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86 1994/11/30 wed 自室:あたしじゃない! あたしだけどあたしじゃない!

 ふわぁーあ……実にすっきり爽快な目覚め。

 曇り空のせいで部屋は薄暗いけど。


 時計は七時一五分を指している。

 八時前に出るって言ってたっけ。

 着替えて、朝飯食べて、顔を洗って、ちょうどいい頃合いだ。


 ベッドから出る──背筋がぶるっと。

 うー、さむ。

 明日から一二月だもんなあ。


 さて着替え。

 壁に掛かっている制服に手を伸ば──す?

 制服にはビニールが掛かっている。

 一昨日のがクリーニング屋から戻ってきたのか。


 昨夜寝る前、制服は濡れたままだった。

 それが今はクリーニングのおろし立て。

 つまり寝てる間に二葉が来たんだ。


 窓は閉まってる、机の横に火箸はない。

 ほっ、と一安心。

 夕べいたすこといたしてないのだから当たり前だけど、ついついチェックしてしまう。


 ビニールを外して上着を手にする。

 ポケットにはバタフライナイフ。

 他も入っていたものはそのまま移されているっぽい。


 なんてマメなんだ。

 二葉はもっと早い時間に起きて、クリーニング屋に制服を取りに行って、戻ってきて、制服の中のモノを入れ替えてくれたということ。

 さりげに中々の労働と思うのだが。

 決して寝過ごしたわけじゃないのに自分が恥ずかしくなる。


 ──制服に着替えてリビングへ。


「アニキ、おはよ」


 二葉は制服姿にエプロン。

 朝食の用意をしていた。


「おはよ、制服ありがと」


「どういたしまして」


 二葉にとっては取るに足りないことなのだろう。

 さらりと口だけの返礼をして作業を続ける。


「アニキ。朝食できるまで、もう少し待ってて。新聞はソファーのところにあるから」


「あ、ああ……なあ、二葉?」


「なあに?」


「なんか手伝うことないか?」


 考えてみたら、二葉と朝を一緒に過ごすのは平日初めて。

 しかしこうも至れり尽くせりだとは。

 かえって居心地悪くなる。


 ……と言っても、二葉の返事は予想通りだった。


「ありがと、気持ちだけもらっとくね。朝練が休みの分、時間に余裕あるからさ」


 しかたない。

 ソファーに座り、新聞を広げる。


 ──ふわっと、焦げた豆の匂いが鼻をつく。


「はい、どうぞ」


 テーブルを見ると、コーヒーが差し出されていた。


「あ、ああ……」


 二葉は、ぱたぱたと流しに戻っていく。

 インスタントじゃあるけど……いったい、いつ入れたのか。


 一樹が歪んでしまったのは、やっぱり二葉にも一因があるのではなかろうか。

 こんなできすぎた妹いたら、俺ですら何もしなくなるぞ?


                ※※※


「アニキ、できたよ~」


 ダイニングテーブルへ。

 並んでいるのは、トースト、ジャム、オムレツ、シチュー、薄灰色のドリンク。


「随分と豪勢な朝食だな」


「今日のお昼はバタバタしそうだからさ。朝しっかり食べた方がいいかなって」


 確かにな。

 二葉は一年の各クラス回ってアンケートを受け取るんだろうし。

 俺は図書館でプリントアウト。

 その後話し合う時間を考えたら、ゆっくりランチしてる時間なんてなさそうだ。

 

「じゃ、いただきます」


 ジャムは黄緑色というか黄土色というか。

 これはいったい何だろう?

 まあ、二葉が食べられないものを出すわけがない。

 トーストにジャムを塗って、口へ……さくりと噛みしめる。

 甘くて濃厚、その中に僅かな鼻を抜けていく酸味。


「甘いな、これ何?」


「豆乳ジャム。牛乳と違って青臭いから、隠し味にレモンを垂らしてる」


 そもそも牛乳でジャムを作れるというのを知らなかったんだが。


 続けてオムレツ。

 ナイフを入れると、まるでぱつんと弾けるような。

 食べる前からふんわりしてるのがよくわかる。


「もぐもぐ……ふわふわのとろっとろだな」


「オムレツに豆乳を入れたらこうなるんだよ」


 これも豆乳が入ってるのか。

 気づかなかった。

 こういうノリだと、きっと……。


「シチューも豆乳?」


「うん。多分わからないと思うけどね」


 スプーンですくって、口に入れる。

 美味しい、だけど何の変哲もないクリームシチュー。

 二葉の言うとおりだった。


 もちろんドリンクは豆乳そのもの。


「この豆乳づくしは、いったいどうした?」


「ん……昨夜色々考えたんだけどね」


「うん」


「この世界って、実は非常に不安定な世界なんじゃないかって思うんだ」


 俺が寝る前に考えたことと同じだな。


「それで?」


「もしかしたら、あたしの胸がばいんばいんに揺れまくる未来もあるんじゃないかと思ってさ。試しに豆乳づくしにしてみた」


 ……バカすぎる。


 しかし二葉ははにかみ顔。

 本気で言ってるのが哀れで仕方ない。

 この世界に「上級生」のファンブックがあるなら、二葉の項目は「好きな物:豆乳」とでも書き換えられるのだろうか。


 まあ、ここはこう答えておこう。


「おっきくなるといいな」 


「ヘンタイ!」


 なんでやねん。

 妹の扱いはホント、難しい。


                     ※※※


 食べ終えて、片付けて、顔を洗って。


「じゃあアニキ、いこっか」


 二人揃って玄関へ。

 燃えるゴミの入った袋を手にする。

 俺の部屋から出したのと、二葉がまとめたらしき大きいのと二つ。


「やっぱり男手あると助かるね」


 二葉が笑う。


 男手というほどでもない荷物だし、一樹は元からいたはずだし。

 色々と台詞が間違ってる気がするが、頼られるのは嬉しいものだ。


「悪いが、ドアを開けてくれ」


「あいさ」


 二葉が先に出てドアを支える。

 外は相変わらず曇っているが、雨は降っていない。


「じゃあアニキ、学校行こうか」


 そういえば二葉と平日一緒に登校するのは初めてだ。

 昨日も一緒ではあった。

 しかし向かった先はオーマイゴッド、次いで病院。

 登校というには程遠い。


「ゴミ捨て場は?」


「こっち」


 二葉の後ろをてくてくついていく……と思う間もなく、ゴミ捨て場に到着。

 ゴミ袋には、雨が振りそうなのでビニール袋が覆い被されている。

 俺も、ポイッと。


「アニキ、お疲れ様」


 こんなちょっとしたことでも労いの言葉をもらえるのは嬉しいものだ。

 さすがは体育会系というべきか。


 さて積み上がるゴミ袋の山に背を向け──ん?

 向ける前に体が止まる。


 なんだろう?

 脳にビリッとノイズが走った気がした。

 あくまで例えにすぎないが、この光景には何か覚えがある。


「どうしたの? 顔つき変えちゃって」


「ちょっとな。少しだけ待っててもらっていいか?」


 どこをどう見ても只のゴミ。

 何か特別な意味があるとは思えないのだが。


「……アニキ、そろそろ行かないと遅刻しちゃう」


 答えが出ないものを考え続けても仕方ないな。


「すまん、いこ──ぶっ!」


「アニキ!」


 気づいたら、俺はゴミの山に突っ伏していた。

 そして背後から子供達の声が聞こえてくる。


「クサイお兄ちゃん、おはよー!」


「デブ兄ちゃん、おはよー!」


「キモイお兄ちゃん、おはよー!」


 この呼び名は、ゲーセンのガキども!


「こらああああああああああああ!」


 立ち上がろうとする。

 しかしゴミ袋を覆うビニールでつるつる滑り、変な弾力があって体を支えられない。


 背後から二葉の諭すような声が聞こえる。


「ねえ、ボク達。お兄ちゃんをゴミの山に突き飛ばしたらいけないんだよ?」


 そんなの注意するまでもないはずなんだが。

 なんてシュールな説教だ。


「だってお兄ちゃんもゴミと同じじゃん」


 とんでもない強がりというか負け惜しみが聞こえてきた。

 二葉の口調が厳しくなる。

 

「お兄ちゃんはゴミじゃありません、謝りなさい」


「ごめんなさい、つるぺたのお姉ちゃん」


「あたしじゃない! あたしだけどあたしじゃない!」   


 あーもう。

 よっこらせ、ようやく体の向きだけ反転させた。

 ゴミ袋を背もたれにしながら、子供達をなだめる。


「もういいから二度とするな。そうじゃないとゲーセンで遊んでやらないぞ」


「はい、クサ兄ちゃん……」


「ごめんなさい、デブ兄ちゃん……」


「もうしません、キモ兄ちゃん……」  

 

 子供達が次々と頭を下げてくる。


「なんだかなあ。ほら、アニキ。捕まって」


 二葉が呆れた顔を見せながら、手を貸してくれた。

 それに捕まり、起き上がる。


 ──あれ?


「一郎は?」


 他は全員揃ってると思うのだが。

 一郎だけが見当たらない。


「一郎だけ住んでるの離れてるから」  


 何気ない調子で答えが帰ってきた。

 恐らくそれ以上の意味はないのだろう。


「アニキ、そろそろ……」


 二葉の目尻は珍しく下がっている。

 いかにも不安そう。

 これは本当に急がないと遅刻だな。


「じゃ、またな」


「うん、またねー」


 子供達を背にして、学校への道につく。


 二葉が心配そうな顔で話しかけてくる。


「ヒドイ目にあったね。制服汚れなかったのが幸いだったけど」


 全てのゴミ袋が雨対策でビニールに包まれてたおかげ。

 このマナーの良さは、さすが高級住宅街。


「幸いどころか、本当にラッキーだったかもだぞ」


「えっ!?」


 二葉が目を見開く。


 そう、俺にとっても思いがけないことが起こった。

 思い出しかけてた記憶が、子供達の悪戯によって蘇ったのだ。


 そして、その内容は……。


「もしかしたら、ヒロインBを探し出せるかもしれない」


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