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42 1994/11/28 mon 保健室:お前、甘いよ

「しみる、しみる、しみる! 先生、もっと優しく!」


「キモい男がガタガタ騒ぐな。みっともない」


「キモいは余計です!」


「そうだったな、これからは生まれ変わるんだったな」


 脱脂綿で顔を拭き取ってくれる若杉先生が、ケラケラと毒づく。

 既にいつもの白衣姿。

 俺が気を失っている間にユニフォームから着替えたようだ。


 目が覚めたら保健室のベッドに寝かされていた。

 窓の外はほぼ陽が落ちているが、真っ暗ではない。

 晩秋だけに空の色ほど時間は遅くなく、まだ夕方と言える時間だ。

 若杉先生によれば、体育館から運んで三〇分も経ってないらしい。


「骨には異常ない。鼻殴られてたから軟骨が心配だったが、それも大丈夫。これで治療は終わりだ」


 もう頭下げてもいいんだよな?


「ありがとうございました」


「そうそう。よしよし、いい子だ」


「頭撫でないでください!」


 中身の年齢は大して変わらないだけに気恥ずかしい。

 しかもこんな当たり前以下のことで。


「『この汚らしい先公がァーッ!!』とは叫ばないのか?」


「叫ぶわけないでしょう」


 若杉先生が切なげに嘆息をつく。


「そうか……残念だな。あのマンガについてとことん語り合えると思ったのに。第四部も盛り上がってきたし、もっと評価されていいはずなんだがなあ」


 一九九四年はそういう時代か。

 確か掲載雑誌が黄金期のピークの頃だっけ。

 評価されていないというより、他のマンガがすごすぎるのだろう。

 俺もちょうど第四部までしか読んでない。

 本来はきっと、若杉先生から「にわか」と呼ばれる組の人種だ。


 しかし、この人はどこまで本気なんだ。


「話には付き合います。ですけど真似については、二葉から『その他、他人様が不快に感じることはしないように心掛けます!』と誓わされたばかりですから」


「マンガキャラを真似ることまでは止めないよ」


「へ?」


 意外な御言葉が。


「私は、だけどな。別に不快じゃないし。そもそも法や道徳に反しない限り、人の趣味は他人がとやかく言うべきものじゃない」


「はあ……」


「ただ処世術として、オタクっぽいところを出さない方がいいとは言っておくよ。世間一般の認識としてオタクに市民権はないからな」


 この頃はまだそういう時代か。

 元の世界だと市民権ないどころか日本を支配してるとすら思う状況だけどな。

 自衛官まで萌えポスターで募集されるくらいだし。


 ただ分別あるオトナであり教師らしい言葉だ。

 俺だって好きこのんでイタい台詞を連発したくはない。

 とにかく考えるのが面倒だし、普通に話したい。

 ありがたく受け取らせてもらおう。


「御教授ありがとうございます、そうさせていただきます」


 若杉先生がくすっと微笑む。


「殊勝なことだ。私も猿芝居に付き合った甲斐があるな」


 ──えっ!?


 今、なんつった?

 猿芝居?

 どういうことだ?

 なぜ若杉先生の口からそんな台詞が出る?

 いったい何に気づいた?


 待て……落ち着け……。

 事情が読めない以上、ここでの対応は慎重にしないと。

 本気でこの人は怖い。

 迂闊な事を口走れば、そこから全て読み取られてしまいそう。

 そうなれば二葉の苦労が台無しになってしまう。


 俺は何も知らない、わからない。

 この点だけは絶対ブレないように。


「猿芝居ってどういうことですか?」


 まずは単純に疑問を示してみせる。

 俺は何も知らないのだから問うてもおかしくはない。


 若杉先生の声のトーンが少し落ちた。


「やっぱり気づいてないのか……渡会妹としてはそれでいいんだろうけど、私としてはお前に知っておいてもらいたい」


 この口ぶりからは、若杉先生が俺に落胆したことがわかる。


 加えて言外に「渡会妹はお前のためにやった」と述べている。

 二葉が話したのか、若杉先生の推測なのか。

 後者なら少なくとも当たらずとも遠からずには至っていることになる。


 また「渡会妹としては」と言っている。

 つまり俺と二葉が組んでいたとは思っていない。

 ひとまず安心できた。

 そこを見抜かれたなら、本日の全てが水泡に帰すのだから。


 慌ててはいけない。

 わざと返事をせず言葉を待つ。

 事情がわかるまでは、とにかく相手に話させないと。


 若杉先生が再び口を開いた。


「私も昨日の渡会兄妹見てなかったら気づかなかったろうし。お前はおろか、部員達に気づかれてしまったらアウトだし」


 つまり、若杉先生の推測。

 二葉が話したのなら、その内容や意図をあれこれ考えないといけないところ。

 推測にすぎないなら神経を使う必要もないから、気は楽になった。

 加えて「私は内緒にしておく」と言外に伝えてきている。

 だったら何を言われようと安心していい。


 真綿で首絞めるような台詞を続けやがって……いや違う。

 俺が問い返さないから話すタイミングを失った。

 それでとりあえず言葉をつなげたといったところか。


 なら単刀直入に聞こう。


「気づくも何も、盗撮見つかってボコにされて説教されてムリヤリ謝らされた。それ以外に何かあるんですか?」


「その『ボコ』だよ。お前に謝らせるだけなら、あそこまでする必要はない。盛り上がってる内に頭下げさせた方が、渡会妹にも部員達にもよかっただろうさ──」


 そこは気になっていた。

 俺の読み通りなら、二葉の策略は成功とまでは言えないのだから。

 「渡会妹にも」とは、制裁したことで株が上がるという程度の意味だろう。


「──ただし、お前と芽生を除いてな」


「はあ?」


 素っ頓狂な声を上げてしまった。

 しかし、ここは許される場面だ。

 「なぜ芽生?」というのも含めて。


「渡会妹は、お前に対する女の子達の怨みを肩代わりしてやったんだよ」


「はああ!?」


 まったく予想しなかった台詞が若杉先生の口から飛び出した。

 若杉先生は、俺が驚きの表情を仕舞うのを見計らったようにして言葉をつなげた。


「お前が本当に生まれ変われるように。そして、お前を部員達──いや、学園の女の子達から守るためにな」


 こういう展開なら、もはやウダウダ考える必要はない。

 もう本当にわからないのだから。


「具体的に話してもらえませんか?」


「言われずともそうするさ」


 若杉先生が前置きしてからタバコに火を点ける。

 煙をゆっくりと吐き出してから言葉をつなぐ。


「渡会妹がお前を謝らせたとき、部員達が彼女に怯えていたのは気づいたか?」


「はい」


「結論から言う。あれは渡会妹がそうなるのを待ってから、お前に謝らせたんだよ。部員達の集団心理を巧みに操ったという意味でも、そこまで制裁したという意味でも、それが全てお前のためって意味でも猿芝居だよ」


 この言葉通りだとすれば、二葉の策略は完全に成功ということになる。

 俺の読みは半分当たって半分外れたということだ。

 まったく事情を知らない若杉先生にそこまで読めるものだろうか?


 しかし、この人が只者じゃないのは体育館のやりとりでわかった。

 教養は並じゃないし、頭も切れる。

 二葉みたいな力押しじゃなく、典型的なカミソリタイプ。

 恐らくちょっとしたヒントがあれば、あっという間にパーツが結びついて答えが出てしまうのだろう。


 ただこれが正解かどうかは、もう少し話を聞いてみないとわかるまい。


「続けていただけますか」


「まず心理操作からだな。渡会妹はわざと部員達を盛り上げ、ピークに持っていった後にどん底まで落とした。それはお前への制裁をより苛烈に見せるためだよ」


「どうしてですか?」


「仮にも身内の渡会妹が容赦なく制裁すれば、部員は所詮他人。ケチつけられないし許すしかなくなるだろう。実際に解散間際は、さしもの部員達も同情の目で見てたよ。体の心配までしてな──」


 そういえば朦朧とした意識の中でそう受け取れるようなやりとりあったような。


「──その分、渡会妹が顰蹙買ったんだよ。『やりすぎ』ってことで」


「それじゃダメじゃないですか!」


 つい叫んでしまう。

 だってそれじゃ失敗じゃないか。

 そうならないためにも、盛り上がってる内に謝らせる必要があったんじゃないか。


 しかし若杉先生はくすりと笑う。


「お前にそう言える心根があって安心したよ」


「からかわないでください」


「からかってなんかないさ。だから、渡会妹はわざとそうしたんだよ。自分が憎まれることでお前から部員達の気をそらしたんだ」


 よくわからない。


「そんなことする必要なんてないでしょう」


 若杉先生が僅かに目を細めた。


「渡会兄。お前、甘いよ」


「甘い?」


「これまで散々働いてきた悪事が、ボコにされて謝らされたくらいでチャラになるとでも思ってるのか?」


「思ってます。この俺が謝ったんですよ」


 言い方はアレだが、会話の流れ的に仕方ない。

 謝った事のない一樹が謝ったんだから、それ相応の価値はあるはずだ。


「謝ったことのないお前が謝った。例え強制されたにしても、お前にとっては一大決心であり転機だったはずだ。そこは私も教育者として認めてやろう」


「はい」


 怒鳴りつけられても仕方ない台詞をやんわりと肯定してくれた。

 この人は本当に人間ができている。


「でもそれは渡会兄の事情、部員達にとっては関係ない。ただ謝るだけじゃ部員達はすっきりして終わり。その後も『ざまあみろ』って悪口が飛び交うさ。お前の『生まれ変わります』なんて誓いは五分も経てば忘れられてるよ」


「ひどい……」


「全然ひどくない。お前はそれ程のことをしてきたし、学園の女の子達の怨みはそれ程までに深いんだ」


 つまり、俺の想像力が足りなかったということか?

 一樹はそこまでに常識外れだから、それを前提にして考えないといけなかった?

 んなアホな……。


 どう答えていいかわからないので黙り込んでいると、若杉先生はさらに続けた。


「それどころか謝ったことのないお前が謝ったって噂が広まれば、学園中の女子全員がお前の元に土下座させるべく殺到しかねないぞ。これまでは『どうせ謝らないんだから言ってもムダ』という諦めの境地にあったからな」


 んなバカな……とは言い切れない。

 言われてしまえば確かにそうも思える。

 想像力だけじゃない。

 現状に対する認識も甘かった。


「俺って八方ふさがりじゃないですか」


「だから渡会妹がそうならないようにしたんだ。恐らく明日には顔がもっと腫れ上がるだろう。それを見てどうこうしようという女子はさすがにいないんじゃないかな……男子はわからないけど」


「男子?」


 なぜここで男子が出てくる?


「そこは後で話すよ。話がややこしくなる」


「はい」


「まあ要するに……お前のためにそこまで体張ってくれた妹の気持ちを理解しろ。そしてその志を絶対ムダにするな。私が言いたいのはそういうことだ」


「わかりました」


 ──と口では事も無げに答えて見せたが、内心は全く違う。


 話を聞いた限り、恐らく若杉先生の推論で正解。

 俺には見えていないものまで、この人は見えているのだから。


 その上でだ。

 二葉……何もそこまでしてくれなくとも……。

 感謝という言葉ではすまされない。

 嬉しいを通り越して、どうすればいいのかわからない。


 前もって計略を話さなかった真の理由もわかった。

 核心部分まで口にしてしまうと、恩着せがましい以外の何物でもない。


「そう不安そうな顔をするな。渡会妹は兄と違って人気者だし人望もある。せいぜい『怒らせると怖い』という評判が加わる程度だよ」


「それならいいんですけど」


「私も部員達に釘を刺しておいたし。渡会兄の制裁が部員達の願望であったのは確か。その責任を渡会妹一人に押しつけるのは卑怯者のすることだ」


 ああ、そういえばそんなことを終わり際に言ってたような。


「ありがとうございます」


「礼には及ばん。ただ、心を縛るカセくらいにはなるだろうよ。渡会妹の読みが外れて暴走という事態もありえなくはないし」


 つまり保険ってことか。

 話からすれば、全く嫌悪が向かわないのも困るが行き過ぎても困るしな。


 ついでだ、これも聞かせてもらおう。


「一つわからないことがありまして。なんで俺のためって言い切れるんですか?」


 若杉先生が「ああ」と頷いてから答える。


「これまで学園で一緒にいるところすら見たことなかった兄妹が、昨日保健室に二人揃ってやってきた。それも距離は近いし、目で会話してる雰囲気すらあった。金曜日か土曜日に何かあって和解したと考えるのが自然だろう」


 この人、怖い。

 唖然と仕掛けたところに、若杉先生がすぐさま付け加えた。


「肯定も否定もいらない。家庭の事情まで詮索するつもりはない」


「はい」


「だったら渡会妹が兄のために動いてもおかしくないって思った。ただ、それだけの話だ。そうじゃないと本日の行動の全てが説明つかなくなる。もしかすると『部員の人気を取ろうとして失敗した愚かな子』という結論に至ったかもな」


 なるほどな。

 これ以上は下手に触れない方がいい、話を変えよう。


「芽生にはなんか申し訳ないです。助けてもらっただけに……」


 若杉先生が口をあんぐり開けて、咥えていたタバコを落とした。


「渡会兄……それ、本気で言ってるのか?」


「そうですけど、何か?」


「やっぱり病院行かせて脳のCTとってもらうべきか」


「何を失礼な!」


「脳がイカれたんでなければ、お前は只のバカだよ。芽生が何の魂胆なくあんなことするわけないだろう」


「はい?」


「ホントにわからないなら教えてやる。あれは芽生の仕掛けた罠だ」


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