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  〝鱗吐き〟と迷いの山②

 悲鳴をあげた女性は、ルカとアルヴァの間にいる少年を見つめながら口元を押さえている。そこから溢れるように何度も聞こえる「ノエル」と言うのが、この少年の名前だろう。そう当たりをつけたルカは、今や胃液と()()()()()()()()しか吐き出していない少年に、静かに声をかける。ちょうどそれと同時に、雨が降り始めた。


「――ノエルくん」


 少年が、嘔吐(えづ)きながらも目を上げる。涙に塗れた青い瞳を見つめながら、ルカはスっと息を吸い込み、言葉を紡ぐ。


「これから、少し苦しいことをします。君を、助けるためです。ちょっとの間、我慢――できますね?」


 ルカは噛んで含めるように、そう伝えた。すると、少年――ノエルは、今より苦しいことなど無い、とでも言いたそうな目でルカを見ながら頷いた。と、同時に、ルカの横顔を敵意の視線が撫でる。

 ちらりと確認すれば、濃紺の髪の女性が、口を押えたまま、肩を上下させてルカを睨んでいる。セミロングの髪が、まるで風でもはらんでいるかのように膨らむ。

 今にも爆発しそうな女性を無視して、ルカは、自分の後ろに立っているであろうカレンに声をかけた。


「カレン。僕の鞄から、アクアマリンを出してください」

「あ、わ、は、はい!!」


 カレンが横にしゃがみこむ。鞄から開けられる。彼女がゴソゴソと探っている間も、ノエル少年はゲボゲボと濁った咳を繰り返す。嘔吐を、繰り返す。

 ルカは、バトンを待つように横に左手を差し出しながら、目はノエルに向けて、状態を確かめ続けた。そしてグッと眉をよせ、小さく舌打ちする。胃液に混じる赤が多くなり始めているのだ。


「ルカ」


 なぜ嘔吐が止まらない、と言う目でこちらを見つめる姉に、ルカは口を開いた。


「――魔力(エーテル)凝固性排出不全症候群……の最悪のパターンです」


 姉の目の色が変わる。


 ―――魔力凝固性排出不全症候群。読んで字のごとく、魔力が凝固してしまうことで引き起こされる、魔力の排出不全である。


 自然界には、多くの魔力が漂っている。飲み水にも、もちろん空気にも。

 吸い込んだ空気、飲み込んだ水。そういったものに含まれる魔力は、ひと時、人間の体内に留まるのだ。その魔力は、通常ならば、時間の経過とともに消え去る……の、だが。

 極々稀にだが、魔力を定着させてしまう体質を持った人間が生まれる。そうするとどうなるか。浸み込んだ魔力が、時間をかけて凝固して、体のどこかから析出するのだ。

 それは、腕だったり、足だったり、首だったり。場所は様々だが、とにかく、鱗のような形に凝固した魔力が、さながら本物の鱗のように。

 

 場所が様々、と言うのが厄介だ。なぜなら、魔力は体表のみに析出するわけではない。

 ルカの言う、『最悪のパターン』は、体の内側に析出が起こってしまった場合のことを言う。そうなると、体は、何とか異物を外に出そうと嘔吐の命令を繰り返す。


 このように、体内に析出してしまったパターンを俗称――。

 

「――〝鱗吐き〟か!」


 ――まるで、鱗を吐き出しているようだから、〝鱗吐き〟と、そう呼ぶのだ。


 焦りの滲んだアルヴァの声が聞こえるのと同時に、ルカの手に慣れた感触が置かれた。ルカはソレを握り込み、近くの噴水に意識を向けて、そして、大きく呼びかけた。


「フォンテーヌ!」


 瞬間、勢いよく水が吹きあがった。

 周囲が騒めく。そんな中、街灯の光に照らされた水が、ルカの隣へと降りてくる。 


「フォンテーヌ、お願い」


 ルカが『何を』を言わないのは、握りこんだアクアマリンで彼女と繋がっているからだ。


「任せなさいな」


 フォンテーヌはどこか周囲を気にした様子を見せていたが、ルカが深く息を吐くと、途端にノエル少年へと意識を集中させたようだった。青を纏ってうっすら輝くフォンテーヌが、止められない嘔吐にあえぐノエルへと手を伸ばす。


「坊や、少ぉし、我慢するのよ」


 フォンテーヌの手がノエルの頬を撫でる。と、先ほどからルカを撫でていた敵意が殺気に変わる。それにあてられたのだろうか。フォンテーヌはめまいでも起こしたかのように目を閉じてから、ルカを見た。


「……――じゃ、やるわよ」


 おっとりしたフォンテーヌには珍しく、嫌に緊張した声だ。ルカは神妙に頷いて、それから、先ほどのフォンテーヌのようにノエルに手を伸ばす。彼女と同じようにノエルの頬を撫でると、ノエルはゆるゆると顔をあげた。一旦吐き気が収まったのだろうか。彼は大きくあえぎながら、頬を涙で濡らしている。


 ルカは、街灯に照らされる少年の、海のような青い瞳を静かに見つめながら、意識を姉の方に向ける。


「姉上、何があっても、この子を離さないでください」

「――ああ」


 ルカがこれからすることの想像がつくのだろう、アルヴァは真剣な顔で頷いた。


「――ノエルくん。息を、大きく吸って。水に潜るときみたいに」


 少年は従順だった。ルカの言う通りにして、喉をヒュウと鳴らす。ルカは、少年が十分息を吸い込んだのを見届けて、フォンテーヌに、頭の中で合図を出す。

 瞬間、どぷり、と体を水に変えたフォンテーヌが、ノエルの口に飛び込んでいった。

 ノエルの口が閉じかかる。そこに自分の右の親指を滑り込ませたルカは冷静そのものの表情だった。

 雨が目に入るのも構わずに、ルカは静かに静かに少年の反応を、のたうつフォンテーヌだった水を見つめている。


 少年の細い首が仰け反る。じた、と腕を、足を動かそうとするのを、アルヴァがしっかり抑え込んでいる。周囲に集まっている人々は、あまりに驚いたのだろう、動けないようだった。


 ――何も、ルカはこの少年をいじめたいわけではない。


 体内に析出した魔力を手っ取り早く取り払うには、凝固した魔力を溶かして自分の体に貯め籠める水精霊(ウンディーネ)に手伝ってもらうのが一番いい。だから、そうしているわけだ。


 しかし、はたから見れば、そうは見えないのも事実。

 ルカは、怒気がこちらに近付いているのに気が付いて、そちらを見ずに口を開いた。


「この少年のご家族かもしれませんが、今は、寄らないでください」


 余計なことをされたら、中途半端に溶けた魔力の鱗が、彼の喉を裂きますよ。


 そう脅し――事実なのだが――をかけても、相手は止まらない。ルカは濃琥珀の目をスイっと動かして、濃紺の髪の女性を静かに見据える。

 怒髪天とはこのことか、と言う程に、女性はわかりやすく怒っている。


「彼を、助けるためです」


 女性は止まらない。その手がルカに伸びる。と、同時に、ルカはアクアマリンを握りこんだ左手を上げた。女性の足元から水柱が立ち上がる。

 怒りの表情を驚きに変えた女性は、今や、大きな水の左手に握りこまれて、ルカたちの頭上三メートルほどのところに捉えられていた。


「――しばらく、そこでじっとしていてください」


 ルカがそう言い放つのと、フォンテーヌがノエルの口から飛び出してきたのは、ほとんど同時だった。


「――あらかた、取れたわよ」

「ありがとう、フォンテーヌ」


 ちらちら頭上を気にしながら、フォンテーヌは「お安い御用よぉ」と笑って、ルカの肩に腰かけた。


「――げぼ、ごほっ……は、はぁっ……」

「ノエルくん、吐き気は」

「げひゅ、はぁっ……だ、大丈夫、です……」


 お兄さん、ありがとう。

 ルカを見ながら息も絶え絶えにそう言って、ノエル少年は気絶してしまった。その顔が安らかなのが見えたのか、頭上に捉えている女性の殺気もおさまったようだ。


 ノエルを受け止めたアルヴァが「一番近い病院は」と周囲に尋ねている。その足元、ルカは雨に流される吐しゃ物の中、いくつも煌いている魔力の鱗を拾い上げてから立ち上がる。そして、アクアマリンを握りこんでいた手をゆっくりと開いた。女性を戒めていた水の腕がゆっくりほどけて降りてくる。


「すみません、乱暴なことをしてしまって」


 深く頭を下げるルカに、地上に降りてきた女性は、困ったような申し訳なさそうな雰囲気を纏って口を開いた。


「あたしこそ、ごめんなさい。てっきり、あなた達がノエルに何かしたのかと……」


 あの状況なら誰だってそう思います、とルカは微笑んで見せた。


 ――派手なほっかむりがしゃがみ込む少年にちょっかい出してるようにしか見えなかっただろうしな。


 その言葉は何とか飲み込んで猫を被った笑みを浮かべるルカは、自分を呼ぶ姉の声に、女性に会釈してからそちらに駆けだした。

 雨はいつの間にか止んでいた。 

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