113 1994/12/01 Thu 出雲町内:私は乞食じゃありません
芽生の車の中。
俺は助手席、二葉、芽生、麦ちゃん、一郎が後部座席。
本来なら芽生が助手席だろうが、「一樹君は怪我人だから」と前に回らされた。
銀行が破綻寸前でもお抱え運転手付の車を持っているのは、やはり頭取のお嬢様。
リムジンではないが普通に国産の黒塗り高級車。
シートもふかふかで気持ちいい。
後方では、一郎が無邪気にはしゃいでいる。
「すっごい車! 僕、こんなの乗ったことない!」
「ふふ」
バックミラーで様子を窺う。
運転手側から芽生、一郎、麦ちゃん、二葉の並び。
麦ちゃんが気まずそうな顔で一郎を窘める。
「一郎、静かにしなさい」
「いいのよ。一郎君、うちの車でよければいつでも乗せてあげるわ」
「わーい、やっぱりおっぱい大きい芽生おばちゃんはやさしいなあ」
言いながら、芽生の胸を鷲づかみ。
「一郎、やめなさい」
「いいから、いいから」
芽生が優しく一郎の頭を撫でる。
この子供ならでは許される光景って、本当にお約束だよなあ。
エロゲーというよりフィクション全般における。
二葉は頬杖をつき、窓の外を眺めている。
芽生が人気な状況に憮然としてるかと思いきや無表情。
恐らく頭の中で、あれこれと考えを張り巡らせているのだろう。
俺も窓の外を眺めることにしよう。
風景の流れていくスピードはゆっくり。
住宅街だからな。
ジョギングしたときのお屋敷街がそのままリピートしていく。
麦ちゃんの声が聞こえてくる。
「すみません……そこを左に……」
街並みが急に庶民じみた。
ごくごく普通の民家やアパートが立ち並んでいる。
既に暗くなってはいるが見覚えのある昭和な光景。
先日訪ねたイジラッシの家の近くだ。
あの時イジラッシの目には細い線にしか見えなかった麦ちゃんが、今は後部座席にいる。
もし彼が今の俺を見たら、その目にはどんな運命が映るのだろう。
未来を変えてしまったかもしれないことも含めて。
再び麦ちゃんの声。
「すみません、この辺からゆっくり……停めてください」
車が停まり、ドアが開く。
まず二葉、続いて麦ちゃん、一郎、芽生。
最後に助手席の俺が降りる。
目の前には古びたアパート。
「ここが麦ちゃんの家?」
いかにも安普請で想像した通りだ──と思ったが、違った。
「いえ、車が入っていけないので……こちらです」
麦ちゃんがアパート脇の細い路地へ入っていく。
その後ろをついてい──く!?
なんだ、ここは!
細い脇に並んでいたのは、今にも朽ち果てそうな長屋だった。
暗くてもわかるくらいぼろぼろな、一階建ての木造建築。
明るいところで見れば、きっと黒く変色してしまっているだろう。
見上げると、屋根はトタンに重しの石。
まるで目に炎を宿した主人公が「日本野球の盟主」な球団のエースを目指し、魔球を駆使して最後は破滅してしまう漫画に出てきそうな光景。
これはもう、昭和は昭和でも俺の知ってる昭和じゃない。
あの漫画は元の世界で五〇年近く前──昭和四〇年前後だ。
二葉がぼそっと呟く。
「出雲町にこんな所が……?」
目を丸くしている。
住民の二葉すら知らなかったのか。
一方、芽生は微笑をたたえていた。
しかし打ち解けた今ならわかる。
これは動揺を隠しているだけ、思うところは二葉と同じだ。
「こちらへ……」
麦ちゃんが路地の奥へ進んでいく──立ち止まった。
「ここです。お金とってきますので待ってて下さい」
麦ちゃんの家は周りに負けず劣らずぼろぼろ。
貧乏という察しはついていたけど、こんなの想像してなかった。
「ん、しょっと──」
麦ちゃんが引き戸を抱えるようにしながらこじ開ける。
いかにも立て付けが悪そう。
「──ただいま」
「おかえり!」
何人かの子供達の声が重なって聞こえてくる。
とりあえず「兄弟は複数」という見立ては当たったようだ。
麦ちゃんは再び玄関の戸を閉める。
お金取って戻ってくるだけなら開け放しでもよさそうなものだが。
──しかし、その理由はすぐにわかった。
中から耳を疑う会話が聞こえてくる。
「二子、ごめんなさい。明日の給食費待って」
「えーっ、もう先生に言っちゃったよ。ずっと待ってもらってたお金、明日払えますって」
「本当にごめんなさい、一郎の入院費が足りなくて……」
「一郎兄ちゃんのバカ! どうして車にひかれたりしたんだ!」
「ごめん」
「二子、ごめんね。ごめんね。本当にごめんなさい……」
「ひっく、ひっく……麦姉ちゃん頭上げて。お姉ちゃんがあたし達のために頑張ってくれてるのわかってるから……我慢するから……」
五〇〇円だぞ? たった五〇〇円だぞ?
それなのに、どうしてこんな愛憎劇が繰り広げられる。
麦ちゃんが戸を閉めたのは、こんな会話を聞かれたくなかったからか。
丸聞こえなのには変わりないが、戸を開けたままする会話じゃないのは確かだ。
──再び、ガタガタと扉が開く。
出てきた麦ちゃんの目はうっすら腫れていた。
芽生に向けて手を伸ばす。
「芽生さん、お借りした五〇〇円です。本当に助かりました」
「い、いえ……いいわよ……お近づきの印に奢らせていただくわ……」
表情は強張り、声を上ずらせている。
しかもこの状況で「お近づきの印」ってなんだ?
さしもの芽生も動揺を隠しきれなくなってきた。
しかし麦ちゃんは芽生の申出をきっぱりと撥ねつける。
「結構です。私は乞食じゃありません」
先程までのおどおどした様子はどこへやら。
芽生を真っ直ぐに見据えている。
「乞食って、そんなつもりは」
狼狽える芽生に、麦ちゃんが追い打ちをかける。
「暮らしぶりを見て同情なさったのでしょうが、こんな私でもプライドは持っています。所縁のない方から言われ無きお金は受け取れません」
「い、いえ。何か気に触ったのなら謝るわ。それより妹さんの給食費が──」
「それは松本家の話。芽生さんの心配することじゃありませんし、何とかします」
「何とか、って──」
芽生はさらに言い返そうとするも、口を閉じる。
そして隣に立つ二葉へ目をやった。
芽生の袖をつまんで引っ張っている。
「ここは引こう」の合図だ。
「麦さん、わかったわ。でも何かあったら、いつでも相談に来て」
「ありがとうございます、おやすみなさい」
麦ちゃんは手短に話を締めると、ぺこり御辞儀して扉を締めた。
──中から一郎の声が聞こえてくる。
「給食費は残念だけど、お前達に土産があるぞ」
「うわっ! うまうま棒だ! これ、どうしたの?」
「芽生おばちゃんからもらったんだ。それでお前達の分も持って帰ってきた」
「一郎! あなたはどこまで!」
「芽生おばちゃんに『お姉ちゃんに怒られたら、お見舞いにもらったと言いなさい』って」
「お見舞い……それなら仕方ないわね……」
「麦姉ちゃん、一郎兄ちゃん、じゃあこれ食べていいの?」
「はあ。それじゃ芽生さんに感謝しながら味わって食べなさい」
「わーい! そういえば、芽生おばちゃんって誰?」
「すっごいきれいで優しくて、まるで天使様みたいなおばちゃん」
たかが一本一〇円のうまうま棒で……。
ゲーセンでの一郎の「お姉ちゃんに怒られるから」を思い出す。
あの後、一郎は一体どれだけ怒られたのだろうか。
立ちすくむ芽生の肩を、二葉が軽く叩く。
「帰ろう」
芽生は頷き、来た方向へ歩き始める。
車に戻ると運転手に「出雲病院へやって」。
以後、病院に着くまで、三人の間で発せられた言葉はそれだけだった。
※※※
「芽生を巻き込んじゃったなあ……」
病室への道すがら、二葉がぼそりと呟く。
麦ちゃんの家に行く手はずを整えたのは芽生自身。
「巻き込まれた」という表現を用いるなら、その対象はむしろ俺達の側だろう。
そもそもどちらが悪いという話ではない。
いずれは知ったはずだし知るべきだったこと。
そのタイミングとシチュエーションが悪かったというだけだ。
でも、こんなの口にしたところで慰めにはなるまい。
「そうだな」
相槌だけ打っておく。
ちゃんとしたフォローは、必要だったら後ですればいい。
──病室のドアを開けると、アイがベッドの上にちょこんと座っていた。
「よお、おかえり」
「ただいま──って、おい! 何を読んでいる!」
手にしてるのは院長の置いていった宝物、もといロリータエロ本じゃないか!
しかもアイにそっくりなモデルの!
「兄様って、つれない素振り見せてたが。実はこういう趣味があったんじゃのう」
「ないわ!」
「しかもこの女の子、見れば見るほどワシにそっくり。そっかあ、そうだったんじゃのう……ひっひっひ」
「変な笑いするな!」
「いやいや、いいんじゃぞ。どれ、同じポーズでも」
「止めろ! 二葉とりあげろ!」
「いえっさー!」
二葉が勢いよく飛びかかる──も、アイは本を持ったまま宙へ逃げる。
「幽霊と追いかけっこして勝てるわけないじゃろう。そんなこともわからないなんて、小娘は胃袋だけじゃなく頭の中までブラックホールなんじゃないか?」
「黙れ! それは子供の読むものじゃない!」
「わしの中身は実質六十歳超えた老婆と言ったはずじゃが」
「どうでもいい! 早くその汚らわしい本をよこせ!」
「小娘も読みたいのか?」
「読むかっ! すぐさまゴミ箱に叩き込んでやる!」
アイがふわりと床に下りてくる。
「ちょっとからかっただけなのに短気な奴らじゃのう……ほれ」
そして本を、俺に差し出してきた。
二葉が憮然とする。
「『よこせ』と言ったのは、あたしなんですけど」
「小娘に渡したらゴミ箱行きじゃろうが。そんなことされたら、院長がショックでぽっくり逝きかねん」
あれ? アイは院長来た時いなかったはずだが。
「どうして知ってる? 隠れて見てたのか?」
「わしこそ、どうして院長の宝物がここにあるのか知りたいのじゃが」
「院長が持ってきたからだが」
「だからどうしてそうなったのかと聞いてるんじゃが」
キリがない。
「まず俺が事情を話す。その後で説明頼む」
「わかった」
かいつまんでランチと先程の病室でのことを説明する。
──聞き終えたアイがぼそりと呟く。
「随分と気に入られたものじゃのう。あと、あの金髪女がキヨシ君の娘だったとは気づかなかった」
「キヨシ君?」
「院長の名前。聖人の『聖』でキヨシ」
なんて似合わない名前だ。
「名前なのはわかる。そうじゃなくて、その呼び名はなんだ?」
ついで二葉も不思議そうに続く。
「『気づかなかった』ってどういうこと? 若杉先生を知ってはいたということだよね?」
「あー……まあ……なんというか……その質問の答えは、これからわしがする話と関係ある」
いきなり口籠もり始めた。
「神妙な顔をしてどうした。話しづらいなら話さなくてもいいぞ」
「いや、わしはいいんじゃがキヨシ君に……というのが、実は話を辿ると……その辺の事情はわしにも責任があっての……」
事情?
まあ、聞けばわかるか。
「話してくれ」
「実は、わしとキヨシ君は幼馴染なんじゃ」
呼び名から察しがついたので、ここは驚かない。
院長も生前のアイと同じくらいの年齢に見えるし。
「ふんふん、続けて」
「一番仲がよかった男友達ではあった。ただ、それ以上じゃなかった」
二葉が口を挟む。
「幼馴染同士って恋愛漫画の王道パターンじゃない?」
「戦時下の緊迫した状況で異性交遊にも厳しかったし、まだ一〇歳じゃし、とてもとても。ただキヨシ君にしてみれば、そうじゃなかったらしくての……」
「告白されたとか?」
「いや……わしがキヨシ君の気持ちを知ったのは今際の際じゃ」
「死に際?」
アイがこくりと頷く。
「この部分はわしの記憶がないのでキヨシ君の独り言を聞いた話。わしは黒焦げになっても辛うじて息があったらしい。それをキヨシ君が見つけてくれて、軍の病院だったこの地へ連れてきてくれた」
「うん」
「ここからは実際に見た光景になる。わしは幽体離脱し、『ああ、死んだんじゃな』と思った。そのとき真っ先に目に入ったのは、軍医に食い下がるキヨシ君じゃった。『アイちゃんを助けてくれ! まだ生きてるんだ!』って」
「うん……」
「軍医は一瞥しただけで『もう助からない』と取りつくシマもなし。すがりつくキヨシ君を『邪魔だ』と振り払った」
「うん……」
「ここでキヨシ君はわしが息を引き取ったことに気づき、傍らで泣き崩れた。『ごめん、助けてあげられなかった。好きだった、ずっとアイちゃんが好きだった』って」
「うん…………」
「わしがキヨシ君の気持ちを知ったのは、この時。『ありがとう』と答えたのじゃが、残念ながらキヨシ君の耳には届かなかった」
「うん…………」
「キヨシ君は何もできなかった自分の無力さを痛感し、好きな人を自分で治せるだけの力を持とうと決意した。それで猛勉強してT大医学部に入学、医者になったというわけじゃ」
「あの院長にそんな過去が」
医者になった動機は全く純粋なものだった。
容貌とも言動とも似つかわしくないだけに想像すらしなかった。
「ごうつくばりなのも、軍病院の跡地を買い取るのに苦労したせいじゃ。『僕は絶対、出雲町の人達に、あんな軍医みたいな冷たい目を向けない。向けさせない』って、この地に病院を出すことにこだわっての」
「でも買い取った後もごうつくばりなんだよね?」
「それは最先端の医療設備導入とかしとるから。『患者を助けるためには最大限の可能性を追求しなくてはならない』と思っての。だから出雲病院は国立病院に匹敵する医療水準とかなんとか」
若杉先生も「出雲病院の医療レベルは信用している」と言ってたっけな。
「どこまで言ってることとやってることが違う人なの。ごうつくばりな理由を若杉先生は?」
「娘どころか誰一人として知らんと思う。わしの写真に向けて語りかけてたのを聞いただけで、キヨシ君自身は『口にせず行いに移すが良し』を信条にしとるから。実際に金稼ぎのためには手段を選ばんし、傍から見たら守銭奴にしか見えんじゃろう」
「手段を選ばないとは?」
「初日に兄様にも言ったが『そういう経営者じゃからこそ、こんな大きい病院が建つ』。兄様の家が裕福なのは察しがつくし、キヨシ君はとれるところからはガッポリとる」
なんて傍迷惑な。
でも色々と腑に落ちた。
純然たる正義とは言いがたい。
でも信念を持って行動しているところや患者思いなところは若杉先生と同じ。
やっぱり、あの二人は親子なのだ。
あの食堂にしてもそう。
真のごうつくばりなら、いくら親バカでも採算のとれないものは却下する。
恐らく若杉先生の真意を汲み取り、かつ同意した上で設置したのだ。
その点において損得度外視だったのは本当なのだろう。
そしてアイが出雲病院に現れる理由も。
深く考えたこともなかったが、なんてすさまじい裏設定なんだ。




