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33 1994/11/28 mon 写真部部室:チョット! アニキ! ナニコレ!

 ようやく、ホントにようやく写真部部室に辿り着いた。

 二葉は待っててくれてるだろうか。

 おそるおそる、ドアレバーに手をかける……カチャリと上がる。

 鍵は開いていた。


 そろっと中に入る。

 二葉は机に向かって書き物をしていた。

 俺に気づいたらしく顔を上げる。


「遅かったね」


 まるで龍舞さんのごとくの張りついた笑顔。

 怖い、マジ怖い。

 これだけ待たせれば怒って当然だ。


「ごめんなさい、もうホントごめんなさい」


 しかし二葉は俺の詫びに応える前に、目を丸くして叫声を上げた。


「どうしたの! アニキ、頭からびしょ濡れじゃない!」


「ん……ちょっとな」


 俺の返事を聞くが早いか、二葉はダッシュで出て行ってしまった。

 果たしてどこに行ったのか。


 ったく、ヒドイ目に遭った。

 まさかトイレで上から水をぶっかけられるなんて。

 しかも頭に載っかったのは真っ黒けの雑巾。

 つまりは浸けっぱなしの汚水だったわけで……脱力してしまって怒る気すら失せた。


 一つわかったのは、一樹の危機回避能力がゴキブリ並に本物だということ。

 部室までの道中、すれ違う生徒達は指差しながら笑っていた。

 こんなの学園中の噂になって当然だろう。

 しかし二葉は今まで聞いたことがないという。

 つまり教室の外に限ると、一樹はこんなエグい目に遭ってないのだ。

 ヤツらの「珍しい」という言葉。

 あれは「隙を見せるなんて珍しい」という意味だったのだろう。


 おあつらえ向きにハンガーがある。

 上着とトレーナーを脱いで掛ける。

 これでTシャツ一枚にズボンの格好。

 全部脱ぎたいところだが、戻ってきた二葉に生まれたままの姿を見られたくない。


 ふう、生き返る。

 やっと濡れネズミ状態から解放された。

 モノが汚水だけに本当のネズミみたいな錯覚まで覚えたからな。

 幸い、一二月前にして空調が効いているから寒くはない。

 さすがギャルゲーの坊ちゃん学校。


 臭いし汚いしなので、顔と頭だけはトイレのハンドソープで洗い流した。

 プッシュでモコモコ泡が出るタイプって、どれだけ贅沢な学園だ。

 俺の高校なんか、そもそもトイレに石鹸がなかった。

 固形石鹸だと生徒が悪戯に使うせいでコストが掛かるためだが、こうしたさり気ないところにも出雲学園の金持ちぶりが顕れている。

 しかしあえて言いたい。

 清潔を保つために金掛けるのは結構だが、まずは「使ったバケツの水は捨てろ」というところから教育してくれ。


 椅子に腰を下ろす。

 机の上にはプリント。

 宿題や課題の類か、とにかくそれのやりかけ。

 あれ、ここ間違えてるじゃん。

 単純なケアレスミスだが何となく二葉らしい。

 見てるとなんか懐かしくなってきた。

 よし……。


                   ※※※


 ──キィ、と扉が開く音がした。


「ハアハア……ただいま……」


「おかえり」


 扉へ顔を向けると、二葉は目くじらを立てていた。


「妙に落ち着いてるよね! こっちは息せき切って帰ってきたというのに!」


 どこに行って何をしてきたのか全くわからないのに、そんな台詞を言われても。

 二葉の背には大きなスポーツバッグ。


「そのバッグは?」


「部活の。この中に色々入ってるから部室行ってバッグごと持ってきた」


 部長で鍵を持ってるから、いつでも部室に入れるってわけか。

 二葉の息は既に整っていた。 

 この回復の早さはさすが体育会系。


 二葉がカバンを下ろし、膝を床につく格好で屈む。

 腰を浮かせた正座というか。

 不自然な体勢と思うも理由に気づく。

 普通に屈むとパンツが見えてしまうからか。

 こうしてみると「ブルマやスパッツ禁止」という教育方針にも一理あると思える。


 ジャッと一気にファスナーを開く。


「アニキ、まずはこれ」


 放り投げてきたのはバスタオル。


「風邪引くといけないから、これで頭と体を拭いて」


「あ、ありがと」


 まさに今一番欲しかった物を。

 ぴったりすぎて逆に戸惑ってしまう。


 顔を拭く……ふう、生き返る。

 頭からじわっと水がしたたってきて、ずっと気持ち悪かったからなあ。

 さっきも似たような事を思った気がするが、俺は何度でも蘇る。


 二葉が立ち上がり、机の上に細長いプラスチックのボトルを置く。


「次は消臭スプレー。臭い、たまんないでしょ?」 


 なんてありがたい!

 そして、どこまで気がつく!


「あ……あ……ありがとう」 


「本物の一樹なら平気なんだろうけどね、元からそんな臭いだし」


「確かに……」


 ここまではひどくなかったと思うが、他人からすれば似たようなものなのだろう。


「相当ヒドイ目にあったみたいだね」


「まあな」


「本当は顔見たらヒトコト言ってやろうと待ち構えてたんだけどさ、あまりにむごくてその気も失せたよ」


 ハアと呆れた調子で片手を広げつつ、顔を背ける。


「お、遅れたの……は謝っ……たじゃないか」


「遅刻じゃなくて、アニキの部屋の──って、どうして泣いてるのさ!」


「久々に人の優しさに触れた気がしたから……」


「こんなことくらいで大のオトナが泣かないでよ」


 潤んだ涙のフィルター越しに、狼狽える二葉の姿が歪む。


「だって……」


「もう。そんな風にされちゃうと次の品出しにくくなっちゃうじゃない」


「何を?」


 二葉が再びしゃがみこむ。

 そしてバッグの中から取り出した物を差し出してきた。


「はい甘酒。体冷えちゃったろうから、暖まると思ってさ……って! 缶を握りしめたまま固まらないで!」


「……すまん。ありがたくいただくよ」


 あまりの暖かさにトリップしてしまった。

 プルトップを引き、ずずっと啜る。

 ああ、温かくて美味しい。

 缶の甘酒なぞ変に甘くて、そのくせ薄くて飲めたものじゃないと思ってたが。

 確かに今、一番しっくりくる飲み物は甘酒だ。

 敢えてこれを選んだ二葉のセンスには恐れ入る。


 俺の表情から感想を読み取ったのだろう。

 二葉がにこりと笑う。

 そしてまたしゃがみこみ、バッグを漁り始めた。

 まだ何か出てくるのか?


 次に出てきたのは……ゴミ袋? そしてハサミ?

 二葉はゴミ袋を広げ、底の側の二隅をハサミで切り取る。

 何するつもりだ?


「Tシャツとズボンとパンツ脱いで。乾かすからさ」


 要するに全部じゃないか。


「裸になれと?」


「その頭に掛けたタオルを腰に巻いとけばいいでしょ」


 恥ずかしいじゃないか。

 そう照れてみせる前に、さくりと正解を出されてしまった。


「ズボンだけはハンガーに掛けてね」


 言われるままに服をゴミ袋の中へ投げ込む。

 二葉はおもむろに消臭剤を手にすると、シャカシャカと振ってから袋の中に振りまいた。

 続いてバッグからドライヤーを取りだす。

 もう何でも出てきそうな勢い。


 袋の口にあてたドライヤーがブォーっと唸りを上げる。

 俺はよほど不思議そうな表情をしていたのだろう。

 二葉が勝ち誇った様な笑みを浮かべて説明する。


「簡易乾燥機ってとこ。こうすると乾きが早いんだよ」


 すごいと思う。

 本気で感心も感嘆もする。

 しかし、こいつはどこでそんな生活の知恵を身につけたのか。

 こんなネットの普及していない時代で。

 かえって恐怖すらおぼえてしまう。


 二葉は袋をゆさゆさと揺らしている。

 温風が全体に行き渡る様にだろう。

 手持ちぶさたな俺は、その単調な動きをひたすらに眺めていた。


「……アニキ、乾いたよ」


「あ、ありがとう」


 いけない、ぼーっとしていた。

 慌てて取り繕い、差し出されていた下着類を受け取る。

 穿いてみると暖かくて実にいい感じ。


「次は制服だね」


「今度は自分でやるよ」


 すっくと立ち上がり、二葉に向けて手を差し出す。

 さすがに何から何まで任せきりは情けない。

 今朝も「自分の事は自分でやれ」と書かれてたばかりなんだし尚更だ。


「そう? じゃあ、はい」


 ドライヤーを受け取る。


「制服はハンガーに掛けたままでね。シワになっちゃうから」


「あいよ」


 先程と同じく消臭剤を振りまき、温風を吹き付ける。

 背後から二葉の茶化した声。


「自分からすすんでやるなんて、えらいえらい」


「からかうなよ。俺は小さい頃から母親に家の事を手伝わされてきたからさ」


「へえ……」


「その全然気の入ってない相槌は何だよ。今朝だってちゃんと家事済ませてきたぞ」


「家事?」


 いかにも疑問符がついてそうな声のトーン。

 見なくとも首を傾げているのがわかる。


「洗濯やりかけだったろ。片付けてきた」


「ああ、時間なかったからさ。でも乾燥機から取り込んだだけでしょ?」


「いや? お前のもやっておいたぞ」


「へ!?」


 明らかになんか驚いた様子。


「ついでだったしさ。ちゃんと畳んで部屋の前に置いてあるよ」


「ふ……ふーん……あ、ありがとう」


 今度は戸惑った様子。

 どことなくトゲを感じなくもないが、そんな話でもないし気のせいだろう。


「実家だと、俺が洗濯を任されてたからさ」


「晴海さんの洗濯物も?」


「うん。ただ、いつの頃だったか……晴海が『家の洗濯はあたしがする』って言ってくれて、バトンタッチしたけど」


 あの時は「よくできたヤツだ」と、母と二人喜び合った。


(そこで気づいてよ……)


「何か言った?」


 二葉がぼそっと何か言った気がしたが、ドライヤーの音でよく聞き取れなかった。


「いや、別に? 何も?」


「ふーん?」


 経験上そういう聞き逃した台詞ってろくなものじゃないんだけど。

 まあ作業しながらの会話だし、俺の気のせいだったのかな。


 そうだ、肝心要の事を確認しておかないと。


「二葉は授業出なくても大丈夫なの?」


「うん。課題プリントをやって提出すれば出席扱いにしてくれるの」


 さっきのあれか。


「それってどんな学園だよ。だったら俺もそうしたいんだが」


「A組だけだよ──って!」


 A組だけ?

 それを疑問に思ったのより早いか遅いか。

 二葉の声がいきなり大きくなった。


「どうした?」


「チョット! アニキ! ナニコレ!」


 なんか片言の外国人みたいな叫びだ。


「俺、なんかやった?」


 二葉がさっきのプリントを眼前に突きつけてきた。


「このプリント! 全部やってあるじゃない!」


「あ、ああ……すまん。懐かしくてついやってしまった。やっぱ、そういうのは自分でやんないとだよな」


「違うってば! 言葉通りの意味! これ全部アニキが解いたわけ? それもあたしが戻ってくるまでの時間で!」


 怒ってないのはわかったけど、やけにテンション高いな。


「途中までやりかけてたの引き継いだだけだから全部じゃない」


「あー、もう! このプリントってT大入試の数学予想問題だよ? しかも本番よりかなり難しく作られてるのに」


 T大って、やっぱ最高学府のアレだよな。

 マンガとかで鼻持ちならないエリートが「我々の世界で赤門以外は大学と言わんよ」とぬかしつつ、ワインでも傾けてそうな。


「道理で手応えあると思った。お前ってこんな難しい問題やらされてるわけ?」


「難しいって、アニキ解いてるじゃん」


「数学は得意だから。途中間違えてたのも直しといたぞ」


 二葉がプリントをしげしげと見つめる。


「ホントだ、ありがとう」


「いえいえ」


 ミスを素直に認められる辺り、かえって余裕が感じられる。

 やはり学校の成績はいいのだろう。


 一方で、やりかけの問題は腕力任せ。

 エレガントな解法とは言えないし、だからこそミスもしやすい。

 本来的には文系なんだろうし、二葉の能力というか性格を顕している気がする。


「でも、この汚い字どうにかなんない? もしかすると問題解くより、これを読む方が難しいかも」


「『8』と『θ(シータ)』の区別がつくくらいにはキレイだろうが」


「『6』と『σ(シグマ)』の区別がつきにくいんですけど……」


「小文字のシグマなんてどこにも使ってないだろうが!」


 普通は大文字の『Σ』を使うからな!


 二葉がけらけらと笑う。

 まったく……。


「というかさ、まずA組って何?」


「A組は目指せT大の、いわゆる特別進学コースなの。但し文系限定で」


 とにかく名声に拘る学園だけに、設置していること自体は不思議じゃない。

 T大合格者数イコール学園の宣伝になるから。

 二葉がA組なのも当然だろう。


 ただ、出雲学園にそんな設定あったっけか?

 なんのかんの言ってもお気楽ギャルゲーだぞ?


 いや違う、何となくだがあった気がする。

 二葉ではなく他の誰かのシナリオで見た様な見なかった様な……。


 ま、いっか。

 そこは今どうでもいい。


「なぜ文系限定?」


「出雲学園って有力者の子弟が多いじゃない? その後を継ぐなら、進路は自然と法学部とか経済学部になるからさ」


「なるほど」


「もっとも『数学ができるなら文系の方が合格しやすい』とか『一クラス分の人数しかいないのに文理分けるのは非効率』って理由もあるみたいだけど」


 ぶっちゃけてるというか、現実的というか。

 でも確かに、オールマイティーな生徒なら文系理系のどちらも選べる。

 元の世界の「文系はバカで理系は賢い」という風潮が、急に怪しく思えてきた。


「A組だけ課題が出席代わりというのは?」


「A組は学習効果さえ上がればそれでよしって方針だからさ」


「仮にも高等教育がそれでいいのかよ」


「特別な用事でもなければ出席する方を選ぶよ。課題プリントの方が授業より難しいもの」


 プリントには四題あるが、確かにフル回答作る時間は授業時間以上に掛かりそう。

 よく考えたものだ。


「なんかそう聞くと、待たせたのが心から申し訳なく思うな」


 しかも予め課題プリントを用意してたというのが。

 最初から遅れると思われていた様で悲しい。

 そうでなくとも、何かに巻き込まれるのを予想されていたとしか。


 その意を汲んだのだろう。

 二葉が首を横に振る。


「ハプニングに備えて保険掛けたのが当たっただけ。それよりプリントやってくれたのホントに助かる、ありがとう!」


「どういたしまして」


 そこまで言われると嬉しくなってくるものだ。


「あたし、初めて(・・・)アニキに心から感謝したかも」


「初めてって、ちゃんと洗濯やってきたろうが」


「ああ、うん、そうだったね……ありがとう……」


 二葉の目はどこか乾いている。

 目に生気がないというか、焦点が定まっていないというか。

 一体何だって言うんだ。


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