39 1994/11/28 mon 体育館:ついに殺るんですね!
チアリーダー達がわっと歓声を上げる。
「やったぁ~!」
「ざまあ!」
「正義は勝つ!」
人中の辺りに生温かいものが流れるのを感じる。
唇に触れた、鉄臭い。
縛られた両手で触れてみる。
ぬらっとした感触、手には真っ赤な血がついていた。
一体何のつもりだ。
わからないが、とにかく返さないと。
「オヤジにも──」
パシィっと派手な音が響き渡る。
左頬がヒリヒリする。
今度は平手打ちかよ。
「殴られまくったよね。学校のテストや成績表を持って帰れば『貴様はそれでも私の息子か』って。イジメられて帰れば『勝つまでやり返せ』って。太れば『その醜い姿を私の前で晒すな』って」
最悪すぎる。
「オフクロにも──」
再び派手な音とともに痛み。
今度は右頬。
「殴られない代わりに触られもしなくなったよね。折り目がつくまで繰り返し読まれた『財政学入門』のせいだろうけどさ」
「ドラゴンマダム」か。
一樹、バカすぎる。
「イモウトにも──」
痛! 痛!
往復ビンタ喰らわしやがった。
「これまで殴ったことはなかったよね。じゃれあいはともかくとして」
二葉が殴る度にチアリーダー達の歓声が上がる。
まさかこいつ、自分が部員の信用を勝ち取るために俺を利用しようっていうんじゃないだろうな……。
いやダメだ、二葉を疑ってどうする。
確かに職場では「自分以外は誰も信じるな」と教えられている。
何でもついつい疑ってしまうのは言わば職業病。
それでもさすがにここで二葉を信じられないとお終いだ。
二葉が何をしようと俺のため。
それだけは絶対に間違いない。
もちろん俺の状況を何とかしないと二葉も最終的に損をする。
二葉自身にだって助ける動機はあるんだから、それで納得だってできる。
でもこいつは打算で動くヤツじゃない。
根っからのお人好しってのは、この短い間だけでも重々わかっている。
ここは二葉の利なぞ関係なく信じ切る。
何があっても信じ切ってやる!
腹を括ったからか。
ようやく混乱してた頭がすっきりした。
考えすぎたからいけないんだ。
枝葉末節に囚われず、大局的に考えろ。
流れとしては最初は口論、次に実力行使、そして罵り。
暴力という後戻りのできない手段に打って出たということは、恐らくここまで二葉の狙い通りに進んでいるのだ。
若杉先生の横槍を除いては。
現在の二葉は俺に答えを問うてきていない。
最初の口論と違って一方的な口撃。
ただ私刑をしたいだけなら、こうして考えている間に殴ってきてもいい。
でもまだ私刑に至っていない。
最終的にはそうしたいはずなのに。
多分アクションを起こすための条件が成就されてないからだ。
では何が足りないか。
その答えは恐らく──これだ。
「それは俺を愛してるからだろ? もちろん俺もだよ──」
期待に応え、思い切りネチっこく言ってやる。
「──アイラービュー、マーイシスター」
とどめにパチリとウィンク。
チアリーダー達からの罵声がさらに激しくなった。
「うえええええええええええええええええええええ!」
「耳が腐るうううううううううううううううううう!」
「吐き気がああああああああああああああああああ!」
二葉が顔を真っ赤にしながら叫ぶ。
「妹のあたしすら関わりたくないくらい大キライだからよ!」
「またまたぁ。照れなくてもいいんだぞぉ~」
言い終えて、ぺろっと舌を出してみる。
きっと舌なめずりしてるようにしか見えないだろうけど。
チアリーダー達がどんどんヒートアップする。
「汚い口を閉じさせて!」
「舌を引き抜いちゃえ!」
「部長、殺っちゃえ!」
よし、狙い通り。
二葉が拳を握りしめ、つかつかと近づいてくる。
──えっ!?
その行動は予測できないものだった。
チアリーダー達からブーイングが起こる。
「部長、どうしてコイツの縄をほどくんですか!」
「心置きなく制裁するためだよ。このままだと肩の骨粉砕しかねないからさ」
とても女子高生の台詞とは思えない。
「おおおおおおおおお!」
「ついに殺るんですね!」
「そのままでいいのに!」
とんでもない台詞まで聞こえてきた。
「兄妹ゲンカだと渡会家が治療費全額負担しないといけないんで、見逃して」
二葉は別の意味で女子高生離れした台詞を口にしてから、こちらに向き直る。
「あたしが間違ってたよ。例え大キライでもアニキはアニキ。可哀相な人と思わなくもなかった。でもそんな同情はアニキを増長させただけだった」
チアリーダー達が足で体育館の床を踏み鳴らし始めた。
「ぶ・ち・ょ・う!」
「ぶ・ち・ょ・う!」
「ぶ・ち・ょ・う!」
一糸乱れぬ「部長」コールが繰り返される。
これだ。
これこそが二葉の待っていた条件のはずだ。
──来る!
二葉の右腕が上がり、左腕が直角に曲がる。
ヒットマンスタイル!?
ヒュンと風を切る音ともに二葉の拳が飛んできた。
──っつ。
さらに二発目、三発目と続けざまに飛んでくる。
パァンと音がする度に頬がヒリヒリする。
後ろに跳ねて下がり、一息入れる。
二葉は左腕を振り子のように揺らしている。
フリッカーかよ!
これもあのボクシングマンガで覚えたんだろうけど。
とんでもない代物使いこなしやがって。
だが大して効いてない。
ヒリヒリする、ホントにそれだけだ。
元々フリッカー自体が下から打ち上げるのでダメージを与えづらいパンチ。
俺と二葉は二〇センチの身長差があるので尚更だ。
加えて二葉は拳を握りこんでいない。
きっと傍目にはわからないだろうけど、二葉の打撃はまるで頬を撫でる感じ。
言わば、力を抜いて平手打ちしているのと同じである。
やはりだ。
これは全て演技。
ついに今こそ二葉の狙いを確信した。
──二葉がステップインしてきた。
ひとまず、考えるのをやめて耐えなければ。
「逃げるな! このブタアニキ!」
「ぷぎ! ぷぎ! ぷぎ! ぷぎい!」
軌道の読めない四連撃。
再度ステップして下がるも追撃がくる。
「ぷぎい! ぷぎい! ぷぎぷぎぷぎい!」
さらに下がったところで、再び二葉の左腕が振り子の様に揺れる。
「下劣なブタがイイ声で鳴くじゃん。でも、まだまだ終わらないよ!」
足を踏み鳴らすチアリーダー達のコールが変わる。
「ぶったあにき!」
「ぶったあにき!」
「ぶったあにき!」
ハア、ハア……。
チアリーダー達め。
いくら元々は一樹が悪いと言え、人間ここまで残酷になれるものなのか。
心底、女性不信に陥りそうだ。
ただ二葉の方はその口と裏腹に、俺へのダメージを極力抑えようとしている。
それを教えてくれるのがフリッカー。
元々ダメージが低いだけではない。
音も動きも派手。
さらにスナップの利いたパンチだから腫れやすい。
そろそろ俺の醜い顔は、膨れあがってもっと醜くなるはずだ。
傍からは、いかにも二葉が全力で処刑執行しているように見えているだろう。
その割に俺のダメージは大したことない。
最初の鼻への一発は、きっと鼻血を流させるためにやむをえず。
鼻血が流れるか否かでは周囲へのインパクトがまるで違う。
少ないダメージで、よりヒドイ目に遭わせている様に錯覚させるためだ。
二葉の最終目的は、俺──一樹を真人間にさせること。
盗撮をやめさせること。
常人と同じ様に振る舞わせること。
厨二じみた台詞然り、内容そのもの然り。
身だしなみ然り、食べ方然り。
「ありがとう」に「ごめんなさい」だってそう。
とにかく、俺に課せられた「一樹になりきる」というカセを取り払うことだ。
しかし何も契機なくして人間が変わるわけがない。
一樹みたいな曲がりに曲がったヤツなら尚更だ。
だから二葉は今、その契機を作ろうとしている。
具体的には「制裁した」というアリバイ作り。
しかも誰がどうみても「変わらざるをえない」と納得できる程の。
二葉の計略とは、それを最小限のダメージで成し遂げることだ。
──二葉がステップインしてしゃがみこむ。
まずい!
後ろに飛ぶも、勢い余って尻をついてしまう。
その鼻先を、二葉のつま先がかすめていった。
「ちっ!」
ちっ、じゃないだろ。
まさかサマーソルトキックとは。
俺が倒れてから飛び上がったから、外れるように打ったのだろうが。
それでもゾッとした。
こいつの運動神経はどれだけだ。
すぐさま二葉が踏みつけてきた。
立ち上がる間もなく転がってかわす。
しかし追いつかれ、二葉が蹴りを連打してくる。
やはり大振りで派手なアクション。
蹴られる度にパシィっと音が響く。
しかしヒットポイントをずらしてくれているらしく我慢はできる。
「と・ど・め!」
「と・ど・め!」
「と・ど・め!」
足を踏み鳴らすチアリーダー達が恍惚の表情を浮かべ始めた。
目を潤ませ、口をだらしなく広げ。
いかにもイキそうなアヘ顔とでも言うべきか。
二葉は同時に、一樹の過去の罪を清算する契機を作ろうとしている。
そうしないことには先に進めないから。
一樹が変わるためには周囲も変えなくてはならない。
そうでないと、変わってみせたところで「何を企んでる」と思われるのがオチ。
「今まで散々悪事を働いといて」とも思われるだろう。
だから一旦罪を償わせないといけないのだ。
また二葉が俺と一緒に行動するための口実にもなる。
「一樹の更生を見張る」ということで。
もちろんそれだけで簡単にコトが片付くとは思えない。
単に制裁して清算するには、一樹の罪があまりにも大きすぎる。
それゆえ二葉は場を操り、チアリーダー達が受け取るカタルシスの方を大きくしようとしたのだ。
受け取ったカタルシスが大きければ大きい程、怨みも大きく晴らせるから。
フラストレーションが溜まれば溜まる程、受けるカタルシスは大きくなる。
そのため俺とやりあいながらチアリーダー達を煽っていった。
俺への制裁を待ちきれなくなるまでに。
怒りが最高潮に達してからの処刑執行、さらに集団心理も相まる。
観る者は心底からすっきりするはずだ。
しかもこれだけやれば、当然に学園中の評判になる。
俺の姿を見たチア部以外の女子生徒達もある程度は溜飲を下げるだろう。
これもまた二葉の計略なのだ。
だとすれば、二葉の次の行動も読める。
トドメコールが沸き起こったからにはそろそろのはずだが。
しかし一向にその気配が窺えない。
このままじゃタイミングを逃してしまうぞ?
──あれ?
チアリーダー達が足を踏み鳴らす中、一人だけその動きが止まっている。
疲れたのか、何なのか。
「この! この! この! この! この!」
二葉の蹴りはますます加速する。
しかしトドメコールはそれに反して段々と小さくなってきた。
まずい!
盛り上がってる内にトドメをさしてこそのカタルシスだろうが!
再びチアリーダー達の足元が目に入る。
さっきの一人を中心に段々と足が止まっていく。
「ねえ、ちょっと……」
「やりすぎじゃない?」
「ここまでしなくてもいいかも」
トドメコールに不興が混じり始めた。
しかし二葉は意にも介さないらしい。
俺の髪の毛を掴み無理矢理に上体を起こす。
「まだまだあ!」
どこまでやるつもりだ!
しかもこの振りかぶり方は……本気か!
とっさに歯を食い縛り、目を瞑る。
──バキッと鈍い音が響く。
しかし痛みはまったくない。
あれ?
恐る恐る目を開ける。
俺と二葉の間には、長い黒髪の少女が飛び込んでいた。
唇を切ったのだろう、覗く口元には血が流れている。
──八重歯!?
「いっつ……」
その少女がこちらに顔を向ける。
泣きぼくろのついた、どこか憂いげな切れ長の目。
彼女はそのまなざしに見合う静かな語り口で問うてきた。
「一樹君、大丈夫?」




