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109 1994/12/01 Thu 一樹の病室:初めまして、芽生おばちゃん

「秘書?」


 あえて、とぼけてみよう。

 いったいどんな話が待ち構えているのか。


 しかし芽生は首を横に振った。


「やっぱりいいわ。なんか聞かせるのが申し訳ないし」


「『騎士の敵へ一緒に立ち向かうのは主の義務』って言っただろ。遠慮無く話せ」


「いえ、それだけじゃなくて……何というか……一樹君の苦手そうな話だし」


「回りくどいのこそ苦手だ、さっさと話せ」


「わかったわ」


 芽生がコホンと咳払いしてから、声のトーンを落とす。


「たまき銀行のMOF担から聞いた話なんだけどね」


「MOF担?」


「MOFはMinstry of Financeの略、つまり大蔵省担当者のこと。銀行局に出入りして折衝したり情報集めたり接待したりがお仕事で、銀行内でも特に優秀な人が就くの」


「ふむふむ」


 まるでスパイ仕事とやってることが変わらないように聞こえる。


「で……その……大蔵省の職員から見たって話聞いたんですって」


 また歯切れが悪くなった。


「何を?」


「その職員さんが鈴木局長に呼ばれて局長室に行ったのね」


「うん」


「鈴木局長は席に座ってたんだけど」


「うん」


「机の下から局長秘書が出てきて」


「うん!?」


「固まってる職員さんに、鈴木局長は『君も早く秘書がつく身になりたまえ』って」


 ぶっ!

 それって、何のエロゲーだ!


 いや、待て待て。


「もしかしたらペンとか落として、秘書が机の下に潜って拾ってただけとか」


 漫画だと大抵そういうオチだよな。


「局長秘書の口元が妙にてらてら光ってたのに?」


「生々しいこと言うなあああああああああああああ!」


「だから言ったじゃない。御主人様は生々しいの苦手なんでしょ?」


 勝ち誇った顔で「やれやれ」してるんじゃないよ。

 一応は芽生の愚痴って話だろうが。

 というか、鈴木局長の辞書には【秘書:愛人の別称】とでも書かれてるのかよ。


「で、『私が頭取になった暁には、君に秘書をやってもらいたい』とでも言われたわけ?」


「遠回しにだけどね」


「狂ってやがる。御両親には?」


「言えるわけないじゃない。父がそんなこと聞いたら、ベッドからあの世へ昇天してしまいかねないもの。でも、行員達の生活を守るためには何らかの道を探さなくてはいけない」


「それで華小路に?」


 こくりと頷く。


「わたしだってあんなおじ様に処女捧げるなんて御免だわ。それなら華小路君に捧げた方がよっぽどマシよ」


 ──へ!?


 耳を疑った。でも今、確かに聞いた。


「処女?」


「あっ──」


 芽生が「しまった」とばかりに両手で口を塞いだ。

 切れ長の目は見開かれ、見る間に顔から血の気が引いていく。


「しょ、しょ……ショウジョウバエ?」


 お前、自分で何言ってるかわかってないだろ。

 突然の自爆と哀れなまでの動揺っぷり。

 気の毒すぎて何も言えない。


 芽生が腕にすがりついてきた。


「お、お願い、一樹君! 内緒にして!」


 はあ……。 


「絶対誰にも言わないで! 特に二葉さんには言わないで!」


 なんてバカバカしい……。


「言わないから落ち着け。そして椅子に戻れ」


 こんなに取り乱されては話が続けられない。


「失敬……」


 いつもと違い、何て力ない口癖。

 芽生が肩を落としながら再び椅子に座る。


「なんで、そんなつまんない見栄張るんだよ」


「つまらなくなんてないわよ……出雲学園ではみんな経験済みなのに恥ずかしいじゃない……わたしにも立場ってものが……」


「高校生のくせに片っ端から指導したくなるような肉欲生活送ってる淫獣達の方がよほど恥ずかしいぞ」


 芽生が一転して声を荒げた。


「その淫獣達の方が常識な世界に住んでるわたしの気持ちがわかるの!?」


「淫獣は淫獣、芽生は芽生だろう。騎士を名乗るなら、もっと誇り高くしてろよ」


「何言ってるか全然わからない……」


「俺は自らの騎士が清らかな体であることがわかって嬉しく思うって言ってるんだよ。聖騎士って言葉があるくらいだからな」


「もっと訳わからない」


 そう言いつつも、くすりと笑う。


 何とかフォローできたようだな。

 うっかり口を滑らせたのも気を許してくれてるからだろうし。

 処女であるという話を聞いたからって、今更弱みにもなりやしない。


「ま、誰にも言わない。約束するよ」


「本当よ、絶対よ」


「もちろん。主と騎士の約束は絶対だ」


 二葉には口止めした上で話すけどな。

 既に話しちゃってるけど、いざというときややこしくならなくて済むし。


 話を続けさせてもらおう。


「そんな状況なら鈴木息子が何をどう言おうと、鈴木父は動かないんじゃないか? 要は親子して芽生を狙ってるって話だろ」


 わざわざ俺を挟んで敵に回す意味なんてないと思うのだが。


「官庁の高官はプライドが高すぎて、どんな行動が気に障るか読めないところあるのよ。例えば『息子をないがしろにしたのは私への侮辱』とかなりかねないもの」


 納得してしまった。

 俺も職場じゃ、ひたすらへこへこ頭を下げてる身だけに。


 とりあえず、芽生を取り巻く状況はわかった。

 いよいよ本題だ。


「どうして鈴木息子を敵に回す? わざわざ鈴木父に気を使いながら、それでも敵に回す。つまり、ここまで聞いた銀行の話と鈴木息子の話は関係ないよな?」


 芽生が息を呑んだ。


「そこは最初に『違う』と否定した通りだけど……あなた、本当に留年寸前の一樹君? 随分と頭が切れるわね」


「戯言はいい。今こそ答えを聞かせてもらいたい」


 軽い嘆息の後、返事が続く。


「一樹君が退院したら話すわ」


 おい。


「まだ引っ張るのかよ。そんな隠し通すようなことなのか?」


「ううん。話すには準備が必要ってだけ」


「ふ……ん?」


「私は絶対に鈴木君と佐藤君を叩き潰す。それだけは今伝えておく。信じてもらえると嬉しいんだけど」


 「叩き潰す」とは、芽生にしては物騒な台詞だ。

 ただ真っ直ぐ見据えてくる眼差しからは、軽はずみで口にしているようには見えない。


「わかったよ」


 そこまで言うものを問い詰めても仕方あるまい。

 直ちに必要であれば今すぐ話すだろうし。


 芽生がにこりと微笑む。


「ありがとう。では、これでわたしからの愚痴はお終い。聞いてもらって楽になったわ」


 愚痴を聞いたというより、盛大な自爆を見せられただけの気がする。

 ただ芽生はすっきりした顔。

 実はそれも含めて、誰かに話したかったのかもな。


「さて、どうするかな」


「松本さんの弟さんの病室につれていってもらえるかしら」


「一郎?」


「お見舞いしたいというのもあるし、病室を知っておきたいわ。もしかしたらその間に松本さんが来るかもだし」


 そういえば一郎のところへは金之助も行ってたっけな。

 まだ金之助と芽生が顔を合わせたところは見ていないし丁度いいか。


「わかった、案内するよ」


 一郎の病室番号は警察の事情聴取の際に教えてもらっている。

 備付けのパンフレットで場所を確認して病室へ向かう。


 ──芽生の申し出で売店に立ち寄る。


「お見舞いの品を買いたいの」


「そんな気を使わなくてもいいと思うぞ? 特に芽生は面識ないんだし」


「形というものがあるでしょう。生憎、小銭入れしか持ってきてないので大したもの買えないんだけど」


 芽生が小銭入れを取り出して開く。

 本当にジャラ銭しか入ってない、これで何を買うというんだ。

 それでも「形」を口にする辺りが芽生らしいけど。


 ま、子供相手だし大したものは必要あるまい。


「何がいいかしら?」


「うーん、俺もゲーセンで会ってただけだしなあ」


 食堂の様子からすれば、お菓子とかがいいのかなあ。

 今はお腹空いてなくても後で食べるだろうし。

 売店を見回す……おっ、これは。


 ──一郎の病室。


 入口にあった配置図によると、一郎のベッドは一番奥の窓際。

 歩いて行くと、カーテン越しに一郎と金之助の談笑が聞こえてきた。

 もうアイはいないっぽい。


「一郎、遊びに来てやったぞ」


「あーっ! クサイ兄ちゃん、こんにちは!」


 芽生が吹き出す。


「ぷっくっく。ク、クサイお兄ちゃんって」


「うるさい」


 しかし、その芽生を指さして固まっている奴もいた。


「め、芽生……その格好はなんだ?」


 金之助の口はぽっかり。

 そりゃそうだ。

 どうして病院でチアリーダー姿。

 そんなシーン、上級生ですら出てこなかったもの。


「しっ、失敬!」


 芽生が顔を赤らめながら、スカートの裾を引っ張る。

 だが芽生、お前は本当に恥ずかしいと思っているのか?

 俺の時も恥ずかしがっていたが、それは適切な判断ができなかったくらいに心配したことを照れただけ。

 服装そのものについては恥ずかしがっていたわけではない。

 堂々と歩いていたし、足まで組んでたくらいだし。


 これはフラグなのか? それとも気を引く計算?

 芽生の場合はどちらも考えられる。

 様子を見よう。


 固まっていた金之助の口がにへらと緩む。


「いやいや、俺は歓迎だぞ。こんなところで芽生のチア姿が拝めるとは、何て眼福」


「変な言い方しないで! 学校でプールに足を落としちゃって、着替えがこれしかなかったのよ」


 なんてめちゃめちゃな嘘を。

 こんな冬の始めに、どうやってプールに落ちるんだよ。


「そっか。ま、うちの学校のプールはこの時期温水だし。風邪引くこともないだろ」


 出雲学園恐るべし。

 芽生が髪をふぁさっとかき上げてみせる。


「そういうこと。別に金之助君を喜ばせるためにユニフォーム着てきたわけじゃないわ」


 言い訳が通ったとみるや、途端に自信満々。

 素を知っていると、考えてることが手に取るようにわかる。


「で、どうして芽生が病院に?」


「写真部入ったから。部長をお見舞いするのは当然でしょう」


「さっきも来たのにか?」


 芽生が笑ったまま固まった。

 金之助はどうかわからないが、俺にはわかる。

 というか、芽生から「どうして教えてくれなかったの?」と憎念が送られてる気がする。


 しかしすぐさま、目尻を更に下げた。


「……金之助君、しつこい男は嫌われるわよ?」


「あーごめんごめん、そんなつもりなかったんだけどさ」


 この辺りの躱し方は男あしらいに長けた芽生らしいな。

 二葉だと更に嘘を重ねて強引にまとめてしまいそうなところだ。


 にっと口角を上げる。


「ううん、大丈夫。わかってるから」


 こわっ!

 なんてあざとい。

 わかってはいても、やっぱこの女怖い。


 さらに芽生が続ける。


「それで一樹君が一郎君のところへ遊びに行くって聞いたから、わたしもくっついてきたってわけ」


「そっかそっか」


 突っ込まれる前にまとめてしまった。

 弟のことを金之助が知ってるということはフラグ立ってるはずなんだけどな。

 普段と全く変わらないように見える。

 どうしてだ?


 とりあえずやり取りが終わったので、金之助に聞く。


「アイは?」


「ちょうど入れ違い。さっきまでいたんだけど、検査があるからって帰ったよ」


 芽生が腰を落として、一郎と目線を合わせる。


「松本一郎君ね。初めまして、クサイお兄ちゃんのお友達の田蒔芽生よ」


 何て微笑ましい光景。

 芽生の柔らかな笑顔が、更に場の空気を和ませる。


 ──しかし一郎の返事に全員が凍り付いた。


「おばちゃん、すごく綺麗……」


 芽生の口角がひくつく。

 金之助は固まっている。

 俺も固まっている。

 この場の誰が、芽生がおばちゃん呼ばわりされると考えただろうか。


 とりあえず口を開く。


「ぷっくっく。芽生おばちゃん(・・・・・)、綺麗って言ってもらえてよかったな」


 フォローしてやりたい。

 しかし一樹のキャラなら、さっき笑われたのは絶対根に持つはずだ。

 金之助なんとかしろ!


 一郎が会釈する。


「初めまして、芽生おばちゃん。松本一郎です」


 さすがは子供、遠慮なく追い打ちかけてきた。

 この一言で我に返ったか、金之助が窘める。


「こら、一郎。『おばちゃん』じゃなく『お姉ちゃん』だろ」


「えーっ、おばちゃんだよ~」


 一郎の台詞に邪気はまったく感じられない。

 二葉を「お兄ちゃんみたいなお姉ちゃん」と煽るのとは様子が違う感じだ。


 ようやく芽生が口を開く。


「一郎君、わたしはクサイお兄ちゃんと同じ年なのよ。それなのにクサイお兄ちゃんは『おじさん』じゃなくて『お兄ちゃん』、わたしは『おばちゃん』ってひどくない?」


 取り繕っているつもりなのだろうが、口調が僅かにきつくなっている。

 それを感じ取ったか、一郎がしょげ返る。


「だっておばちゃんはおばちゃんだもん」


 それでも、まだ言うか。

 ここまで来れば、俺もフォローに入っていいだろう。


「一郎。芽生お姉ちゃん(・・・・・)は『お兄ちゃんみたいなお姉ちゃん』と同じ年なんだぞ。それなのにどうしておばちゃんなんだ?」


 一郎が答える前に金之助が聞いてきた。


「『お兄ちゃんみたいなお姉ちゃん』って、まさか……」


「二葉だ」


「ぶっはははは」


 金之助が腹を抱えて笑い始めた。


「お兄ちゃんみたいなお姉ちゃん、お兄ちゃんみたいなお姉ちゃん、お兄ちゃんみたいなお姉ちゃん。もうそのまんまじゃないか」


「金之助君、失礼よ! 二葉さん、女の子らしくてかわいいじゃない」


 芽生がきつい口調で窘める。

 しかし芽生、高笑いしたいのはお前の方だろう。

 「女の子らしくてかわいい」。

 こんな心にもないことをわざわざ口にしたのは間違いなく「ざまぁ!」の代わりだ。


 一郎がおずおずと答えを口にする。


「だって芽生おばちゃん、お胸大きいから……」


 全員が口を揃える。


「胸?」


「麦姉ちゃんよりも、お兄ちゃんみたいなお姉ちゃんよりも胸が大きいもん。だからおばちゃんなんだもん」


 三人、顔を見合わせて頷き合う。

 つまり一郎にとって「おばちゃん」とは「胸の大きな人」。

 どうしてそういうことになったのか知らないが……子供だとありうる感覚なのかもな。

 その分大人っぽく見えるし。


 芽生の胸は巨乳ではないが、決して小さくもない。

 程よい大きさで形の整った、いわゆる美乳だ。

 ただ麦ちゃんの胸は確かに小さかったし、二葉に至っては真っ平ら。

 加えて芽生は大人びているから、その二人に比べれば間違いなくおばちゃんだ。


 芽生がにこっと笑う。


「一郎君、芽生おばちゃんでいいわよ」


「うんっ!」


 鼻高々に勝ち誇った芽生の笑み。

 きっと二葉より格上の扱いをされたと受け取ったのだ。


 ああ、二葉がこの場にいなくてよかった。

 心からそう思う……。


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