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40 1994/11/28 mon 体育館:せめてオトコオンナと呼んで!

「あ……うん……」


 それしか返せなかった。

 だって今経験しているのはあまりに意外で、かつ信じられない出来事だから。


 この美少女はヒロインAこと「田蒔(たまき)芽生(めい)」。

 一樹は「芽生」と呼び捨てにしていたので、俺も倣おう。

 「一樹なんかに名前で呼ばれたくないわ」と言われていたが、いきなり「田蒔さん」と変えるわけにもいくまい。


 芽生がこの場にいるのは意外でもなんでもない。

 むしろ当たり前。

 芽生はチア部だから。

 ただ二葉にはすっかり話しそびれてしまっていた。


 説明は要点のみを必要最小限に簡潔に。

 足りないところは聞かれたら付け加えればいい。

 これがインテリジェンス、つまりスパイ稼業に求められるセオリー。

 お偉いさんは忙しい。

 たった一分しか説明時間がもらえないことだってあるのだから。

 昨晩の会議で最優先されるべき事項はフラグパターンの説明。

 ややこしい話を簡単に説明するには情報を減らすのがベスト。

 だから芽生をヒロインAと記号化して説明した。


 ここまではよかった。

 しかし、その後が問題。


 俺としては一通りの説明が終わった後で芽生について話すつもりでいた。

 ところが期せずしてヒロインBの話ばかりになり、タイミングを逃してしまった。

 本日に至っては朝からそれどころじゃなかった。

 正直言えば今の今まで芽生のことをすっかり忘れてしまっていた。


 当然、二葉は芽生がヒロインAなのを知らない。

 俺が話してないのだから知るわけがない。

 二葉の計略がこういうことだと予めわかっていれば。


 いや、同じか。

 誰がリンチしているところに体張って飛び込んでくると思うか。

 しかも庇った相手は嫌われ者の一樹。

 その行為にはヒロインAもその他女子生徒も関係ない。


 一体どうして?


 一方の二葉の心境は、見たまま全てが物語っていた。

 殴ったままの格好で固まってしまっている。

 目を見開き、口を開け。

 明らかに驚き、そして呆然とした表情で。

 つまり二葉にとっても予想外のアクシデントなのだ。


 ようやく二葉が拳を下ろした。


「芽生……ゴ……ゴメン」


 しかし頭は下げていない。

 茫然自失のまま、とりあえず口にした感じ。

 反省する前に目の前の出来事がとにかく信じられないのだろう。


 芽生は、二葉に一瞥もくれない。

 こちらを向いたまま和らげに微笑む。


「ちょっと待ってて」


 芽生が持ってきたのは水筒とハンカチ。

 芽生はハンカチを水筒の水で濡らし、俺の口元を拭き始めた。

 パツンと切り揃えた前髪が垂れ下がり、髪先からふわりと女の子特有のいい香りが漂ってくる。


「二葉さんもひどいわね。ここまでやるなんて」


 ああ、かつて幾度となくお世話になった美しい顔がこんな間近に。

 しかもキズの手当までしてもらえるなんて。

 それも自らの口から滴る血を気にせずに。


 もし芽生が本当にいたら。

 俺の目の前にいたら。

 そんな「上級生」プレイヤーとしての夢がいま、現実に叶った。

 しかも、こんな男の願望とも言えるシチュエーションで。

 俺はなんて幸せ者なんだ。

 この世界に来てホントによかった。


 ……じゃない!


 あまりの信じられなさに、危うく現実から逃避するところだった。

 今は甘い夢気分に浸ってる場合じゃない!


 俺が我に返ると同時に、二葉が芽生の腕を掴んだ。


「芽生、どいてくんない? まだあたし達の話は終わってないからさ」


 芽生が二葉の腕の動きに合わせるように立ち上がる。


「二葉さんこそいい加減にしてもらえないかしら。みんなひいてしまってるのがわからないの?」


「そうだそうだ!」


 あれ?

 チアリーダーの集団から芽生に同調する声が聞こえてくる。

 さっきまであんなに愉しんで観戦してたくせに。


「アニキへの制裁を望んだのは、それこそみんなじゃない」


「そうだそうだ!」


 今度は二葉に同調する声。

 なんだ、なんだ?


 俺の前に立つ芽生。

 その向かい側に立つ二葉。

 二葉は芽生を険しい目つきで睨み付けていた。

 きっと芽生もそうだろう。

 どうもただならぬ雰囲気になってきた。


「誰もここまでやれとは言ってないでしょう。しかも一樹君は二葉さんのお兄さんじゃない。どうして血を分けた肉親にこんなひどいことできるの?」


「兄妹だからこそやってるんじゃない。アニキがこの程度じゃ反省しないのは、それこそ妹のあたしが一番よく知ってます」


「あくまで兄妹の話って言うなら家でやってくれないかしら。プロレスやボクシングまがいの残虐ショーを見せられるわたし達の気持ちにもなってよ」


「じゃあどうしてはじめから止めなかったの? 少なくとも最初は悦びながら見てたの、ど・こ・の・だぁれかなあ?」


「ち、ちがう。わたしはそんなつもりじゃ……」


 芽生が口籠もる。

 勝負はあった。

 心変わりしたとか反省したと言い返すことはできる。

 だからといって最初止めなかった事実が覆るわけではない。


 手当してもらった身としては、まして出雲学園スクールカースト最底辺へ理不尽に落とされてしまった身としては、心変わりだろうと反省だろうと十分嬉しいけど。

 龍舞さんと違って、さすがはヒロイン。

 それどころか、イヤミじみた二葉までもが悪役に見えてしまう。


「わかったらどいてよ。あんた邪魔」


 二葉が芽生の二の腕に手をかけ、押しのけようとする。

 しかし芽生はその手を力強く払い飛ばした。


「そういえば、さっきの謝罪にまだ返答してなかったわね」


 芽生の長い黒髪が揺れる。

 それと同時にパン、パンと破裂音が体育館に響いた。


「何すんのさ!」


「ゴメンはいらないってことよ。その分やり返させてもらうから」


 パン、と再び破裂音。

 今度は二葉の平手が飛んだ。


「一発多い! 大体、芽生が勝手に飛び込んだんじゃない!」


 再び芽生がひっぱたき返す。


「黙りなさい、このオンナオトコ!」


 再び二葉。


「せめてオトコオンナと呼んで!」


 おいおい。


 再び芽生。


「チビザル!」


 再び二葉。


「あたしと八センチ違うだけじゃない!」


 ということは一六三センチくらいだな。


 再び芽生。


「キツネ目タヌキ!」


 再び二葉。


夢二ゆめじ式な美人に言われたくない!」


 夢二式美人とは、大画家竹久夢二の描いたたおやかな美人像。

 いわば大正時代に大人気を博した二次元ヒロイン。

 優しく儚げで憂いを秘めた表情。

 長い手足。

 ほっそりしなやかでくびれた体型。

 全体から醸し出されるほのかな色気。

 なるほど、言い得て妙だ。


 いや、そこはどうでもいい。

 二葉……。

 お前って、なんて可哀相なヒロインなんだ……。


 壮絶なビンタ合戦。

 しかし口の方は一方的に罵られてるだけでケンカの体すらなしてない。

 芽生が王道設定で貶しようないからだけど。

 これは二葉も悲劇のヒロイン扱いされるわ。


 部員達は誰も止めないのか。

 最初は二人を煽ってた様にも見えた。

 しかしビンタ合戦になってからは完全に黙り込んでいる。

 なんて無責任な。

 ただ向いてる視線でどちらを応援してるのかはわかる。

 圧倒的に二葉支持が多く、芽生支持はわずか。

 中にはどっちつかずなのも。


 引っぱたきあいはさらに続く。

 今度は芽生の番。


「まないた娘!」 


 とうに真っ赤に腫れ上がっていた二葉の顔が、さらに真っ赤になる。

 最大のコンプレックスをつかれブチ切れたっぽい。

 芽生に飛びかかり、ほっぺたを掴んで引っ張り始めた。


「ふ、ふはははむ(二葉さん)らりるるろ(何するの)!」


 芽生も二葉の頬を引っ張り返す。


ふるまり(うるさい)! ふるまり(うるさい)! ふるまり(うるさい)!」


ははららむは(あなたなんか)ひれまりり(死ねばいい)!」


はむらほろ(あんたこそ)りろるりほりろ(地獄に落ちろ)!」


 いったい、どうすればいいんだ……。


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