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12 1994/11/27 sun 屋上:兄にとって妹は女ではない

 二葉が屋上へ続くドアを開ける。

 そこには花の溢れる庭園が広がっていた。


 庭園内に足を踏み入れる。

 全体に落ち着きながらも洒落た風情がいかにもこの学園らしい。

 庭園のあちこちにはベンチや小さめの円卓が置かれている。

 入口付近にはドリンクの自動販売機。

 屋上端に張り巡らされた事故防止用のフェンスは高くて無骨。

 上部はネズミ返しの形状をしており、そう簡単には乗り越えられそうにない。


 二葉が庭園中程で立ち止まる。


「ここが生徒達の休憩場ってとこ。雰囲気いいでしょ」


「ゲームで知ってはいたけど、直接見ると壮観だな」


「ここなら落ち着けるし、お茶しながら話そ」


 ──「ポットのお茶はぬるいから」と、二葉が自動販売機へいざなう。


「頑張って走った御褒美に奢ったげる」


 二葉が販売機に硬貨を入れて、ニッと笑う。

 それならとブラックコーヒーのボタンを押──そうとしたところで指を止めた。


「一樹がいつも飲むドリンクってある?」


「特にないけど、コーヒーでも紅茶でも砂糖どっぷり」


「うっげええええええ」


「そんな顔しないで。そこはダイエットしてる事にすればいいよ。一樹の『口だけダイエット』は、みんな知ってるからさ」


 本棚にもダイエット本が並んでたくらいだものな。

 安心してブラックのボタンを押す。


「気を使ってばかりでノイローゼになりそうだ」


「根本的な対策を考えないとね。もっと非常に深刻で厄介な問題があるし」


「深刻?」


 二葉が口をへの字に結び、おずおずと答える。


「盗撮。息を吐く様に盗撮してた人が突然止めちゃうのはおかしいじゃん」


 ホントに頭痛くなってきた。


 ──円卓に着席する。


 コーヒーを一口啜り、目線をぼーっと上にやる。

 空が近く感じるなあ、これも屋上ならではの感覚。


「アニキ、くつろいでるところ悪いけど話に入っていい?」


 そうだ、この後は保健室にも行かないといけないんだし。


「すまん、始めてくれ」 


「確認したいのは一樹の性癖についてなんだけどさ──」


 だろうな。

 さっきの会話で俺達の認識が大きく食い違ったのはそこだ。


「──アニキは一樹が生身の女に興味ないと思ってる、でいいんだよね」


 何をわかりきったことを。

 いや違う。

 わざわざ確認してくるからには意味がある。


「金之助だって、俺の説明で納得してたじゃないか」


「金ちゃんも知らなかったからだよ。だから結果論としてあたしがミスったのは認める、ごめんなさい」


 二葉が頭を下げる。

 ただ行為の真に意味するところは謝罪じゃない。

 続く話の布石だ。

 謝るだけなら金之助が去った後で一言言えば済むのだから。


「本題を聞かせてくれ」


「今から話す事は信じがたいかもしれないけど、最後まで聞いてもらえる?」


「わかった」


 二葉は円卓の上で手を組み、深い呼吸を幾度か繰り返してから話し始めた。


「実は一樹とトイレで事故ったのは昨日が初めてじゃないんだ。先日も同じ事があって……違うのは鍵が予め壊れてたか、その時に壊れたかだけ──」


 は? いや、黙って聞かないと。

 二葉は顔を赤らめて訥々と続ける。


「──それであたしが……その……まさに……してる最中だったんだけど……一樹の目線は下の方……つまり……あたしの……アソコをじっと見つめてて」


「待て」


 ツッコミを入れてしまった。

 しかし二葉は構わず続ける。


「そこまでは昨日のアニキと同じなんだけどさ」


「同じじゃない! 俺は固まっただけだ!」


「しっかり覚えてた人がどの口で言ってるのさ。アニキの記憶を消し去るべく、脳漿飛び散るくらいに全力で頭をぶっ飛ばしたいんですけど」


「むしろやってくれ」


「また今度ね──」


 くすりと笑ってから続ける。


「──違うのはここから。あたしは『出て行け』と叫んだ。『変態』とも罵った。だけど一樹は無言でずっとそのままだった」


「こわっ!」


「あたしも怒りより恐怖の方が先に立って。用を足し終えるや、ダッシュで逃げ出したよ」


 「拭かなかったの?」とか「流さなかったの?」とか、そんな疑問が頭に浮かんだ。

 つまり……。


「それだけ怖かったということか」


「そういうこと。この話を聞いても生身の女性に興味ないって言えるかな?」


 二葉は大きく頷いてから、斜目がちな目線を寄越す。

 これは話を結論づけるための問い。

 理由までは聞きたくないだろうから簡潔に答える。


「言えない」


 アソコはもちろん、おしっこなんて生々しさの極致だ。

 大昔は「アイドルはトイレに行かない」と言われていたらしいが、偶像という点では二次元ヒロインもアイドルも変わらない。

 二次元のおしっこはおしっこではない、あくまで「聖水」なのだ。


「でしょう。それが答え」


 二葉が憮然とした表情で頬杖をつく。


 俺には現在の二葉の心境が理解できる。

 なぜならこの話には生身がどうのより、遙かに重大な問題を秘めている。

 それはアソコとおしっこのどちらに興味を持ったか、という変態性の問題ではない。

 もっと本質的で根源的で道徳的かつ倫理的な問題である。


「何かの間違いじゃないのか?──」


 俺が話の真偽について聞いているわけではないのはわかるはず。

 二葉はそれを肯定する様に黙って頷く。


「──ありえない。兄にとって妹は女ではない。理性でなく本能で受けつけない」


 俺はもちろんのこと、これは妹のいる友人知人全てが口を揃えている。

 晴海は「本当に雨木の妹かよ」と何人からも言われるくらい客観的にもかわいかった。

 だけどそれでも劣情を抱いた事なんて一度たりともない。


「普通はそうだよね。特にアニキはお姉さん好きみたいだし」


「は? 別に姉フェチじゃないぞ?」


 どうして、そんなことを口にする?

 しかし二葉はもっと意外な言葉を続けた。


「国際経済学の勉強するのは結構だけど、読んだらちゃんと片付けといてね」


 ちょっと待て。

 確かに枕元に置きっぱなしのままだった気はするが。


「どうして、お前が本の中身を知っている」


「だってあのカバーかけたのはあたしだもん。見苦しいにも程がある」


 なんてこった。

 二葉は露骨に眉をひそめながら紙コップを口につける。


「さすがにプライバシーの侵害だろう。母親ならまだしも、どこの世界に兄のエロ漫画にカバーを掛ける妹がいる!」


「見られて困るなら読んだまま床に散らかすな! 兄のエロ漫画にカバー掛ける妹の気持ちがわかるか!」


 俺がやったわけじゃないのに、なぜ怒鳴られないといけない。

 いや、問題はそこじゃない。

 「国際経済学」のカバーを掛けたのが二葉ということはだ。


「もしや『ミクロ経済学』の中身も?」


「当然知ってる。せめてどっちかだけなら……」


 二葉が溜息混じりに語尾を掠れさせる。

 どっちか、つまりトイレの一件と「愛兄妹」。

 その両方が揃えば……。


「チェックメイトだな」


 二葉が頷いてから口を開きかけるも一旦つぐむ。

 唇は微妙に動いているから言葉にするのを躊躇っているのだろう。

 表情が張り詰めていく。

 俺から目を逸らす様に俯き、口元を隠す様に両手を組む。

 そしてぼそりと呟く様な声が耳に届いた。


「こんなの言ってはいけない……だけどそれでも……一樹がいなくなった……そう思った時あたしは心が安らいだ。むしろ嬉しさすら感じた」


「それこそ人として当たり前だろ」


 即座に切り返す。

 訥々とした語り口はそのまま罪悪感を物語っている。

 だけど物事には限度がある。

 ここで二葉が喜んだからと言って誰が責められようか。


「ありがと」


 二葉が両手を解いて頭を上げる、その表情は緩んでいた。

 実のところは誰かに打ち明けたかったのだろう。


「親には話した?」


「迷ったけど止めた。話せば間違いなくあたしはK県行きだから」


「いいことじゃないか、それで一樹から離れられるだろ」


 二葉の釣り目がさらに釣り上がる。


「あたし、父さんが大嫌い。同じ空気すら吸いたくない」


「どうして?」


「そこはあまり話したくない……ただ父さんは心の無い人だから」


 その言葉だけで霞ヶ関の住人である俺には大方の察しがつく。

 恐らく兄妹の父親は典型的……いや、一樹が謝れないというのも合わせれば、最悪な部類のキャリア様なのだろう。

 つまり自らを「神」だの「国家」だのと称して憚らない重度の厨二病患者。

 「カカカ」とか「キキキ」とかカ行五段だけで笑う悪役キャラみたいな親なぞ、俺なら絶対に持ちたくない。


「だけど、それでも父親といる方がマシなんじゃないか?」


 少なくとも貞操の心配はしなくていい。

 しかし二葉は首を横に振る。


「一樹はいざとなればぶん殴れば済むけど、父さんは違うから」


「どんな基準だよ」


「それだけじゃない。あたしは一樹を見捨てられない。もしあたしがK県に行っちゃったら、一樹は本当に独りぼっちになっちゃう」


 はあ?


「さっきまでの話はどこ行った」


「あたしだって複雑なんだよ。だから罪悪感あるんじゃんか」


 ああそうか、もし一樹がどうでもいい存在ならそんなことは思わないか。


「もし単に身内だからっていうなら、もはや見捨てても許される状況だと思うぞ」


 二葉は首を横に振る。


「今は最悪だけど……昔は一樹って最高のアニキだったんだ」


「最高のアニキ?」


 これまた一樹には似つかわしくない形容が飛び出した。


「あたし、小さい頃は引っ込み思案だったんだ。そのせいで女の子達の輪には入れなくて、男の子達にはいじめられてた──」


 今の二葉からは想像つかないが、話の腰を折りたくない。

 黙って耳を傾けよう。


「──一樹はそんなあたしを守ってくれてたんだ。独りでいれば遊んでくれて、いじめられてれば男の子達に飛びかかってくれて」


 二葉は当時を思い出したのかはにかんでみせる。


「本当にいいアニキぶりじゃないか」


「まあね。でもそんなことを繰り返している内に、今度は一樹までいじめられる様になっちゃった」


「そんなこと続けてれば同性を敵に回すよな」


「だからあたしも『もう大丈夫だから』って言い続けたんだけど、一樹は『別にいいよ』と笑い返すばかりでさ」


「それは……気持ちわかる」


 仮に俺が一樹でも同じ様に振る舞う。

 だって「大丈夫」と口にする自体が強がり以外の何物でもない。

 そもそも妹をいじめる奴等なんて友達じゃない。

 いじめられたところで望むところだ。


「そうね。あたしもいつしか悟った。自分が変わらないとダメなんだって。それでまず手始めに髪を切って男の子っぽくしてみた──」


 発想がかわいらしいというか、子供らしいというか。


「──次に勇気を出して女の子達に話しかけてみた。色々あったけど何とか輪に入れて、あたし自身の問題は片付いた。けど、一樹の状況は変わらなかった」


「うん」


「そこに父さんの仕打ちが重なって……いつしか一樹は取り返しのつかないところまで歪んでしまってた」


 仕打ち、ね。

 いじめに対してやり返さない一樹を締め上げたか。

 はたまた勉強やそれ以外の何かしらで責め続けたか。

 当然殴る蹴るもあっただろう。

 エリートの親がやりそうなお定まりの過ちとしてはそんなところか。

 そういう人は自分が何でもできる分、できない他人が許せないらしいから。


「話はわかったけど……」


 何と言えばいいのやら。

 言い淀んでいると、二葉は「何も言わなくていい」とばかりに頭を振る。


「幼い頃とは言え、一樹があたしにしてくれたことは忘れたくない。はっきり言えば……あたしはやっぱり一樹が好きなんだろうな」


「現在形ということは今でもそうなんだよな?」


「確かに現在の一樹はキモイし怖いよ。逃げたいとすら思ったのも本音──」


 言葉を溜めた二葉の目に強い光が宿る。


「──だけどそれでも、あたしにとってはたった一人のアニキだから」


「そうか」


 そこまで言い切るのなら、もう何も返すことはない。


 二葉が自らの髪に手櫛を入れ、俺に見せつける様に真横へと引っ張り流す。


「あたしが髪を短くしてるのも『変わらないと』って思った時のことを忘れないための戒めみたいなものでさ。もし一樹を立ち直らせることができれば伸ばすつもり」


「願掛けというのはそういう意味か」


「そのためには、まず一樹に帰ってきてもらわないとだけどね」


「じゃあ俺を助けたいと思うのも……」


 二葉がこくりと頷く。


「アニキを助けたいという言葉にも気持にも嘘はない、それは信じて欲しい。だけど、そもそも状況を動かさないと一樹は帰ってこないから……」


 俺を助けざるをえない、ということか。

 二葉は気まずそうな表情をしているが、むしろ腑に落ちた。


「でもアニキ、一樹が帰ってくるということは──」


「その先は言わなくていい、謝る必要もない」


 先んじて釘を刺す。

 言いたくない言葉を言わせたくはないし、聞かなくてもわかる。

 つまり一樹の帰還を望むのは、この世界から俺が去るのを望むに等しい。

 しかもその場合に俺がどうなるかはわからないのだから。


 二葉にしてみれば複雑な気持にもなろう。

 しかしその心境は、同時に俺の身を真剣に案じてくれている証でもある。

 俺にとっては二葉がサポートしてくれるだけでもありがたい。

 それで謝られたら、かえって複雑になるというものだ。


「アニキ、色々とありがと」


 二葉が深々と頭を下げてくる。

 それを見ない振りして立ち上がり、空になったカップ二つを手にする。


「ただの確認をしただけだろ。保健室行こうぜ」


「うん!」

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