71 1994/11/29 tue 2-B教室:アタシのだから、返せよ
「一樹君、ごきげんよう」
芽生がにこやかに会釈してくる。
「あ、ああ……」
どう対処していいのかわからない。
曖昧に生返事で答える。
芽生が、ついっと距離を縮めてきた。
優しげながらもピリっとしたフローラルの香りが鼻孔をつく。
気を許すとヒドイ目に遭いそうな。
それでいてふんわりとろけたくなるような……。
頬を撫でてきた。
「ケガは大丈夫?──」
切なげに潤んだ瞳で見上げてくる。
目元のほくろが慈愛を感じさせる。
騙されたらダメ、わかっているのに固まるしかない。
「──昨日は散々だったよね。なんてひどいことするのかしら……誰かさんは」
芽生が目線をちらりと背に向けた。
「二葉!」
二葉は龍舞さんと負けず劣らずの仏頂面。
「今頃気づいたんだ。あーあ、仲のよろしいことで」
なんてトゲのあるイヤミだ。
言われても仕方ないとは思うけど。
ただその感情は俺よりも芽生に向けられている気がする。
しかし余計に状況がわからなくなったぞ。
なぜ芽生が?
しかも二葉と一緒に?
そしてさっき、芽生は「アキラ」と呼んだよな?
この二人って付き合いあったっけか?
龍舞さんルートをほとんど知らないから、まるでわからない。
芽生ルートではそんなの出てこなかったし。
一気に情報を与えられて、頭がパンクしそうだ。
ここは一旦黙って様子を見よう。
芽生が龍舞さんに向け、五百円玉をピンッとはじき返す。
龍舞さんはそれを払う様に掴み取ると、ニヤリとしてみせた。
「アタシのだから、返せよ」
なんて男の夢見る至高のセリフ。
だけどそれは発言の主と状況が揃ってこそ。
龍舞さんに言われたって全然嬉しくない。
このやりとりからすれば二人は旧知の仲なのだろう。
「はいはい。一樹君がそれを望むのならね」
芽生がくすりと意味ありげな返事をする。
いったい俺と龍舞さん、どちらを茶化したつもりなのか。
ここで二葉がぼそりと口を挟んできた。
「さすがは外部生同士、仲がよろしいことで」
二人に対するあてこすり。
ただ恐らくこれは……「探り」だ。
二人の関係がわからないから、具体的に言わせるための。
内部生と外部生の仲が悪いことは昨日聞かされたが、それを外部生の前でわざわざ口にする二葉ではない。
龍舞さんがぼそりと吐き捨てる。
「別に仲がいいわけじゃない」
芽生が龍舞さんを見ながら、くすりと笑う。
「相変わらずね。そんな憎まれ口利いてると、もうノート貸してあげないわよ」
はああああああああああああああ?
期待してたのとは全く別の意味で驚く言葉が返ってきた。
二人にきょろきょろ目を動かしたい衝動を抑え、まっすぐ二葉を見る。
二葉は目を丸くしていた。
その一方で口はへの字をしている。
明らかに叫びたいのを押し殺した顔。
二葉の思ったことは俺と同じだ。
ここは驚いてもよさそうに見えてダメなところ。
なぜなら俺達の驚きの前提にあるのは龍舞さんの行動に対する考察。
「なぜ驚く」、そう聞かれたとき俺達は答えようがない。
要らぬ墓穴を掘りかねない。
本来は驚く話じゃない。
龍舞さんは一樹に写させたノートを使っていない。
この俺達の予想は当たっていたのだから。
だったら他から借りることだって当然ありうるだろう。
ただその入手先が斜め上だったから驚くわけで。
きっと俺も二葉と同じ顔をしているはず。
意識して口元を緩める。
龍舞さんがこちらを向いた。
「そうだ、一樹。昨日までの分のノート出せ」
言われるままに、先程のプリントアウト分を貼ったノートを差し出す。
龍舞さんがパラパラと眺める……眉をひそめた。
「これは何だよ」
「ワープロだよ」
思った通りの反応、胸を張って答える。
「ワープロだぁ?」
さて、ここだ。
俺達の推測で正解なら、これで納得するはず。
「ちゃんと自分で打ったぞ」
「ふーん」
龍舞さんが二葉に目を向ける。
「おい、妹」
「あたしには『二葉』という名前がありますけど」
二葉が憮然とする。
昨日は「怖い」とか言ってたが、カチンと来た方が優ったか。
やっぱりこいつは短気だ。
「妹は妹だろう。これ、キサマが手伝ったんじゃないだろうな?」
龍舞さんが二葉の瞳を覗き込む。
いわゆるうガンをくれたと言うべきか。
しかし二葉は身じろぎしない。
「どうしてあたしがそんなことしないといけないのさ。ノート貸すのもイヤだったのに」
さらり平然とかわしてのける。
予定通りながらも流石と言うべきか。
「ふん、ならいいだろう。書こうと打とうと自分でやったのなら構わない」
鼻を鳴らしながら、ノートをカバンにしまう。
結局ノートの入手先以外は俺達の予想通りだったか。
なんてサイアクな女だ。
さっき御礼を言ったのがバカらしくなる。
龍舞さんが芽生に目を向け直す。
「芽生、この酔狂としか思えない組合せで何をするつもりだ?」
さしもの龍舞さんですらそう思うか。
他人のことなんてまるで関心なさそうなのに。
「酔狂とは失礼ね。せっかく一樹君が真人間に生まれ変わるって宣言したんですもの。チア部としては応援のランチくらい奢ってあげたくなって当然でしょう?」
芽生がにこやかに返答する。
ああ、これぞ天使の微笑み。
わかってはいても騙されたくなる。
芽生といい、二葉といい。
俺の脳裏にチアリーダースマイルが新たなトラウマとして刻まれそうだ。
「ふーん……」
「アキラもよかったら一緒にランチいかが? さっき聞こえたけど、これからお昼買ってきてもらうところだったんでしょう?」
「遠慮しとくよ。どう考えてもメシが不味くなりそうだし──」
龍舞さんが立ち上がる。
「──でも購買までは付き合おう。どうせけろさんど買いに行くし」
「本当に相変わらずね。たまにはうささんどにすればいいのに」
龍舞さんがキッと芽生を睨みこむ。
「しれっとアタシにうささんど食べさせて、大笑いしたのはキサマだろうが」
「あら、そうだったかしら?」
「とぼけるな。よくもフランスの血を引くアタシに『悪魔のソース』そのもの食べさせやがって。あの恨みは生涯忘れないからな!」
悪魔のソースは、カイエンペッパーやマスタードを混ぜて作ったフレンチでも珍しい激辛ソース。
つまりうささんどよりけろさんどなのは、本当に辛い物を食べられないからなのか。
まさかこんなどうでもいい理由まで当たるとは。
芽生が龍舞さんの眼光をかわすかのように身を翻す。
そして教室の扉へ向け、歩を踏み出した。
「恨みというのは忘れるためにあるものよ。では、参りましょうか」
もう全力でイヤな予感しかしない。
※※※
廊下に出る。
二葉に芽生に龍舞さん、三人が無言で並んで歩く。
俺はその後ろをてくてくついていく。
女子生徒達のひそひそ声が聞こえてくる。
(ぷっ、あの一樹の顔見てよ。三倍に膨れ上がってる)
(うっわー。キモさ大増量って感じ)
(二葉ちゃんが処刑したって話、ホントだったんだ)
(ざまぁだよね)
(やりすぎじゃない? ちょっとヒクわ)
(えー、一樹の自業自得じゃん)
(あたしは満足かなあ。これで盗撮やめてもらえれば、それでいいや)
(でも二葉ちゃんって、怒らせると怖いんだね)
(むしろ「やるときはやる」って感じじゃない? じゃないと学園に君臨するチア部の部長は務まらないでしょ)
(そのくせ全然気取ってないんだよなあ)
(カッコいいしね~。ああ、あの平らな胸に抱かれたいなあ)
(ずる~い、二葉ちゃんは私の王子さまなんだから)
まさしく若杉先生の語った二葉の思惑そのままだ。
やはり俺はこれくらいやられないと足りなかったというべきだろう。
その一方で二葉の評判はさほど地に落ちているわけではない。
ただ王子様扱いされることについては、やっぱり不憫としか言いようがない。
※※※
階段へ。
男子生徒のひそひそ声が聞こえる。
(どうして一樹があの三人と歩いてるんだ?)
(二葉は妹だしわかるけどよ。昨日ひと悶着あったらしいしさ)
(監視ってとこか)
(そうじゃね? 一樹が本当に真人間になったらどうしてくれんだよ。イジメる理由がなくなるじゃねえか)
(俺達からオモチャとりあげるんじゃねえよ。ったく、女のクセに勉強できるわ運動できるわ、マジ気に食わない)
(そういえば芽生が飛び込んで助けたんだって?)
(芽生様と呼べ。ああ、俺の下半身を強化してもらいたい)
(華小路君に聞かれたら殺されるぞ。せめて俺みたいにオカズで我慢しろ)
(いつ見ても美人だよなあ)
(あの泣きぼくろがエロくてたまらん)
(腰も足も細いしさ、でも出るとこは出てるのがこれまた)
(勉強も運動もできるし、完璧超人だよなあ)
(それで、どうして龍舞さんまで一緒なんだ?)
(さあ……見ない振り、見ない振り)
(うむ)
好き放題言いやがって。
でも二葉と芽生の差が如実に表れた会話だ。
同じ勉強と運動ができる女の子なのに正反対の言われよう。
この差はどこから来るのか。
恐らく……王道かどうかだろうな。
芽生はいかにも男のしてほしい振る舞いをしてくれる。
昨日庇ってくれたのもそう。
さっきケガを慮ってくれたのもそう。
加えて容姿的に、いかにも劣情の対象。
芽生とやりたいと思うし、もしかしたらやらせてくれるかも。
そんな期待感を持たせてくれる。
要するに、あざといのだ。
男としては自分の思う通りの行動してくれる女は、自分を立ててくれるかに映る。
つまり自分の方が上と思わせてくれる。
対する二葉は、そうではない。
実際には気が利くし優しいのだが、その内面はキャラに打ち消されてしまっている。
男に媚びた態度もとらない。
かわいくはあるが、オカズにというキャラではない。
だとすると、単に男の地位を脅かすだけのムカつく女ということになるのだろう。
だからこその「羞恥」という特性。
本来自らの上に立つ者を辱めるところで征服欲が満たされるのだ。
実際に羞恥させるのは金之助か華小路か一樹。
どれをとっても一般人とかけ離れた存在であるには違いないのだが。
一緒に歩いてるとみられてろくなことはなさそう。
少し距離を取って歩こう。
※※※
一階廊下へ。
再び女子生徒のひそひそ声が聞こえる。
(あの組み合わせって何?)
(理解不能なんですけど)
(龍舞さんが誰かと一緒に歩いてるところなんて初めて見た)
(しーっ! 聞こえたらどうするの?)
(でもでもでも、並んで歩いてるのが芽生ちゃんと二葉ちゃんだよ。あの二人って、超犬猿の仲じゃんか)
(芽生に「ちゃん」付けなんか要らないよ。並べられる二葉ちゃんがかわいそう)
(外部生風情が)
(男媚び、マジうざい)
(死ねばいいのに)
(しーっ、あの子だって公麿組だよ。聞こえたらまずいってば)
(だから余計にむかつくんだよ。あたしだって公麿組入りたいのに)
(二葉ちゃんも二葉ちゃんだよ。チア部の部長って内部生の代表みたいなもんじゃん。外部生なんかと並んで歩かないでよ)
〈ホントだよね。内部生の品位が穢れるじゃん)
(もしかして……龍舞さんと芽生が結託して、二葉ちゃんを私刑?)
(大変、先生呼ばないと!)
(うちの学校の先生が止めるわけないじゃん)
(若杉先生ならきっと!)
(そうだね、保健室行こう!)
女子生徒達は駆け出して行った。
方向的に見て、本当に保健室へ向かったのだろう。
まあ、若杉先生がこんな子供の戯言を真に受けるとも思えない。
ある程度は事情も知ってるわけだし放っておこう。
しかし男子との温度差がすごい。
芽生の男子から好かれる特性って、女子からは嫌われる特性でもあるしな。
まして外部生とくれば、この言われようも当たり前だろう。
ただ芽生も、チア部では外部生派閥を率いる身。
もしかしたら外部生からの印象は違うのかもしれないが。
もう一つ注目すべきは……龍舞さんの存在感。
龍舞さんだって芽生と同じく外部生。
それなのに陰口すら叩かせないって。
奴隷の身としてはイヤでも納得させられるが。
※※※
購買に到着──あれ?
そこには昨日より一層大きな人だかりができていた。




