153 1994/12/04 Sun リビング:ぶつかってくる食パン少女はヒロインの定番じゃないか
「寝る前だから」と差し出されたのはカモミールティー。
鎮静効果があるんだっけか?
二葉がカップを顔に近づけ、鼻孔を膨らます。
うん、澄んでいて落ち着く香り。
「じゃあ差し迫った話の方に入ろうか、イジラッシさんの件ね――」
さっきより口調も気持ちゆったり。
実は二葉自身のイライラを鎮めるためだったのかもと思ったら少々怖くなる。
「――イジラッシさんもミハイルさんも本当にいい人だね。わざわざアニキのために日本に戻ってくれるなんて。しかも今戻ってきてくれるなんて絶好のタイミング」
「麦ちゃんの件があるからな」
俺としては二葉さえバッドエンドを回避できればよく、自身の生存にはこだわっていない。
だから一樹としての生存に関わる麦ちゃんのフラグにこだわる必要もない。
しかしそんなことを口にしようものなら二葉の神経を逆撫でしてしまう。
ただ、麦ちゃんをトラックから助けるのは本来金之助。
代わりに俺が助けてしまったことで、二葉や芽生のルートにまで影響を及ぼしてないとも限らない。
そのことは確認できるならしておきたい事項。
イジラッシの存在がありがたいことには間違いない。
いや、もっとありがたいこともしてもらえるかもしれない。
「金之助も一緒に見てもらえれば手っ取り早いんだけど」
「金ちゃん?」
「二葉、芽生、麦ちゃん。三人のルートの安否は確実にわかる。ついでにどのヒロインとの攻略可能性が残っているかも把握できる」
そうなれば、俺達はより計画を立てやすくなる。
「ああ、そっか。金ちゃんの未来にあたし達がいれば、当然あたし達の未来にも金ちゃんが映ってる。芽生や麦ちゃんについても実際に見なくてもわかるものね」
「イジラッシの話しぶりからして時間はあまり無さそうだけど。段取りうまく組めばそれくらいの時間はあるだろ」
「そこは連絡待ちかな。イジラッシさんからはうちに電話が掛かってくるの?」
そういえば……。
「連絡先教えてなかった」
「ええっ! だめじゃん!?」
「大丈夫だろ。仮にも元KGB、調べる気になればすぐのはず。いざとなれば連絡先知ってる虹野だっている」
二葉の顔が思い切り歪んだ。
「また虹野さんと関わらないといけないわけ?」
「まったくもって同意するが……イジラッシのメッセンジャーするくらい大丈夫だろ。『任せとくにゃん!』と言ってたくらいだし」
「あたし、女として、あの子の『任せとく』は聞きたくないわ……というかさ、虹野さんって本当に上級生のヒロインなわけ?」
「八重歯見たろ? 信じたくない気持ちはわかるけど正真正銘ヒロインだよ」
「信じたくないのはその通りだけど、そこじゃなくて。虹野さんってイジラッシさんが帰国するとき見送りに行ったんだよね?」
「見送りと言えるかはともかく、会いには行ったらしいな」
「どうしてその時にイジラッシさんは虹野さんがヒロインって気づかなかったの? ヒロインなら絶対に金ちゃんとのエンディングが見えるはずじゃん」
あっ!
「そういえば……そうだな」
イジラッシの見ることができる未来は一ヶ月以内。
裏を返すとゲームが始まった時点でエンディングを見ることが可能になる。
空港で虹野とイジラッシが会ったのは月曜日。
フラグが立っていようといまいと、ヒロインである虹野の未来には金之助が映っていないといけない。
しかもイジラッシは金之助が主人公というのを知っている。
見えた時点で虹野がヒロインであることに気づくはず。
そこまで考えが及ばなくとも、イジラッシは虹野のぼっちな未来に同情していたのだから、結ばれる男が見えた時点で驚いただろう。
いや、一つだけ例外がある。
「フラグが既に折れてしまっていたなら見えないか」
「虹野さんと金ちゃんのフラグってそんなに簡単に折れるの?」
「最初のフラグはむしろすぐ立つ。ゲーム開始初日に出雲町をうろついていると、制服姿で食パンをくわえた虹野と高確率でぶつかる。そしてわけわかんないこと言って去って行く」
目をぱちくりさせた。
「……それ、本当にヒロイン?」
「ぶつかってくる食パン少女はヒロインの定番じゃないか」
もちろん「ヒロイン」がキーワードの虹野だから、わざわざネタにされてるわけだが。
「よく言われるけど、そんなマンガって一つも読んだことない気がする」
俺も使徒と戦う死海文書が題材のアニメの最終回くらいでしか見たことない。
あれもパロディだろうから、原典はどこにあるのか知らない。
そんなことはどうでもいいな、説明を本筋に戻そう。
「一見して電波MOBなのがポイントだよ。そんなやりとりを何度か繰り返して神社に行くと、見紛うほどに清楚な巫女姿の虹野にびっくりする。そのギャップで第二フラグが立つ」
「……男の人って単純だね」
「うるさい! 神聖なる巫女服でたわわな巨乳見せられたら誰だってそうなる!」
思いっきり眉間にシワを寄せジト目を寄越してきた。
「それ以上は引くから止めて。もし土日に虹野さんと会わなかったらどうなるの?」
「ゲームセット。神社に行って虹野を見かけても『かわいい巫女さんだな』で終わってしまう。ただ何となくのプレイでも初日と二日目は街中をあちこち散策するから、だいたい最初のフラグは勝手に立つ。折れるとすればそれ以降かな」
二葉が「うーん……」と思案してみせる。
何かに気づいたように膝を叩いた。
「わかった! どうして虹野さんのフラグ折れたか!」
「どういうこと?」
「アニキは『街中』っていったよね。つまり『学園』はその中に入らないよね? そして『高確率』ということは、ぶつからない確率もそれなりにあるということだよね」
「その通りだ。でもうろついていれば大抵はぶつかるくらいの確率だぞ」
「だったら金ちゃんは土日ずっと保健室にいた。一度お酒買いに出てるけど酒屋行って帰ってくるだけならうろつくという程でもない。それでフラグ潰れたんじゃない?」
ふむ……筋は通ってる。
「そんなところなんだろうな」
もっとも、違っていたところで問題はない。
特異な現象を説明できるだけの仮説があれば十分であり、これ以上の議論は実がない。
重要なのは、理由はいかあれ虹野と金之助が結ばれないことは確定しているということ。
つまり虹野には見えざる手の影響を考えることなく動いてもらえるということだ。
……そんな場面があるのか謎だが。
取り急ぎ話し合う必要があるのはこのくらいだろう。
二葉がぶつくさとカップを片付け始める。
「イジラッシさんじゃないけどさ、あの虹野さんがギャルゲーのヒロインだなんて。男の子って本当にわからないわ」
「そうはいってもヒロインとしてはお前よりもずっと人気だぞ。しかも一年生だからお前より格上扱いで、パッケージにも大きく描かれてるし」
ガラガラッと二葉の手からティーセットが滑り落ちた。
肩が震え、目にどんより影が差す。
「やっぱりニンフ、潰す……」




