112 1994/12/01 Thu 一樹の病室:T大の同級生よ
「二葉さん! 二葉さん!」
芽生が二葉の頬をペシペシ叩く、しかし目は閉じられたまま。
「芽生、どんだけ全力で拳入れたんだよ」
「普通に当身しただけよ。わたし、護身術習ってるから」
いったいどれだけの習い事してるのか。
お嬢様ヒロインゆえ、習い事が多いという設定は確かにあったけどさ。
こんな明後日の方向で出てきてもって感じだ。
「仕方ないなあ──」
二葉の耳に顔を寄せ、囁いてみる。
「──お兄ちゃんみたいなお姉ちゃん」
ピクリともしない。
「ダメか」
「若杉先生じゃないんだから」
「しれっと言うな! 誰のせいだと思ってるんだ!」
「仕方ないわね──」
今度は芽生が耳打ちする。
「──釣り目が怖い、人生一七年ずっと彼氏無しの、腹黒タヌキで性格人格最悪な、なぜか豆乳大好きな、人の話を聞かないお姉ちゃんみたいなお兄ちゃんの脳筋娘」
ピクリともしない。
「ダメみたいね」
「同じ事やってるじゃないか」
「ちゃんと『お姉ちゃんみたいなお兄ちゃん』に変えてみたわ」
「脳筋『娘』ってつけちゃダメだろ」
「それだけ理屈っぽく責められる人が、どうして数学赤点なの?」
芽生こそ、ああ言えばこう言うじゃないか。
微笑をたたえて勝ち誇ってる辺り、二葉も芽生も変わりはしない。
似た者同士というより、この年頃の女子はこんなものなんだろう。
「能ある鷹は何ちゃらってことだよ」
と答えておこう。
もうじき始まる期末試験で赤点をとるわけにいかない。
そのための伏線として丁度いい。
「ふーん。ま、わたしは一樹君って本当に能ある鷹だと思ってるわよ」
ニコっと笑うなああああああああああああああああ!
こんな甘々な台詞を聞かされ続けると、どっぷり砂糖まぶしてシロップかけたパンケーキ並に脳味噌やられそうだ。
キリが無いし、ナースステーションへ電話する。
「すみません、気付け薬みたいなの持ってきて欲しいんですが」
──ドアが開く、しかし現れたのはナースじゃなかった。
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。持ってきてやったぞ」
「院長! どうして!」
「ちょうど君の病室へ土産を持っていく途中だったものでな」
「土産?」
手にしていた長四角の紙袋をベッドへ投げてきた。
開いてみる──って、これは!
「あんた、何て物持ってきてるんだ!」
「私の秘蔵の宝物を贈呈すると言ったじゃないか」
入っていたのはロリータ写真集。
「俺はロリじゃないって言っただろうが! 持って帰れ!」
しかもモデルはツインテールでアイそっくり。
こんな物、余計に見られるか!
というか、アイに見られたらどうするんだ!
「秘蔵の宝物なのに……じゃあ持って帰ってやる。だから、その代わりに桜との仲を取り持ってくれ」
「だから、どうして俺に!」
「私とて桜の父親。あの子が君を気にかけてるのは一目見ればわかる」
そこは同意する。
全員に公平・平等な若杉先生じゃあるけど、その範囲で親身になってくれているのはわかっている。
でもそれは、一樹みたいな困ったちゃんなんて他に存在しないからにすぎない。
完全無欠なる目下の身で仲を取り持つなんてできるわけないだろう。
「そうですね」
くらいしか答えようがない、どう続けるか。
ここで芽生が院長に声を掛けた。
「野々山のおじさま、こんばんは」
「おや、芽生君じゃないか。本日診察なのは聞いていたが午前中じゃなかったのかね?」
「今は彼、一樹君のお見舞いです」
芽生に問う。
「知り合い?」
「父の古くからの親友なの」
だから処女検診も出雲病院なのか。
医師には元々守秘義務があるけど、友人同士なら完全に信用できるだろうし。
「親友って、まさか──」
「T大の同級生よ」
「ロリ?」と聞き終える前に、さっくり否定された。
芽生も院長の病癖は知ってるんだな。
というか、こんな一樹並の完全アウトなヤツでもT大。
それも医学部かよ。
若杉先生の頭脳を考えたら当たり前の感はあるが、それでもどこか理不尽さを感じる。
「引水──お父さんの体調はどうだ?」
「残念ながら、復帰するにはまだまだです」
「そうか。あいつの窮地は心得ているつもりだし、当院に入院するなら商売っ気抜きで面倒みてやるんだが」
芽生が微笑む。
「親友だからこそ頼れないというのが父の性格ですので。でもおじさまの友情はわかってますし、感謝してますわ」
「望まぬ形とは言え、久々に夫婦水入らずの時間を得たのもあるしな。いずれにしても、しっかり養生してほしいものだ」
院長とは思えない、まともな台詞がポンポンと。
この人情味の厚さは、やっぱり若杉先生と親子だと思わされる。
芽生がおずおずと尋ねる。
「ところでおじさま、少々伺いたいのですが。松本一郎君のことなんですけど……どうして今日退院なんですか?」
へ?
「帰してもいいからと判断したからだが、どうかしたのかね?」
「いえ。いつものおじさまなら検査だの何だのと理由をつけて一週間くらいは引き止めそうじゃないですか。しかも治療費は犯人が見つかり次第、相手から絞り取り放題。一日で退院させるなんて珍しいと思いまして」
なるほど、俺以上に院長を知っている芽生なら同じ疑問を感じて当然か。
単なる好奇心ではなく、少しでも情報を仕入れようというところだろう。
「桜に頼まれたんだ。『本当に異常があるなら仕方ないが、そうでなければできるだけ早く帰してやってくれ』って」
「若杉先生が? どうして?」
「さあ。ただ桜の言うことは常に正しい。だから私もその通りにした」
院長の親バカじゃなくて本当にそう思えてしまうのがすごいところ。
若杉先生が口にするからには絶対に何か理由がある。
と言っても、わからないものを問い詰めても仕方ない。
「院長、そろそろ二葉を起こしてもらえませんか」
「ああ、そうだったな」
院長がポケットから脱脂綿を取り出し、二葉の鼻先へ近づける。
「う、うーん……」
目が醒めたらしい。
「では、私はこれで失礼するよ」
院長が退室する。
入れ替わりに、さるぐつわされたままの二葉が奇声を上げた。
「うううっ!《アニキッ!》 うう、ううううううううううっ!《この、口にしたくない本は何っ!》」
何事? 恐る恐る二葉の視線の先を見る。
そこに投げ出されていたのは先程のロリータ写真集。
「うううっ!《アニキっ!》 うううう、うう、うううう!《ちょっと、そこ、正座して!》」
床に指を差したジェスチャーから「正座しろ」と言ってるのはわかる。
院長、ちゃんと持って帰れ!
事態をこれ以上ややこしくするんじゃねえ!
──芽生が小さな声で、ぶつくさぼやく。
「なんで、わたしが床に正座しないといけないわけ?」
お前が自ら望んだんだろう……などとは、間違っても突っ込めない。
「怪我人に正座なんてさせられない」と俺の代わりにやってくれてるものだから。
「うう、ううっ!《芽生、立て!》 うううううううううううう!《あたしはそんなの望んでない!》」
「立ったら立ったで機嫌悪くするくせに」
「うううううううううう!《このさるぐつわを外せ!》」
「話し終えたら外してあげるわ。どうせ話し合わないとなんだから」
どうして芽生は二葉の言いたいことがわかるのだろう。
二葉の両手は、自分で外せないように俺が押さえてある。
ジェスチャーで伝わるというわけでもないのに。
芽生は、まずロリータ写真集の件から説明を始めた。
これが二葉の怒りの直接的な原因。
一旦話し終えれば済むから先に済ませてしまおうということだろう。
次いで、麦ちゃんにまつわる事情を話し始めた。
俺からある程度の話を聞いたことや、昼間の一郎の見舞いの一件も含めて。
「うっう《そっか》……」
話が進むにつれ、二葉の唸りも小さく少なくなっていく。
──芽生が立ち上がった。
「はい、もういいわよ」
二葉のさるぐつわをするりと解く。
「ぷはあ」
ぴょんとベッドから飛び降り、腕を伸ばしながら上体をぐるぐる回す。
そして再び、ベッドの端へちょこんと腰を下ろした。
「すぐに病院へ来ることのできない生活してるっぽいのは理解した。この場は矛を収めといてあげる」
「物わかりのいい部長様で嬉しいわ」
「どうも。ついでに芽生の話聞いて、昨晩引っ掛かったことも思い出したよ」
「どうしたの?」
「制服の襟が解れてた」
「だからわたしも『着たきり雀』という話をすぐ納得したの。型も崩れ始めてるし」
芽生と並んで、どこかみすぼらしく見えたのはそのせいか。
「一流デザイナーによる一流の縫製で、そんじょそこらの制服よりは保ちがいいものね。普通は予備を購入して代わる代わる着るし」
「予備持ってないんじゃないかしら。一着一〇〇万円するし」
──一〇〇万円!?
驚く声を飲み込んだところで、二葉がちらっと視線を寄越す。
「後で説明するから」ということだろう。
「ま、今これ以上を話す必要はないかな。とりあえずあたし達は『松本家が貧しい、だから麦ちゃんは大変そう』という以上のことを知る必要はない」
「そうね。必要があればその時話し合えばいいわ」
「ただ……若杉先生があたしじゃなく芽生にって頼んできたのは、実は外部生云々じゃなくて経済的な事情なのかな? 都銀頭取のお嬢様な芽生なら助けられるとか」
芽生が首を振る。
「そんな重い問題を大人が子供に押しつけるかしら。まして、あの若杉先生よ」
「じゃあ、純粋に外部生だからってだけ?」
「そうだと思う。他の可能性が思い当たらなくもないけど……これからおいおい知るだろうし、何か分かったら報せるわ」
他人を気にかけるという話になると不気味なくらい息が合ってる。
この辺り、さすがは二人ともヒロインだ。
「一郎君を早く退院させたい理由って何だろうね?」
「さあ? わたし達にとって特に意味のある話ではないとはないと思う。もしそうなら二葉さんに伝えてるんじゃない?」
「そうだね、これで話は終わりかな。芽生はこの後どうするの?」
「一郎君を見送ったら帰るわ。今の内に迎えの車を寄越してもらう」
──芽生が電話を済ませて戻ってきたところで、麦ちゃんが挨拶に現れた。
「退院の用意できました……」
相変わらず物怖じしながらの挨拶。
対照的に、一郎は元気よく芽生に飛びつく。
「芽生おばちゃーん」
「一郎、何て失礼な事を!」
しかし芽生は「いいから、いいから」と手を払う仕草をしてみせる。
二葉は二葉で腹を抱えながらの大笑い。
「あーはっは。おばちゃん! 芽生おばちゃんだって!」
しかし芽生は、こちらもお構いなし。
しゃがみ込みながら一郎を軽く抱き寄せ、頬ずりをする。
「わたし、おばちゃんだもんねー」
「うん! きれいなおばちゃん!」
二葉がむっと唇を尖らせる。
芽生のスルーぶりに苛ついたのか、一郎の懐きぶりに嫉妬したのか。
そしてにっこりチアリーダースマイルを浮かべ、一郎に向けて両手を広げた。
「一郎君、退院おめでとう! こっちにおいで」
しかし一郎は首を振る。
「お兄ちゃんみたいなお姉ちゃん、怖いからやだ……」
二葉が固まった。
芽生はそれを尻目に立ち上がる。
「出ましょうか。私も帰るところだし、下まで見送るわ」
※※※
一階ロビー。
麦ちゃんが会計に向かう。
──ん? 何やら揉めている。
「まさか、こんなにするなんて……支払待っていただくわけにいきませんか……」
「申し訳ないのですが、退院していただくには全額支払っていただかないと」
「犯人さえ捕まれば、払えます!」
「交通事故だからこそなんです。保険も効きませんし、当院としても下手な融通を効かせるわけにいかないんですよ」
押し問答が続いた後、麦ちゃんがこちらへ向かってきた。
芽生の前で立ち止まる。
顔を真っ赤にし、涙目になりながら唇をぷるぷる震わせ──頭をガバっと下げた。
「芽生さん! 早速で悪いのですが先程の言葉に甘えさせて下さい! お金──」
「いいわよ」
芽生が途中で遮り、応諾する。
麦ちゃんの様子から心情を慮ったのだろう。
恥をかかせないようにと。
俺と二葉もうなずき合う。
若杉先生の「早めに退院させてくれ」の理由がわかったから。
麦ちゃんの経済力だと入院費が支払えないことへの配慮だ。
もし全治三週間などと診断されてしまったら、ひき逃げ犯が捕まらない限り、退院時はとんでもないことになってしまう。
芽生が窓口へ向かう。
「いくら足りないのかしら?」
「五〇〇円です」
芽生の長い睫毛が跳ね上がる。
「五〇〇円くらいで、あんな大仰な頼み方しなくても」といったところか。
「では、これで」
すましながら一万円札を差し出す。
小銭持ってるはずなんだけどな。
麦ちゃんが身をすくめつつ、精算を済ませた芽生へ近づく。
「あ、あの……ありがとうございました……」
「気にしなくていいわよ。奢ったわけじゃないんだから」
「は、はい……あ、明日にでも持って行きます。家に帰ればありますので……」
芽生がにっと笑う。
「そう。じゃあ、今から返してもらうわ」
「えっ」
「車で送るわよ、子供達だけで道を歩かせる時間じゃないもの。一郎君、行こうか」
芽生が一郎の手を握って出口へ。
麦ちゃんはおどおどしながら、その後をついていく。
これで一件落着ってとこか。
──と思いきや、芽生が振り向いた。
「ほら、一樹君も」
「はいい?」
予想しない展開に声がひっくり返る。
しかし芽生は委細かまわず、一郎へ声を掛けた。
「一郎君もクサイお兄ちゃんと、もうちょっと一緒にいたいよね~」
「うんっ!」
一郎を巻き込む形で、なし崩しに俺も一緒に行く流れを作ってしまった。
「あなた達も事を見届けた方がいいんじゃない?」というところか。
さてはて、これからどうなるか。
まだまだ夜は長そうだ。




