凍剣 雪中行 22
翌日の目覚めは最悪であった。山エルフ達の喧騒がそれに輪をかけ、上半身のみ起こした御用猫は顔を顰める。
何するでもなく、ぼんやり、と壁面を眺め、卑しいエルフの卑しい涎によって、肌に張り付いたシャツを身体から引き離し、ぱたぱた、と乾燥させていたのだ。
「……おはようございます、若先生」
普段ならば、必ず御用猫より早くに目を覚ます筈の少年は、こちらも珍しく、眉間に皺を寄せ、のろのろ、と薄手の毛布を片付け始める。
「……うぅん、あとすこし……何だか、おかしな夢を見たような気がするのです……あと少し……」
「奇遇だな、俺もそうだよ……ほら、もう起きろよサクラ、山エルフに笑われるぞ」
まことに珍しくも、御用猫がサクラの身体から毛布を引き剥がし、寝起きで乱れた彼女の髪を撫で付ける。起き上がったものの、ぼやぼや、と視点の定まらぬ少女、それを見るリチャード少年の表情は、彼自身も、何やら不思議な夢を見たのだと、物語っていた。
「ふみ……朝ごはんは何でしょう……昨日の、トウモロコシのパンが良いです……」
「もろこしでごぜーますか、先生ぇ、あっしは肉が食いとうごぜーますよ」
卑しくもだらしなく、御用猫の膝の上で悶える生物は、空腹を訴えているのであろうか、もごもご、と再び御用猫のシャツを食み始める。
「おい、シャツを食うな、いつも言ってるだろう……なぁチャムよ、お前はイモを食え、何故だかは分からんが、俺の忌まわしい記憶が、そう言ってるような気がするのだ」
「うひ、男色芋でごせーますか? こいつぁ、とんちが利いてるでごぜーますな」
げすげすげす、と笑う卑しいエルフに、何とは無しに怒りを覚え、御用猫はチャムパグンの、下着のままの尻を叩いた。
「よう、お勤めご苦労さん、退屈だろう? こんな穴ぐらの中じゃあな」
昨日とは打って変わって、気さくな笑顔を見せながら、御用猫は角刈りのロンダヌス騎士に近付いた。族長のナスタチュームは、サクラと連れ立ち、彼女に五党座氏族の小トンネルを案内している。
最初、顔を合わせた瞬間に、牙を剥いたナスタチュームであったのだが、サクラの。
「今日は勝負をしに来た訳ではありません、折角ですので、ここの氏族の生活を見学していこうかと……宜しければ、案内してくれますか? 」
との一言に、たちまち相好を崩すと、二人仲良く散策中であるのだ。やはり、本来は気の良い少女であるのだろう。
族長専用の、扉付きの大部屋に残された御用猫は、リチャード少年に、さり気無く若族長を排除させると、本命のロンダヌス騎士に接触を計ったのだ。
「別に、これも仕事だ……退屈ではあるが、給料は良い、役得もあるし……何より、楽だ」
ほう、と御用猫は感心する。面倒を嫌い、怠惰な生活を好む彼としては、何か通ずるものがあったのだろう。
「それは羨ましいな……まじで、どうにも、クロスロードの騎士は堅苦しくて困るのだ、毎日、息が詰まるよ」
肩を竦めてみせる御用猫であるが、これは、演技とは見抜かれまい、何しろ、彼の本心であるのだから。角刈り騎士も、そう判断したのだろう、絨毯の上に腰を下ろし、向かいに座るよう促した。
「ロンダヌスに鞍替えする気なら、それなりの人物を紹介するぞ? 」
「それは、直球だな」
驚きの表情を作り出しながらも、御用猫は身を乗り出す。無表情でこそあったのだが、この角刈り騎士は、随分と足廻りの軽い男であるようだ。
「言わなかったか? 言わなかったな、俺は、面倒が嫌いな質なのだ……あぁ、これも言わなかったな、パナップ グラムエーカーだ」
「気が合うな、俺もだよ……名前は猫、しがない平騎士さ」
パナップと名乗った男と、軽く握手して、御用猫は異常に気付く。
(冷たい……何だ? まるで死人の手だ)
異様なまでの体温の低さ、この洞窟は春の如き暖かさであるにも関わらず、である。まさか、無表情なのとは関係あるまいが、これではまるで、たった今、雪山から帰って来たばかりのようではないか。
「……辛島ジュートは、赤毛の美丈夫だと、聞いていた」
これまた、直球な質問ではあるだろうか。僅かに片眉を上げ、御用猫は肩を竦める。
「さてね、あいつの事は、正直、良く分からない……従者の俺ですら、姿が違って見える事もあるのさ、信じられるか? 呪いの気配すら感じないだろう……最初は別人と入れ替わってるのかと思ったよ」
「興味深いな、しかし、謎の勅命騎士ともなれば、どんな手段で変装していたとしても、不思議ではないか」
どうやら、ロンダヌスでは、ラースの流した情報が、未だに生きているようである。とりあえず適当な嘘を流した御用猫ではあったのだが、これも彼の偽らざる本心とも言えるだろう、不自然さは無い筈である。
「来週、定期連絡の仲間が来る、その気があるなら、その時にロンダヌスへ行くといい、その気が無いなら、この話は忘れておけ」
「よろしく頼むよ、なんなら、クロスロードに残って、間者の真似事をしても良いぞ、どうせ出世の見込みも無い平民出だ……まぁ、それなりに腕は立つ、と自負はしてるがな」
分かるだろう、と嫌らしい笑みを浮かべ、御用猫は右の二の腕を叩いてみせる。しかしパナップは、まるで石で出来ているかのように、その能面ような顔を崩す事もない。
「頼もしい話だが、間者は所詮、使い捨てだ、ロンダヌスで地道に信用を得た方が利口だぞ、サーラ様は実力主義だ、他国出身だとて、立身出世の機会は充分にある」
「……サーラ? 誰だそれ? 」
その時になって、初めてパナップの表情が動いたのだ、これは、驚いたのであろうか。御用猫は、確かな違和感を覚えるが、今度は彼が石になる番であった、それについて顔に出す事もない。
「……呆れた奴だ、ロンダヌスに仕官を求めながら、雇い主の事も知らぬのか」
少々間が空いたのは、取って付けた理由だからであろう。
パナップが説明するには、サーラと言う人物は、ロンダヌスの軍事面での最高責任者であり、教王の最も信頼する側近の一人であるのだとか。ロンダヌス生まれだとはいえ、そういった情報に触れる機会の無かった御用猫には、知らぬ名であったのだが、どうやら、かなりの有名人であるようだ。
(又聞きといった風でもなく、そこで、その名を自然に出すという事は、どうやら下っ端騎士という訳では無いな……案外、迂闊な男なのか)
「田舎出の平民なんだ、知ってる方がおかしいだろう」
「それもそうか、まぁ、確かに腕は立ちそうだ、見れば分かる、少なくとも、今より楽な生活はできるだろう……金銭面だけはな」
「怖い事言うなよ、俺も、あんたみたいに楽な持ち場が良いな、世間知らずの小娘を騙すだけの仕事なんだろ? 変わって欲しいくらいだよ」
御用猫の言葉に、パナップは表情を変えず、ただ、鼻先から息を漏らす、これは笑ったのだろうか。
「……本当に、楽に見えるか? 」
「あんた、自分で言っただろう」
ふっふっ、と鼻から息を漏らし、パナップは笑う。角刈りの、四角い顔の男が、無表情に笑っているのだ、些か不気味な絵面ではある。
「それは、肉体的な意味で、だ……世の中、そう上手くは、いかないものさ」
「世知辛いねぇ……明日は、酒を持ってきてやるよ、いける口かい? 」
くいくい、と、猪口を持ち上げる仕草の御用猫に、パナップは表情を崩さず、ただ、ぽつり、と呟く。
「酒と女はやらん……後が面倒だからな」
御用猫は、前言を撤回する。どうやら、この角刈り騎士と分かり合える事は、無さそうであったのだから。




