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49 1994/11/28 mon リビング:押しつけられるものなら押しつけてみろよ

「トラウマ?」


 そんなのでこの状況から逃げられるなら、いくらでも聞くが。


 二葉が冷蔵庫から小瓶を取り出し、スプーンで中身を小皿にかき出す。

 最後にぽんぽんと底を叩くと差し出してきた。


「まず、これを食べて」


「イカの塩辛?」


「本当は生イカの方がいいんだけど代用ってことで。こちらもあわせてどうぞ──」


 二葉が無愛想にしながらも、白飯をよそった茶碗を差し出してくれる。


「──さすがに塩辛を御飯無しで全部食べるのはきついでしょ。本当なら一気に胃袋へ流しこむように食べてほしいんだけどね」


 また妙な物にトラウマがあるものだな。

 とにかく、この状況でちゃんと夕食を食べられるのはありがたい。

 塩辛をごはんに載せて口に運ぶ。


 うん、美味しい。

 ぬるぬるしたイカが歯をなぞる。

 この心地良いむずがゆさ。

 歯に力を込める、コリっとした後プツンと噛みきれる。

 この瞬間が実に気持ちよい。

 あまり噛まないで呑み込まれたものは、ノドをつるっと通り抜けていく。

 塩辛のしょっぱさと白米の甘味が混じり合い唾液の分泌が促される。

 一言で言えば「食が進む」、これに尽きる。


 ──食べ終わったところで、憮然としたままの二葉が口を開く。


「じゃあ話すよ」 


「聞こうじゃないか」


 二葉がこくりと頷く。

 果たしてイカをめぐるトラウマとはどんなものか。


「アニキなら『イカ臭い』ってのがモテない人を指し示す悪口ってのは知ってるよね。由来の正確な部分も」


「知ってる」


 由来はイカの臭いと精液の臭いが似ていること。

 転じて、アレをナニしてばかりしている童貞野郎という侮蔑用語として用いられる。


 ……と言うか、そっち方面かよ。


「で、妹としては言いたくないんだけど一樹は見た通りだからさ。『イカ星人』って周囲からバカにされてるんだ」


 昼間の盗撮でイカ星人と叫ばれたのは、言葉通りの意味だったのか。

 そんな言葉を公然と口にする人なぞ見たことないから、かえって想像つかなかった。


 ただ、一樹の場合はなあ。

 こういう悪口を言われるのは清潔感に欠ける場合。

 風呂に入らない一樹は言われて当たり前。

 これに限るならイジメとまでは思わない。


 それはそれとしてだ。


「いくら一樹が相手でも、坊ちゃん嬢ちゃんにしては品のない言葉だな」


「実態はそんなもんだよ。心無い人からは妹のあたしまで『イカ娘』呼ばわりだし」


 昼間も、俺を殴りながら言ってたっけ。


「ひどい話だ」


「あたしも敵がいないわけじゃないから……特にチア部ではね」


 二葉が意味深なことを言う。

 若杉先生から触りだけは聞いているのだが。

 迂闊に話題を振れば確実に長くなる。

 二葉は相変わらず不機嫌そうだし、早くこの険悪な空気から脱したい。

 相槌だけを打っておこう。


「うん」


「あたしを含めた二年生の一部と三年生は仲が悪い。一方で二年生の残りと三年生は仲がいい。これが前置きね」


 「一部」というのは内部生を指すのだろう。

 つまり二年生は内部生と外部生は二つに割れていて、一年生と三年生がそれぞれの陣営に丸ごとついていることになる。

 やはり相槌だけを打っておく。


「うん」


「あれは今年の夏休みのこと。チア部であたしが三年生から部長に指名された時の話。三年生主催でその就任祝いがあったんだ」


 そしてさらに相槌を──ではない。

 さすがに聞いておくべきだ。


「ちょっといいか?」


「ん?」


 話の腰を折られたせいか、二葉がますます不機嫌そうになる。


「どうして三年生と仲悪い内部生のお前が指名されるんだ?」


「内部生? それこそどうしてアニキが……『上級生』ではそんなことまで描かれてたの?」


 あ、しまった。

 もういいや。


「若杉先生から少しだけ事情を聞いたんだよ。本来チア部は外部生お断りとかそういうのも」


 二葉が「ああ」と得心した様子を見せる。


「なら話は早いや。あたしが部長に指名されたのはチア部の伝統とOBの圧力」


「伝統と圧力?」


「どうせ後で話すことになるから、ここはそれで流しといて。あたしは一刻も早く、アニキに自分のトラウマを押しつけたいんだから」


 こいつ、はっきりと恐ろしいことを口走りやがった。

 しかし「どうせ後で話す」?

 まるで俺に話す必然性があるような言い方だな。

 ま、それはいい。

 あえて挑発に乗ってやろう。


「押しつけられるものなら押しつけてみろよ」


 二葉が、ふっと小馬鹿にした様な笑みを見せる。

 よっぽど自信があるのあろう。


 しかし悪いが、オチは既に読めている。

 イカに夏とくればイカソーメン。

 恐らく先輩から「祝い」と称した意地悪として出されたのだ。

 「イカ娘なあなたにはこれがお似合いよ」とか言って。

 しかもそれはきっと鮮度の悪い代物。

 まさに異臭を放つらしいから。

 それでもチア部は体育会系。

 先輩の命令とあらば全部食べなくてはいけない。

 もしそうだとすれば食中毒のオマケがついてきたまである。


 驚いてはやろう。

 しかしそれはお前の機嫌をとってやるというだけ。

 二葉よ、俺の手の平で踊るがよい。


「アニキ、もう一回最初から話すよ。あれは今年の夏休みのこと。チア部であたしが三年生から部長に指名された時の話。三年生主催でその就任祝いがあったんだ」


 さっきと一言一句まったく変わらないのは気のせいだろうか?

 普通は何か一文字くらい変わるものだけど。


 ……まあいいや。


「うん、それで?」


「宴もたけなわ。前部長はサプライズゲストとして『料理の変人』と呼ばれる高名なシェフを呼んできたのね」


 元の名前はかろうじて覚えてる。

 大昔テレビでやってた、やたら仰々しい司会がインパクトあるバラエティ番組だ。

 でも、「変人」じゃダメだろ。


 ……まあいいや。


「うん、それで?」


「変人の料理が食べられるのか。部長も最後には粋な計らいをしてくれるものだ。そう思ってあたし達は歓喜した。しかしそれは束の間だった」


「うん、それで?」


「前部長が『渡会さん(・・・・)の新体制で頑張るあなた達にはこの料理こそ相応しいでしょう。夏と戦う精力もつきますわよ』、そう言われた時はもうイヤな予感しかしなかった」


渡会さん(・・・・)って強調してるのは?」


 二葉がきっ、と睨んでくる。


「『イカ娘』って遠回しに言ってるんだよ」


 皮肉の言い回しがいかにもスノッビーだなあ。

 しかし俺の予想はどんぴしゃり、我ながらなんて素晴らしい。


「うん、それで?」 


「あたし達の前に、激しい臭いを放つ巨大な大皿が差し出された。そこには細長く短冊上に切られたモノがどっさり大量に載せられていた。それは──」


 来るぞ、驚く準備だ。


「──『牛のアレの油炒め』だった」


「はああああああああああああ!?」


 驚いた。

 これは心底から驚いた。

 そんな料理の名前が出てこようとは全く想像しなかった。


 アレってやっぱアレだよな?

 生物学上オスと分類される場合はみんな持ってるアレだよな?


「珍しい料理じゃあるけど、そこまで驚くことないでしょう」


「いや、てっきりイカソーメンが出てくるものかと思ったから」


 二葉が呆れた顔で溜息をつく。


「あたしはイカソーメンがトラウマだなんて一言も言ってないけど? もしやアニキって小学校の通信簿に『人の話は最後まで聞きなさい』とか書かれた人?」


「書かれるか! 『激しい臭い』ってなんだよ!」


「油の激しい臭い。中華だもん」


「イカの塩辛出して、もっともらしく『本当は生イカの方がいいんだけど』とか言ってたじゃないか!」


 二葉が指先を曲げて、テーブルをとんとん叩く。


「小学校の先生の代わりに言わせてもらう。人の話は最後まで聞いてくれない?」


 いかにも苛立ち混じり。

 その様に文句も言えない。


「続けろよ」


「食べられないものじゃなさそうだし、とりあえず部員達は箸をのばした。しかし、あたしを除く全員は口にした瞬間に顔を歪めた。ある子はトイレへ駆け出した」


 あたしを除く?


 ……まあいいや。


「うん、それで?」


「トイレから戻ってきたその子は、嘔吐して汚れたのを洗ったのであろう水塗れの口でこう言った。『カレシのアレをナニした時の感触と同じ』って。顔を歪めていた子達は一斉に頷いた」


「うっげえええええええ!」


 そりゃ吐くわ。


「部員達はすっかり青ざめてしまって皿に箸をのばすことができない。だけど先輩から出された以上は全部食べないといけない」


「体育系だからってわかっちゃいるけど、それって何の罰ゲームだよ」


「そもそもそんな料理が出されたのは『イカ娘』扱いされるあたしが原因だし、新部長としては事態の収拾を図らなくてはならない。そこであたしは両方の責任を果たすべく頑張ることにした」


「頑張るって?」


「大皿を抱え上げて口を端に当て、牛のアレを全部一気に胃袋へ流し込んだ」


「ぶはっ! よくそんなことやったな」


「一樹の妹であるあたしに、それができないと思う?」


 いや、その返事は間違ってるよ。

 誰もそんなこと聞いてないよ。

 色んな意味でお前すげえよ。


「……で?」


「これがまた、噛むとコシのないソーセージって感じでムニュッとしてね。妙な苦みがあるんだ。だから噛まずに呑み込んだんだけどさ」


「そこまで言わんでいい」


「いいや、聞いてもらう。もう生理的に受け付けなくて、まるで体中の毛が逆立つ様な寒気に襲われたんだけどさ。細切りのアレがイカソーメンよろしく喉をつるつる通っていくのに、余計ゾワゾワさせられてね」


「生イカはここにかかるわけか」


 二葉がこくりと頷く。


「……それで?」


「気持ち悪いわ、油がたっぷり絡まってたせいで胸焼けはひどいわ。おかげで数日寝込むハメになった。それ以来、あたしは牛のアレの油炒めがトラウマになったってわけ」


 二葉がヤレヤレとばかりに首を振る。

 しかしヤレヤレと言いたいのは俺の方だ。


 二葉が勝ち誇ったようにニヤっとする。


「どう? これでアニキも牛のアレの油炒めが食べられなくなったでしょ?」 


「そんなもん最初から食べるか!」


 斜め上を行くにも程がある。

 トラウマ以前に、ゴキブリの天ぷらレベルで食べたくない代物じゃないか。


「ふん。本題はここからだよ」


「本題?」


 まだ続くの?


「あれはあたしがアレの一気食いをしてから三日後の朝のことだった──」


 一方的に語り始めやがった。

 仕方ない、耳を傾けよう。


「──ベッドで寝込むあたしの顔を、さわっと何やら横切っていった。重い上体を起こして横切った方向を見やると、そこには壁に張りつくGがいた」


「ぶっ!」


「すかさずあたしは傍らに常備していた殺虫剤を手に取り、そのGに吹き付けた」


「なんでそんなもん常備してるんだ?」


「言ったじゃない。一樹の部屋からGが侵入してきてえらいことになったって」


「ああ……」


 そういえばそうだった。


「ねえ、アニキ」


「ん?」


「あたしが話し終えるまで黙っててくれないかな?」


 明らかにイラっとしたきつめの口調。

 もう、「はい」としか答えられなかった。

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