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82 1994/11/29 tue 珍宝堂前:何だったら接吻してくれてもいいんだぞ

 ──さらに三時間が経過。


 日はとっぷり落ち、珍宝堂入口上部にある時計は一九時前を指そうとしている。

 入口前は照明が灯っているから、むしろ日暮れ時よりは見やすくなっている。


 もう夜だけに冷え込んできた。

 その一方で、風からは晩秋特有の尖った痛さが感じられない。

 清々しくも、どこかぬるく柔らかい。

 さっきの雲の様子からすると……降ってくるかもな。


「アニキ、退屈なんですけど」


 鍛えているだけあって、二葉の姿勢に緩みはない。

 しかし目は半開き。


「これも監視だ、我慢しろ」


「金ちゃんから目を離せなくて、しょぼしょぼするんですけど」


「少し休んでていいぞ、俺が見てるから」


「ん……」


 二葉が大きく背伸びをしてから膝の屈伸、伸ばした勢いでピョンと軽く跳ねる。

 基本ベースは体を動かすのが大好きな元気っ子ヒロイン。

 じっとしているのは苦手なのだろう。

 傍から見れば目立つけど、暗くなった今ならこれくらいは許されていい。


「体調の方はどうだ? 熱っぽいとかないか?」


「大丈夫。それよりも……」


「ん?」


「金ちゃんがかわいそう。もうこんなに冷え込んじゃったし……寒くないかな……」


 なんだ?

 さっきの「胸がチクチク」と明らかに語感が違う。

 先程のはいかにも「申し訳ない」程度だったが、妙に切なそう。

 どこか愛おしそうですらある。


 金之助から目を離さない程度に二葉を視界に入れる。

 目が潤み、焦点が定まってない。

 いったいどうしたんだ。


「ふた──」


 あれ? ほっぺに……手に……ぽつぽつ……雨だ!

 そう思った時には、もう大豪雨。

 頭はびしょ濡れ、メガネはボヤけ、何がなんだか。

 とにかく雨やどりしないと。


 改めて二葉に呼びかける。


「そこの屋根に入るぞ!」


 かろうじて見える二葉の手首をつかも──右手が空を切る。

 えっ?

 突然の違和感に頭を起こす。


 二葉は横断歩道へ向かって駆け出していた。

 何が起こった? いや考えるのは後だ。

 とにかく追わないと!


 二葉が足を前に出す度、水しぶきが立ち上がる。

 足元からぱしゃぱしゃ音が鳴る。

 水浸しのタイル舗装がつるつる滑って走りづらい。


 ようやく車道のコンクリート。

 ちょうど信号が青に変わる──って!

 二葉は赤信号の車道を突き進んでいたのか。

 何が二葉を追い立てている!?


 走りながら二葉が上着を脱ぎ始めた。

 二葉の速度が落ち、距離が縮まっていく。


 暗闇に白いワイシャツが光る。

 二葉が制服を右手に持ち──振り下ろした!?

 そこにいたのは金之助。

 頭には二葉の制服が被されていた。


 ハアハア……俺も横断歩道を渡り切る。

 金之助の白い歯がキラリと闇に光る。


「よう、二葉。その男装はどうした?」


 二葉は、金之助を見上げながら怒鳴りつけた。


「『よう』じゃない! どうしてこんな時間まで待ってるのよ!」


「二葉が『相談ある』って言ったから。大事な相談だったらまずいしさ」


 うわっ、なんというブーメラン。

 イヤミなくさらりとこんなセリフを言ってのけるなんて。

 罪悪感を責め立てて他人をコントロールするのはスパイテクニックの一つ。

 一樹とは別の方向で一級の工作員になれそうだ。


 二人の目には間違いなく俺が映っていない。

 二葉の声がさらに大きくなる。


「雨やどりすればいいじゃない!」


「二葉が俺を見つけづらくなるかと思ってさ」


「風邪ひいたらどうすんのよ!」


「お前のその黒く透けたスポブラ見られるなら、風邪を引くのも悪くないさ」


「バカバカバカバカ!」


 ──金之助の見えない目が光った気がした。


 二葉の顔が崩れ、体を前に投げ出そうとする。

 金之助が両手を広げる。

 まずい!

 そう思ったとき、俺は金之助の胸元に飛び込んでいた。


 金之助のごつい指が、背中の脂肪に食い込んでいく。 


「うああああああああああああああああああああ!」


「ふふふ。金之助よ、照れるじゃないか。俺のことがそんなに好きなのか?」


「そんなわけないだろう! 今すぐ離れろ!」


「抱きしめてきたのはお前だろうが。何だったら接吻してくれてもいいんだぞ」


 むちゅっと唇を突き出す。

 金之助は俺の両肩を掴みひきはがそうとしてくる。


「おえええええええええ! 寄るな、寄るなああああ!」


「ふん、先日も言ったはずだぞ。『二葉にちょっかい掛けるのは止めろ』とな。まだ手を出すつもりなら、我が荒ぶるエクスカリバーをもって失血死するまで指導してやるぞ」


「アニキ……」


「わかった! わかったから!」


 金之助から離れる。

 そして頭にかぶせられた学生服を取上げ、再び二葉の肩にかける。

 このままじゃ二葉が風邪を引いてしまう。


「アニキ、ありがと」


 二葉が学生服を着終えるのを確認し、二人に向けて人差し指を跳ね上げる。

 「ついてこい」と合図。


 珍宝堂の軒下に向かいながら思考をまとめる。

 一応は一段落というべきなのか……。


 さっきのもきっとフラグだ。

 詳しくは帰ってから二葉に説明するとして。

 果たして止めてよかったのか。

 ある程度は成り行き任せにした方が、イジラッシの言う通り先を読みやすくなるはず。

 変な方向で未来が変わらないとも言えないわけだし。


 でも咄嗟に体が動いてしまった。

 もうこれは「アニキのサガ」とでも言うしかない。

 一樹よ、きっとお前でも同じことしたよな。

 さっきは自分でもいつ体を動かしたのかわからなかった。

 それが証拠だ。

 たとえ口には出せずとも体は動く。

 それが俺達アニキという生き物なのだから。


 ──軒先に入ったところで、金之助が口を開いた。


「二葉、相談っていったい何だったわけ?」


「アニキを真人間にするにはこれからどうすればいいか、金ちゃんにも一緒に考えてもらおうと思って」


 二葉が淀みなく答える。

 さっきまでの妙な感じは既に見受けられない。


「さっきのセリフ聞く限りじゃ、もう既に真人間じゃないの? というか、オマエら一緒だったの?」


「えと……」


 二葉は返答を考えてないっぽいな。

 会話に割り込む。


「たまたまだ。俺は金之助を観察対象として眺めていただけだからな」


「観察対象?」


「お前の周りには指導したくなるようなイベントが次から次へ起こる。だったらたまにはパンツを眺める側の男を被写体にしてみるのも悪くないと思ったんだよ──いってえ!」


「アニキ、まだ懲りない?」


 脛には二葉の足が飛んでいた。

 金之助があきれたように口を開く。


「俺の認識が甘かったようだ。これは相談したくもなるな」


「でしょ?」


 二葉が次々に調子を合わせていく。

 つくづくこいつは勘がいい。


「それで金之助。さっきのパンツはどうだったんだ?」


 金之助の口がにへらと緩む。


「黒パンストに白パンツはいいものだなあ。あのコントラストを見たら、一樹が盗撮にハマるキモチがわからなくもなかったよ」


「金ちゃん!」


 叫ぶ二葉を余所に、会話を続ける。


「それで、さっき何かもらってなかったか?」


「ああ、名刺と働いてるお店の招待チケット。高級クラブとかなんとか書いてたっけ」


「ほお。なら俺が見てやろう」


「どうしてそんなにえらそうなんだよ……ほら」


 もう少し演技が必要かと思ったが、まったく警戒なさげに差し出してきた。

 やはりこの辺りは高校生か。

 すれてないというべきか。


 名刺には【桃井 空】と書かれている。

 やっぱり間違いない、「空さん」だ。


 チケットには【高級クラブ シルクロード】と書いてある。

 なんていかにもな飲み屋の名前だが、そこはどうでもいい。

 高級クラブ、つまりゲームの設定通りであることは確認できた。


 そして住所は【天照町】。

 電車に乗って移動する隣町。

 だったら……。


「それで金之助は、これから高校生のくせに指導されても仕方ない店へ行くつもりなのか?」


「おう。『年齢誤魔化してあげるから』とか言ってたからさ。面白そうだし行ってみようかなっと」


「金ちゃん!!」


 二葉がさらに声を荒げる。

 この辺りはきっと素だろう。


「そうか」


 仕方ない。

 財布から五百円玉を取り出し、金之助の手に置く。


「一樹、これは?」


「昨日ゲーセンで百円借りただろ? 利子つけて返してやる」


「利子はいらねえよ」


 金之助が返そうとしてくるので、両手をポケットにつっこむ。

 遠回しに「受け取らない」という意思表示のジェスチャー。


「だったら釣りは今度渡してくれ。あいにく百円玉がないんだ」


「今返すって──」


「二葉を早く家に連れて帰りたいんだよ。このままじゃ風邪ひいてしまうんでな」


「それもそうか。じゃあ、釣りはまた学校で会った時に」


 金之助が無造作に五百円玉をポケットへ。

 これなら大丈夫だろう。


 終わったとみてとったか、二葉が会話を締めにかかる。


「じゃあ金ちゃん、長い時間待たせちゃってごめんね。今度埋め合わせするからさ」


「ああ、二人とも風邪ひかないように気を付けろよ」


 金之助が手を振りながら駅の方角へ歩いていく。


「二葉、走るぞ」


「うん」


 ──走りに走って自宅到着。


 二葉がポケットから鍵を取り出しつつ、怪訝な顔を向ける。


「アニキ、あの五百円は?」


 ああ……。


「金之助は今から全財産を失うんだ」


「はいいいいいいいいいいいいい?」


「さっき金之助がもらったチケットは、あくまでも『招待券』でさ。飲食代は別なんだ。空さんに乗せられた金之助は、ついつい好き放題飲み食いしてしまって叩き出される。財布の中のお金を全部とられてな」


 二葉の口元がゆがむ。


「いわゆるぼったくり店?」


「店自体は違うんだけど……報復だよ。街中であんな辱め受ければ、恨んで当然だろう」


「まあ、そうね」


「だから帰りの交通費として渡した。定期は持ってないはずだし」


 金之助に定期を買うという発想があったら、ゲームシステムにおいても「定期を買う」というコマンドがなくてはおかしい。

 そしてゼロになるのは財布の中身、ポケットに入ってる分には多分大丈夫だろう。


「ふんふん」


「金之助にはこれから動いてもらわないといけないし、天照町に行ってしまったままになるとまずいからさ」


「なるほど、理解はした──」


 その返事とは裏腹に、二葉が首をかしげる。


「──だけど別の質問いいかな?」


「どうした?」


「もし、アニキがお金渡さなかったらどうやって帰ってくるの? 金ちゃん一文無しになっちゃうんでしょ?」


「天照町にはバイトできる場所があるんだよ。工事現場で肉体労働。それなりのお金にはなるけど、時間もかなり取られちゃう」


「ふんふん」


「それにもし今後金之助が空さんルートを歩むなら、お金はいくらあっても足りない。次のフラグが立つまでは、店へ行くたび全財産ゼロになるから」


「はあ?」


「場合によっては空さん対策も考えないといけなくなるかもな」


 玄関に入ると、二葉がダッシュでバスタオルを持ってきてくれた。


「ありがと」


「じゃあ、お風呂沸かしてくるね」


「そのまま先に入ってこい、俺は後でいいから」


 二葉が再び駆け出そうとする──も、くるりと振り向いた。

 どこかイヤったらしいニヤニヤ顔を浮かべながら。


「一緒に入る?」


「とっとと行け!」


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