31 1994/11/28 mon 2-B教室:財布を僕に渡すんだ
はあっ、はあっ。
たった数歩駆け出しただけで息が乱れる。
なんてだらしない体だ。
苦しくて頭が下がってしまう。
扉の縁とレールが見えた。
早く廊下へ──ぶっ!
おでこに衝撃、首が跳ね上が、うああああああああ!
体が宙に浮いた。
そう思った時には、誰かを下敷きに倒れ込んでしまっていた。
あたたたた……どうやら勢い余ってぶつかってしまったらしい。
事態を把握するも束の間、俺の下敷きになったヤツが怒鳴ってきた。
「どこ見てやがる!」
そりゃそうだ。
明らかに前を見てなかった俺が悪い。
「す──」
「まん」と飛び出しかけた言葉を、喉を絞って抑え込む。
だから一樹は謝れない人なんだってば!
「す?」
「す……滑ったから」
「『すみませんでした』くらい言え! このデブ!」
はい、そうですよね。
君の気持ちはわかります。
「ごめん」や「すまん」は最強のマジックワード。
自分が悪かろうとそうでなかろうと、まずは謝るのが処世術。
とりあえず頭を下げれば大抵の人は見逃してくれる。
ましてや今回は明らかに俺が悪い。
まさか「謝れない」ということが、ここまで不都合だとは。
下敷きになっているヤツのツレらしき男子が寄ってきた。
「鈴木、大丈夫か」
「大丈夫じゃねえよ。佐藤、カズキンをどかせてくれ。重くて起き上がれねえ」
鈴木に佐藤、いかにも脇役らしい苗字だ。
きっと覚える必要もあるま──ぶっ!
佐藤とやらが俺の肩を押す様に踏んづけてきた。
「何しやがる」
「こっちの台詞だ。さっさとどけ」
お前には関係ないだろう。
その言葉を今度は理性で呑み込む。
ここで言い返せば絶対にろくなことにならない。
鈴木とやらの上からどこうと立ち上がりかけ──ぐっ!
上体を起こしたところに再び蹴りを入れられた。
突き飛ばされた格好になって、尻餅をつく。
「何しやがる!」
言葉には我慢できるが暴力には我慢できない。
悪口や嫌がらせと違って俺自身がはっきりと痛みを感じるのだから。
もっとも一樹本人だって、こんなことされれば怒鳴るはず。
我ながら、そこに気が回るくらいには冷静らしい。
「悪い、足がすべった」
「すべったじゃないだろうが」
へらへらと嘲る佐藤を見上げながら、軽く息を吸って声をワントーン落とす。
ケンカをしたいわけじゃないからヒートアップしても損するだけだ。
ぶん殴りたいのは山々。
だけど一樹がやり返せるくらいのヤツなら、そもそもイジメられてはいるまい。
つまりキャラじゃないから、それはできない。
恐らく二葉が「一分で」一樹を片付けるというのは大袈裟じゃない。
きっとそれくらい一樹はケンカが弱いのだ。
俺自身に格闘技の心得でもあれば別だろうが、内調ではそんな訓練なぞしていない。
残念ながら他国のスパイからボコにされて拉致られるくらいの戦闘能力しかない。
「お前の言い分だと『足がすべった』で許されるんだろ?」
ガキが!
でも、ふざけるな……とは言えない。
むかっ腹は立つけど、謝ってる分だけコイツの方がまだ上等な人間だ。
と言うか、そんなことはどうでもいい。
いつまでも「上級生」で名前もなかった様なMOBに構っているヒマはない。
早く部室に行かないと。
謝れないなら……。
目を合わせない様に床を見ながら立ち上がる。
奴等の目からはいかにも申し訳なさそうにしてる様に見えるはず。
こういう時はとにかく相手をいい気にさせるのがやり過ごすコツだ。
いくら一樹でもそれくらいは考えるだろう。
とにかく一樹らしくしなければ。
しかし離れていた二本ずつの足が、並ぶ様に連なる。
頭を上げると、鈴木と佐藤がニヤニヤしながら前方を立ち塞いでいた。
「何のつもりだよ」
「話はまだ済んでないだろ?」
「まあまあ。行きたければ行けよ、行けるものならな」
うぜえ。
急いでるんだからどけ。
このくらいは言ってやりたい。
しかし昨日の金之助の態度からすれば露骨にケンカ売る様な態度はまずい。
俺はあくまで一樹なんだ。
一樹らしく……一樹らしく……。
「急いでるんだよ」
それだけ言って固く口を結ぶ。
そして二人の間を無理矢理割って──うぐっ。
通り過ぎざま、みぞおちに二人の拳がめり込んだ。
「すまん。お前がデブだからぶつかったみたい」
「つーか、こいつから自分でぶつかってきたんだろ。汚ねえし臭いし邪魔なんだよ」
一樹らしく……一樹らしく……。
「お前ら二人がこの世に生を受けたのこそ邪魔だ」
しまった。
そう思った時には既に後ろへ吹っ飛ばされていた。
「カズキンのくせに言うじゃねえか」
佐藤が右手を踏んづけてきた。
なんてことを。
一樹らしくと暗示をかけていたら口が滑ってしまった。
「お前どこまで偉そうなんだよ。たまには自分の立場ってものを振り返ってみろや」
続いて鈴木が左手を踏んづけてきた。
「たまには」と言ってるから一樹の対応としては正解だったのだろう。
つか、一樹はバカか!
二人は笑いながら足に体重を乗せてくる。
痛い。
ただ最初からそうだが、二人は程よく手加減はしている。
少なくともこうやって物事を考えることができる程度には。
俺がキレるかキレないか、ぎりぎりの線を見計らいながらやっているのだ。
きっと目的は肉体的に痛めつけることではなく、精神的になぶること。
本当にただの真似事だった金之助のそれとは質が違う。
なんてイヤったらしい。
「つーか、人にぶつかっておいて謝りもしないって何様?」
「『急いでる』で済まそうってなら、それなりの誠意見せてもらわないとな」
鈴木が俺の学生服のボタンを外し、中へ手を差し入れてきた……って、財布!?
「返せよ!」
「どうせ、いつも通り小銭しか入ってないんだろうけどな」
いつも通り?
「お、今日は五千円札入ってるじゃないか。ラッキー」
「おー! 山分けしようぜ」
「ふざけんな!」
制止虚しく、二人が財布から札を抜き取ろうとする。
その瞬間、彼らの背後から、妙に落ち着いた、というか冷たい声が聞こえてきた。
「君達やめたまえ」
二人が後ろを振り向く。
「は、華小路君」
そこには銀色の長髪を後ろに束ねた美少年、華小路公麿がいた。
良く言えば涼しげな顔だが、悪く言えばキザったらしい。
同じクラスだから教室にいても当たり前なのだが……。
着ているのは上下ともに真っ白の学生服。
同級生から「君」づけといい、特注の学生服といい、こいつがどれだけこの学園で特殊な存在であるかを物語っている。
「財布を僕に渡すんだ」
華小路が鈴木の手から財布を取り上げる。
まさか助けてくれるのか?
きっとそうだよな。
金之助だって本気で俺をいじめてたわけじゃなかった。
名前のあるキャラは、例え表面的にどう見えても、実はみんないいヤツなんだ。
──しかし華小路の行動は期待を大きく裏切った。
華小路が財布から五千円札を抜き取って二人に渡す。
「これでその踏んだ足をどけてあげたまえ」
その言葉とともに、二人の足が俺の手から外れた。
「華小路君、ありがとう」
「ありがとうじゃない! 何しやがる!」
立ち上がると、華小路は目を瞑る様に微笑んだ。
「助けた礼はいらないよ。それが高貴なる者の務めだから」
どんな耳してやがる。
もとい、どんな脳味噌してやがる。
「金返せって言ってるんだよ!」
「ふっ。下賤はこれだから」
華小路が自らの胸に手を差し入れ、いかにもお高そうで分厚い革財布を取り出す。
その中から札を一枚取りだすと、俺の財布に入れてからこちらへ軽く放ってきた。
受け取って中身を見る。
五千円札の代わりに入れられていたのは、紙幣ではなかった。
「【一万マロ】?」
バラを咥えた華小路の顔とともに、そう書かれた紙幣もどき。
「金に代わる品を渡さなければ恐喝になってしまうだろう」
「十分恐喝じゃねえか!」
「立派な金券だ。華小路一族の経営する店で使いたまえ」
一万マロは、なるほど紙の質こそ立派。
それに手書きではなく、ちゃんと印刷によって作られている。
しかし、こんなナルシス入った商品券がこの世に存在するわけがない。
華小路が前髪を払いながら続ける。
「彼らは君にぶつかられて身体の痛みを負い、君はその慰謝料として五千円を失い、仲裁に入った僕は一万マロを失った。三方一両損ということで丸く収めようじゃないか」
こいつ天然?
いや、違う。華小路の口角がわずかに上がってる。
吹き出したいのを堪えるがごとく。
つまり華小路もこの状況を楽しんでいる。
これもやはりイジメなのだ。
「ふざけるな!」
二葉が家計をへそくって渡してくれた金を、こんな奴等に渡せるか。
取り返さないと!
──パチンと指を鳴らす音が聞こえると同時に、腹部へ激痛が走った。
「せっかく話をまとめてあげたのに、僕の顔を潰すつもりかい?」
華小路の声を聞きながら跪いてしまう。
眼前にあったのは、鈴木と佐藤の真っ直ぐに伸びた足だった。
「う……」
出そうとする声が声にならない。
代わりに胃から内容物が逆流する。
カウンターで入ったのもあるが、なんて重い蹴りだ。
さっきまでの遊び半分な代物ではない。
なんとか上目にして華小路の顔を視界に入れる。
華小路は嗤っていた。
ただひたすらに嗤っていた。
「ほら。君の態度に二人とも再び腹を立ててしまったじゃないか」
ちきしょう。
なんとか声を絞り出す。
「お前が指を鳴らして二人にやらせてるんじゃねえか!」
「何のことかね? 僕はただ指を鳴らしてるだけだが」
再びパチンと指を鳴らす音が聞こえる。
うげっ!
二発目の蹴りが腹に突き下ろされた。
「どうも音の響きが悪いな。もう一回鳴らしてみるか」
華小路が更に冷たさを増した声で問うてくる。
やばい……このままじゃ殺られる……。
逃げないと!
立ち上がる余裕もない。
四つん這いになって華小路達に背を向ける。
──ぶっ!
ダッシュで這い出そうとしたその瞬間、顔面が何やら布に塞がれた。
「おい」
頭上から、低くてハスキーな女性の声。
「どこに頭を突っ込んでる」
慌てて後ずさる。
この布は……スカート?
そこには仁王立ちしながら俺を睨み付ける龍舞さんがいた。
どうやら俺は彼女の股ぐらに頭を突っ込んでしまったらしい。
「いや……あの……」
謝りたくても謝れない。
何も言いようが無く、口をもごもごさせてしまう。
「この女の敵が」
その声には静かながらも明確な怒気が篭もっている。
ああ、まさに前門と後門の何とか。
もうなるようになれ!
……と思ったら、想像もしない台詞が耳に飛び込んできた。
「華小路、このドヘンタイ野郎に用があるんだ。もらってっていいかな」
振り返ると華小路は困惑した表情を見せている。
「僕に了解を求められても困るんだけどな。この二人はまだ話が済んでないみたいだし」
「そこは『急いでるから』ってことでさ」
まさか、今度こそ助けてもらえてる?
しかも龍舞さんに?
わずかに静寂が流れる。
しかし、それを打ち消す様に鈴木と佐藤が叫んだ。
「龍舞さんには関係ないだろう!」
「横から口出してくんじゃねえよ!」
「あん?」
龍舞さんがちろりと二人に目をやる。
その途端、二人は龍舞さんから目をそらした。
代わって華小路が返事する。
「ふう……じゃあ僕は通りかかっただけなので失礼するよ」
華小路は話が終わったとばかりに振り返り、手をひらひらとさせる。
「オルヴォワール、マドモアゼル」
そしてキザたらしいフランス語の挨拶。
「アデュー、華小路」
ぼそりと皮肉で返す龍舞さん。
どちらも日本語だと「さようなら」ではあるんだけどな。
華小路はそれが聞こえたか聞こえないか、そのまま遠巻きに眺めていた女生徒達の集団へと向かった。
他の二人も「ちっ」と舌打ちしながら去って行く。
どうやら、ホントに助かったらしい。
さて立ち上がろ──う、としたら龍舞さんが襟首を掴んできた。
「何をする──ぐえっ!」
「さっさと来い」
龍舞さんはそのまま俺を引き摺り始めた。
なんてバカ力だ。
「立てよ」
自席に戻ったところで龍舞さんが起立を促す。
言われなくても立つわい。
しかしどうしたものか。
礼を言うべき場面なのだろうけど。
いや……一樹はきっと「ありがとう」も言うまい。
それもまた頭を下げる行為なのだから。
でもどうして助けてくれたんだろう?
そんな龍舞さんはまるで気にも留めてない様子で、どかりと自分の席に座った。
身長は俺よりほんの少し目線が低い程度だった。
恐らく一七〇センチくらい。
しかしその漂わせた威圧感からだろうか、もっと大きく見える。
龍舞さんが懐に手を入れて財布を取り出す。
その中から何やら取り出し、親指でピンとこちらに弾いてきた。
五百円玉?
「購買のオーマイゴッドで『本日のサンド』買ってこい。超特急でな」
「どうして?」
「金を渡さないと恐喝になるだろ?」
なんかさっきどこかで聞いた様な台詞を言う。
「そうじゃない。どうして俺が!」
さっき助けた礼でもしろってかい。
それならそれで構わないけど、言い方ってものがあるだろう。
しかし龍舞さんの口からは予想もしない答えが返ってきた。
「そりゃ、貴様がアタシの奴隷だからじゃないか」
「はあ?」
「その間の抜けた顔はなんだよ。腹を蹴られてる内に頭までやられたか?」
「はああ?」
「Alors,parce que tu es m'esclave,pas vrai?」
「なんでフランス語!」
「貴様が日本語忘れたっぽいから」
「フランス語なんか元からわかるか!」
龍舞さんが拳を机に強く叩きつけた。
ダンッと大きく響き渡る音と鋭い眼差しに、つい歯を鳴らして体をすくめてしまう。
「うざい! 売り切れる前にさっさと買ってこい!」




