05 1994/11/26 sat バスルーム:あん、シャワーが……強くて、いい……赤くなって……緩んじゃう……
眼鏡を外すと視界がぼやける。
ただ俺も目が悪いから違和感はない。
ボディソープをしっかりと泡立て、体を洗う。
流しても悪臭が漂ってる気がするので、もう一回洗う。
一樹だと垢が脂肪の裏にこびりついてしまってそうだ。
続いて洗髪。
二昔前のステレオタイプなキモオタカット。
無駄に髪を伸ばしてくれてるせいで、洗うのが手間だ。
最後に洗顔。
ぬるめの温水で顔を流し、泡立てた洗顔料で柔らかく撫でる。
冷水で仕上げ……冷たっ!
でも、ぬたぬたの脂顔だけにしっかりケアしないと。
湯船につかる。
ああ、疲れ切っていた脳が和らいでいく。
決して正体がばれない様に振る舞うためにも、ここで英気を養わなくては。
しかし「アニキ」か……。
そう呼ばれるのは妹を亡くしてから五年ぶりだ。
一つ下の妹は、旅行先の中東でテロに巻き込まれて死んだ。
内調に就職したのは、妹みたいな人間を二度と出したくないと思ったからだ。
妹はとことん俺に懐いていた。
中学に入るまではお風呂も一緒に入ってたくらい。
「アニキ、入るよ」
そう、こんな風に……って、ええっ!
開いた扉の向こうには、バスタオルを体に巻き付けた二葉がいた。
「な、な、何のつもりだ」
「帰ってきた時はきつく言い過ぎたしさ。お詫びに背中を流そうかなって」
「い、い、妹にそんな事させられるか」
「兄妹だからこそじゃん。たまには昔みたいに一緒に入りたいなって、ね」
パスケースの写真から、当時それくらい仲良かったのはわかる。
二葉は照れているのだろう、ぷいっと顔を背ける。
さすがギャルゲーの世界、こんなありえない事があっていいのか。
いや、いいわけがない。
例え世界が許しても俺が許さん。
「もう二人とも一六歳だろうが。出て行け!」
「ぶーぶー、って、あーっ、バスタオルが!」
咄嗟に目を瞑る。
窮屈な湯船の中で体を動かし、二葉に背を向ける。
「早くバスタオル着け直して出て行け」
「んー、もういいや。バスタオル外しちゃえ」
頭にふわりと布の被さる感触。
「あのなあ」
俺はつい反射的に膝を湯船の底につき、上半身を伸ばしていた。
タオルが湯船に浸かるのは許せない。
それどころじゃないはずなんけど、習性とは恐ろしい。
「あっ、やば……急にしたくなっちゃった……」
「何を!」
二葉の反応が一旦止まる──が、消え入りそうな声で伝えてきた。
「アニキにさっき見られた……あれ」
「今すぐに出ろ! さっさとトイレ行け!」
しかし、さらにとんでもない事を言い出した。
「もういいや、ここでしちゃえ」
「『しちゃえ』じゃねえ!」
「恥ずかしいからシャワーで流しながらするけど……こっち見ないでね」
「見るか! つか、無視するな! やめてくれ!」
しかし俺の切なる願いは、流れ出すシャワーの音にかき消された。
「ん、んん……はあ……あ」
何かから解放されるがごとくの切なげでいて満ち足りた吐息。
さっきトイレで目にした光景が脳内で鮮明に蘇ってくる。
「アニキ……見てない振りして実は見てるんでしょ? いいよ……見ても」
「見てないから! 見ないから!」
シャワーの音がくぐもる。
二葉の声が近づき、首筋に微かな吐息を感じる。
「あん、シャワーが……強くて、いい……赤くなって……緩んじゃう……」
「やめろ! ただでさえつんつるりんなのに、これ以上変な想像させるな!」
──冷たっ! 首筋にシャワーを浴びせられた。
「何しやがる!」
反射的に鼻先まで湯船につかる……って、おかしいぞ。
冬も間際な今の時期、体を冷水で流すわけがない。
そう言えば顔を洗う時に冷たく調整したはず。
つまり、あのまま……ということは……。
「ふーん、さっきはしっかりと見たみたいだね」
二葉の口調が変わった。
完全に素に戻った。
シャワーの音がフェードアウトしていく。
キュッと蛇口が締まる音がする。
「こっちを向いて」
言葉に従い、体の向きを戻してゆっくりと目を開ける。
そこにいたのはもちろん二葉。
ただしキャミソールにブルマを着用していた。
「からかうのもいい加減にしろ、何のつもりだ」
しかし二葉は俺の問いに答えない。
「ねえ、お兄ちゃん」
お兄ちゃん? 戸惑う俺に向け、二葉は本日初めてにこりと笑った。
「アニキの顔したあなたはだぁれ?」
えっ………………ちょっと待てえええええええええええええ!
怪しまれてる?
なぜ?
どうして?
とにかくこの場を誤魔化すんだ!
「何の事?」
二葉は唇を結んだまま、じっと目を覗き込んでくる。
気まずいので視線を下に落とす──と、もっと気まずいものが見えてしまった。
顔を背ける。
「やましい事がないなら、こっちを見なさいよ」
「いや、違うって。お前……乳首見えてる」
二葉の胸は真っ平ら。
だから前屈みになったせいでキャミの隙間から見えてしまったのだ。
「大した余裕だね。これ以上ふざけるなら、今すぐ父さんに電話するよ」
「ふざけてるつもりはないけど……父さん?」
顔を戻すと、二葉はコードレスホンを手にしていた。
「あなたは父さんの立場を知ってる人間だよね──」
ええ、つい本日の朝方に知りましたが。
「──父さんから聞いた話だと、日本国内には日本人になりすました敵国のスパイがわんさかいるらしいじゃない。あなたもその内の一人なんでしょう」
思い切り首を横に振る。
どうしてギャルゲーでそんな生臭い話が出てくる。
「じゃあ、どこの誰? 言えないなら父に……」
二葉の指が電話のボタンに伸びる、やばい!
「違う! 確かに俺はアニキじゃない、だけど本当にお前のアニキだ!」
「何を訳わかんないこと言ってるのさ」
「俺にだって訳がわからない! だけど本当にそうなんだ!」
叫びの残響が消えるとともに沈黙が流れた。
幾ばくか後、二葉が「ふう」と嘆息をつく。
「きっと事情があるんだろうね。後でゆっくり聞かせてもらうよ」
二葉が立ち上がり、くるりと背を向けた。
「信じてくれるの?」
「そういうわけじゃないけど、悪い人には見えないから。それにね──」
首を捻って、ちらりと目線を寄越す。
「──母さんも父さんと一緒にK県だから、あたし達兄妹は二人暮らしなんだよ」
「えっ!?」
じゃあまさか、さっきのドア越しの会話は……やられた。
二葉は口角をわずかに上げ、目線を切った。
「ごゆっくり。湯冷めしない様に温まってね」
浴室から出る二葉を見やりながら、口まで湯船に浸かり直す。
ちくしょう。
思い切りバカにしやがって。
別れ際の二葉の台詞は「あなたはスパイじゃないよね」という意味でもある。
兄妹二人暮らし、そんな事すら調べず潜入するスパイなんて無能この上ないから。
きっと二葉は善意のつもりで口にしたのだろう。
言葉通り、ゆっくり入浴できるように。
しかし図らずも俺の職業は本当にスパイ。
しかも誤魔化しきれると本気で考えていた。
皮肉にしか聞こえないし、反論もできない。
なんて、むかつく!
でも、どこで気づいた?
この状況で問い詰めてきた理由はわかる。
入浴時は肉体的にも精神的にも無防備になるから、他人を陥れる絶好の機会となる。
二葉はかなり頭が回る印象だし、そこは間違いなく計算したはずだ。
また確信を得たのはドア越しの会話だったこともわかる。
問題は、カマを掛けてきた動機だ。
試すという行為は疑念の存在を前提とする。
つまりあれは二葉が既に疑っていたことを示すに他ならない。
俺は何をした?
そんな致命的なミスをした覚えはないぞ?
まあいい、後はなるようになれ。
今は束の間の極楽に身を委ねよう……。




