエルを一般病室に移し終えた後のこと。処置室には、小さなうめき声と、それから、すすり泣く声がが響いている。
うめき声の主は、今まさにルカの前に座っているアルヴァである。
「深い傷が無いから良いものの、何をどうしたら、こんなに傷だらけになるんですか……ねえっ!」
バチン! と手当てにしては些か力強い音が響く。
「あ痛っ」
「痛くしましたもん」
ちなみに沁みるほうの薬使いました、とルカはアルヴァを半目で睨みつける。彼のその視線を真正面から受け止めてなおアルヴァが笑っているものだから、ルカは先ほど巻いてやった包帯をもう一度、べチっと叩いてやった。姉の眉がびくっと動き、それから、彼女の浮かべる笑みが苦笑に変わる。
「ごめんな」
「姉上は謝るだけだから嫌なんですよ。謝るくらいなら、無茶するのやめてくれません?」
「いやぁ、今回は本当に無茶してない――」
「言っとくけどな、アルヴァ。一般的にはな、崖から飛び降りて枝折りながら木にしがみつくっていうのはな、無茶っていうんだぞ」
横から入ってきたケネスの言葉に、アルヴァが『ヤバい』という顔をする。
その表情がごまかしの笑みに変わったところで、ルカは目を見開いて、それから彼女の背中を思いっきり引っ叩いた。思いっきり、といってもルカの思いっきりはアルヴァにとっては些細なこと。彼女はコホっと小さく咳き込むにとどまって、さして痛みも感じていないようだった。
ルカはジンジン痛む手を軽く振りながら、くわっと口を開いた。
「そんなことしたんですか!? バッカじゃねぇの!?」
あまりの驚きに、思わず、とルカの口調が荒くなる。
「あー、いや、だって……ほら、すぐ後ろに機械兵が迫ってて」
「相手は俺たちに気づいてなかったけどな」
「でもこっちに来てたろう。気づかれるのは時間の問題で――」
ルカは、あーでもないこーでもない、とケネスと話し始めたアルヴァにため息を投げかけてから、二人に背を向ける。そして彼が向かうのは、処置室の隅っこでシクシク泣いている水竜の長のもと。ルカが近づくと、レインのそばで彼女を慰めていたカレンがフッと顔をあげた。
「竜、平気になったんですか?」
ルカが小首をかしげてそう言うと、カレンはその事実を忘れていたかのような表情を浮かべてから「うっ……」と言葉に詰まり、それからほんの少し顔を青くして、小さく口を開く。
「……それは、まだダメですけど……でも、泣いている人を放っておけませんから……」
「まあ、そうですよね」
これだけ泣いてたら放っても置けないか、と思いながらルカが目を動かした先、水竜の長は、威厳もへったくれもなく、顔面を涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃにしていた。
大声をあげて泣かないのは、長としての最期の砦なのだろうか? とルカが考えていることも知らず、レインはボロボロと涙をこぼしている。
「うううう、どうして……なんで、なんでぇ……」
カレンに背中を擦られながら、レインはブツブツ言っている。ルカは、水神竜の祠についての話題を出す前に、そのブツブツに耳を傾けることにした。
「ノエル、ひっ、ノエルぅ……」
まるで今生の別れとでも言うかのような湿って重い声で、レインはノエルの名を呼んでいる。一生会えないわけでもあるまいに、と思うルカの前で、レインは次にこんな言葉を発した。
「もう、一生会えないなんて、嫌ぁ……」
「え、会えますよ?」
ルカが軽い声で言えば、レインのシクシクが止まる。
なんか誤解があるみたいだ、と目をぱちくりさせるルカの前、二対の目が彼を見つめている。
一つは、サファイアブルーの垂れ目。大きく開いたその目の縁には、レインにつられたのかほんのり涙が乗っている。
もう一つは、海の青。カレンの青とはまた違う、深い深い海を切り取ったような青だ。こちらは、ルカが『もう目が溶けるんじゃないですかねぇ』と言いたくなるほど涙にまみれている。
そんな二対に見つめられながら、ルカはもう一度、今度は少しゆっくりと言う。
「会えますよ――」
ルカは言葉を一旦切って、掛け時計の時間を確認してから、もう一度レインを見つめる。彼の顔には、柔らかい笑みが乗っている。
「――何なら、今からでも」
少し、様子を見に行きましょうか。ルカが静かにそう声をかけると、レインはボタボタと涙を溢しながら、それでもしっかり頷いた。
処置室からノエルの病室までは少し歩く。
まだ日が高いから、病院には人が溢れている。
だから、医師や患者とすれ違うことも多いのだが――とルカはちらりと後ろを見た。
そこにいるのは、カレンに気づかわしげに見上げられながら、涙を流し続けるレインである。彼女があんまり泣いているものだから、すれ違う人が時々、悼むような顔を浮かべて過ぎていくのがなんとも居心地悪い。
こころもち早足になりながら、ルカはノエルが寝ている病室にたどり着いた。小さくノックをして、それから、扉をゆっくりと開く。
――ノエルは、眠っている。
レースカーテンのしまった窓から注ぐ柔らかい日の光の中、静かに寝息を立てながら――彼は、音も無く泣いている。
ノエル、と迷子の子供のような声で囁きながら、レインがふらふらと彼のベッドのそばに行く。カレンは心配そうな顔で彼女について行った。
ルカは、ノエルのそばについていた看護師と一言二言交わしてから、二人を追った。
ふらり、と床に膝をついた彼女は、ノエルの頬を伝う涙に触れようとして、それからぴたりと手を止めた。そんな彼女に、ルカは静かに声をかける。
「投与からの経過時間からすると、そろそろだと思います。彼の涙、よく見ていてください」
「なにを……、――っ!」
つぅ、と留まることなく落ち続ける涙が、淡い青に輝いて――それから、ころり、と枕に転がったのは、大きさにして小指の爪の先ほどもない、宝石のような青い塊。
この塊こそ、まさに――。
「――魔力の排出方法にはいくつか種類があるんですけど、涙と一緒に溶けださせるのが一番安全に済むので、この形になるように薬を作りました」
ルカはそっと手を伸ばし、ノエルの涙を受け止めている枕をそっと撫でる。すると、光の当たる角度が変わったからか、小さな青い煌きが返ってくる。
指に触れた中で、一番大きな塊――それでも、本当に爪の先ほどもない――をそっと摘まみ上げ、手のひらに乗せる。それからルカは、レインの横にしゃがみこみ、彼女に青いソレが見えるように、手のひらを差し出した。
あたしのまりょく、と力無く溢したレインに、ルカは優しく微笑む。
「さっき、ノエルくん少し起きていたそうなんですけど……病気の説明とか、薬の作用とかを聞いた後で、彼――これを、レインの目の色と同じ、綺麗って言っていたそうですよ」
と、そこでルカは口を噤む。
布の擦れる音が聞こえたからである。
「――……レイン」
寝起きであることと、昨夜の嘔吐。その二つが重なったせいでかすれた声で、しかし、ノエルはしっかりと、もう一度「レイン」と呼んだ。レインはノエルを見つめ、彼の頬を伝う魔力に満ちた涙をその瞳に映し――抱きしめようと伸ばした手を引っ込める。
しばらくは薬も効いてるし、抱きしめたって大丈夫ですよ。
ルカがそうやって背中を押してやると、病室内の空気が柔らかく動いて――光の中、レインとノエルは確かめるようにしっかりと、互いの背中に手を回す。
それから二人は、しばらくの間、静かに静かに抱きしめあっていた。




