30 1994/11/28 mon 2-B教室:「公道で舞い踊る緑龍」
──二年B組教室前。
教室の後ろ側にあたる扉の窓から中の様子をうかがう。
俺の席の手前、つまり右隣の席には、緑色というか水色というか、どちらとも言えてどちらとも言えなさそうな髪をした女子が座っている。
出席番号順と聞いてもしやと思ったが、やっぱりアイツが隣なのか……。
そろそろと扉を開けて、教室内へ。
「1905年1月の『血の日曜日事件』を契機として……」
授業を邪魔しないよう、抜き足差し足。
席に到着。
椅子の背を掴み、そっと引き出す。
さあ、座ろ──うえっ!?
「ん、がむむ」
座面のぬるっとした感触に背筋がぞわっとする。
危うく大声で叫ぶところだった。
気づいた時には両手で口を塞いでいた。
どうやら間に合ったらしい。
この、尻に伝わる妙な不快感はなんだ?
まるで五年くらい掃除してない洋式便器の便座にそのまま座った様な。
じめっというか、ぬるっというか。
座面に何か塗ってある?
指で触ってみる、これは……油?
辺りを見渡す。
先生は淡々と授業を進めている。
ただ教室内の空気はさっきまでとどこか違う。
そこはかに視線を感じる。
どことなく失望した表情を見せている者もいる。
まるでアテが外れたかの様な。
雰囲気から察するに、これもイジメ。
きっと首謀者が狙ったのは「油で滑って、ずってんころり」だろう。
漫画じゃあるまいし、そんな都合良くギャグシーン演じてたまるか。
椅子をお尻で前方にずり寄せ……ようとするもつるつる滑る。
仕方ない、椅子の脚を持っ──。
「うえっ!?」
今度は本当に叫んでしまっていた。
ちきしょう!
椅子の脚にまで油塗ってるんじゃねえよ!
しかも手が塞がっていたから、口を押さえることもできなかったじゃないか!
教室のあちこちから、くすくす笑いが聞こえてくる。
その一方、先生は相変わらず何食わぬ顔で授業を続けている。
ごめんなさい、とっさに浮かぶも慌てて打ち消す。
そうだった。
一樹は謝れない人だった。
──ふと違和感に気づく。
なぜ、先生は何食わぬ顔をしている?
普通は「どうした?」と聞いてくるか、奇声を咎めるのが普通だ。
何だろう……この変な、それでいてイヤな感じ……。
考える前にまず手を拭こう、ぬとぬとして気持ち悪い。
ポケットの中を……あれ?
そうだった。
こいつはハンカチもティッシュも持ち歩いていない。
金曜日にポケットを調べてそのままなのだから。
ナイフなんか持ち歩く前に、そういう物を入れておくのが先だろうが!
……いや違う。
気づいてたのに入れなかった俺が悪いのだ。
まずいな、元の世界にいた頃よりも沸点が低くなってる。
しかも自分のミスを他人のせいにするなんて。
こういう時こそ落ち着かなければ。
イライラさせる原因の油を学生服になすりつける。
ハンダは面倒くさいで済ませられても、今回の油みたいな直接攻撃は怒りがこみ上げる。
それでも高ぶる気持ちは抑えなくてはならない。
常に冷静たれ、沈着たれ。
それが仕事における心構え。
こんなことくらいで眉を吊り上げていたらスパイ失格だ。
反省しなければ。
一樹はどうなのだろう?
普段から耐えているのか。
それとも並外れた危険察知能力でも持っててかわしているのか。
きっと両方だな。
ハンダはさすがに避けようがない。
一方で先の行動を読んだイタズラを仕掛けてきている辺りは、単純な仕掛けだと一樹がかわしている証だ。
いくら盗撮自体が罪に問われないとしても、そもそもシャッターチャンスがなければ盗撮しようがない。
勝手な想像だが、恐らく一樹はゴキブリ並の予見能力を持っている。
教科書を出す。
血の日曜日事件ということはロシア革命か。
助かった。
仕事柄、近代ロシア史・中国史・朝鮮史は一般常識。
この辺りは世界史が苦手な俺でも答えられるから当てられたって構わない。
心置きなく思考に没頭できる。
まずはこの世界の現況を確かめたい。
新聞は史実と違ったが、教科書はどうなのか。
教科書をぱらぱらぱらめくる。
第二次世界大戦までは史実通りの記述。
固有名詞も元の世界と同じ。
ただしそれ以降は壊斜党みたいに所々が微妙に違う。
どことなく大人の事情をかいま見た気がする。
教科書のあちこちには落書きが書き込まれている。
ニンフちゃんを始めとする女の子達の萌えイラスト。
机と違って一樹自身の手によるものか。
うまいなあ、ここにも一樹の隠れた才能があったとは。
ただし女の子のまつげが太線ではなく、少女漫画っぽく普通に描かれているところに時代を感じる。
スカートからわずかに覗くパンツはシワまでリアル。
やはり一樹はパンツ神と呼ぶしかあるまい。
そして、こいつがまったく授業聞く気がないのはよくわかった。
ノートは……あれ?
ちゃんととってある。
こんな教科書ラクガキだらけのヤツがどうして?
しかも、これだけラクガキしてたらノートとる時間なんてあるまい。
もう一度教科書を見てみよう。
途中まではラクガキぎっしり、しかしそこからは全くない。
再びノートへ。
ノートも最初からきっちり取られているわけではない。
ラクガキの終わった時期とノートを取り始めた時期は一致している。
もしかして、ここで改心した?
それとも赤点でも取って進級が危うくなった?
後で二葉に聞いてみよう。
それはいいとして……お尻が気持ち悪い。
座り立ての時はそうでもなかったが、じわじわと浸みてきた。
おかげで体がぞわぞわし、その一方で妙に肛門の力が抜ける。
尻子玉抜かれるとはこんな感じなのだろうか。
とにかく、一樹がクラスでどの程度のイジメを受けているのかはわかった。
じゃれあいなどと呼べる代物ではない。
ラクガキから想像した通りの、本来的な意味で用いるイジメだ。
これは……まずい。
警察すら手を出せない一樹がイジメを受けている。
これは2‐Bの教室が一種の治外法権であるに他ならない。
恐らくイジメている生徒達の一部の親は、一樹の父を上回る権力者だろう。
K県警本部長と言っても警察庁内部では課長なりたて。
上には上がいくらでもいる。
この手の学園の設定なら警視総監の息子がいるのはお約束だし、そうでなくとも刑事局長や警備局長の息子くらいは平気でいそうだ。
政界なら総理やその他大臣の息子はざらだろう。
財界だとわかってるだけでも華小路がいる。
改めて数尾先生の気持ちがわかる。
もちろん出世はあるだろうが、それ以前に身を守らない事にはどうにもならない。
こんな学校でそんな親の怒りを買えば簡単にクビも飛ぶだろう。
ならばとにかく見ない振り、気づかない振りを決め込むしかない。
二葉も昨日保健室から出た後に言ってたっけ。
「他の先生は都合の悪い事全て見て見ぬ振りするから」
まさに身をもって実感できた。
もしや、さっきの叫びが無視されたのもそのせいか?
つまり問題児の一樹こと俺はいない、もしくは見えないことにされてしまった。
もう、どこまでもろくな学校じゃない。
不快なのがイジメだけならいいのだが……。
横目にして、隣席を視野に入れる。
仏頂面で不機嫌そうに手をスカートのポケットへ突っ込んで座る女子。
龍舞晶。
「上級生」のヒロインの一人で、プレイヤー間では「アキラ」と呼ばれている。
ただしゲーム内でそう呼ぶのは金之助だけで、他の人は「龍舞さん」。
同級生でありながら「さん付け」なのが、彼女の立ち位置を如実に顕している。
ここは俺も皆に倣って「龍舞さん」と呼ぼう。
そんな龍舞さんの二つ名は「公道で舞い踊る緑龍」。
まったく、どんなヒロインだよ。
キラキラしているのは苗字だけではない。
髪は青みがかった緑色で、まるでどこぞのヴォーカロイド。
腰以上に伸びたポニーテールだから、地毛でコスプレできるんじゃなかろうか。
しかしその他はヴォーカロイドと程遠い。
顔は鼻が高くて彫りの深い、いわゆるハーフ顔。
というか、実際にフランス人のクォーター。
瞳までもが緑色ときたものだ。
鋭い目に細面、人によっては美人と映るのかもしれない。
しかし俺にすればただ一言……怖い。
三白眼の寒々とした目が余計にそう思わせる。
「鋭い」というより「険のある」という表現の方がぴったり。
プレイした時もそうだったが、隣に座ってみると更なる凄みがある。
おまけに制服はくるぶしまで伸びたロングスカートときたものだ。
つまり、龍舞さんはいわゆるDQN。
この時代言うところのヤンキーである。
元の世界では確実に見ることができない絶滅種。
そして現実だろうとゲームだろうと俺の一番嫌いなタイプ。
俺に限らず、真っ当に人生を生きてきた人間でこんなの好きなヤツはいないはずだ。
龍舞さんについて今思いだした以外にはほとんど覚えていない。
ゲームプレイ時、脳細胞が記憶に刻むことを拒否したから。
もちろんこれからだって刻むつもりはない。
龍舞さんはAでもBでもない。
二葉のバッドエンドとは何の関係もないヒロイン。
接触する必要性がない以上、龍舞さんとは関わりたくないし関わってはいけない。
絶対ろくなことにならないのだから。
女子はイジメに加わってないと二葉は言っていた。
しかし仮に龍舞さんが首謀者と言われても何一つ不思議には思わない。
だけど……この後には何か非常に嫌な事態が待ち受けている気がする。
そしてこういう予感は当たる。
授業が終わったらダッシュで二葉の待つ写真部部室へ行かなくては。
──キンコーンと授業終了を告げるチャイムが鳴る。
「今日はここまで。よく復習しておく様に」
先生が退室する。
その途端、龍舞さんがゆらりと顔を向けてきた。
「おい」
やばい!
その女性にしてはハスキーで低い声が聞こえた時、俺は既に駆け出していた。




