凍剣 雪中行 12
リチャード少年が目を覚ましたのは、翌日の昼も過ぎてからであった。ぼんやり、としたまなこは珍しくも、虚ろなままに宙を見つめ、皆の視線に気付いてからも、何か反応を返す訳でも無く、沈黙を保っていたのだが。
「……お腹が、空きました」
それが、第一声であったのだ。
「ん……良かった、大丈夫そうだな、おかん、リチャードにお粥を食わせてやってくれ」
「誰がおかんですか! 」
サクラの声は、厨房の方から聞こえてきた、どうやら、彼の言葉に反応し、いち早く、温めていた食事を取りに行ったのであろう。
「しかし、中身はリチャードのままなんだな、俺はてっきり、ホノクラちゃんが二人に分裂するのかと」
「まさか、ボクはここに居るのだよ、彼は彼さ、魂に繋がりを持たせたとて、それは変わらない事なのだから……もっとも、いずれ身体を借りる事は、あるだろうけどね」
チャムパグンを抱えた御用猫と、ホノクラちゃんが、些か緊張感の無い会話を続ける横で、オーフェンとウィンドビットは、リチャード少年の手を、そっと取るのだ。
「リチャード、我々の問題の為に、この様な事を押し付けてしまい、申し訳無く思っています……事前に説明しなかったのも、心を緩ませ、呪いの効果を発揮させる為であったのです、貴方に甘える格好になってしまったのは、全て私達の力不足から来る事であり、どのような……」
しかし、少年は首を振り、謝罪の言葉を遮ると、いつものように、ふわり、と笑顔を浮かべてみせる。
「オーフェンさん、そのように謝らないでください、若先生のご友人は、僕にとっても大切な方ですから、それに、皆さんに助けが必要ならば、何をもっても駆け付けると、僕も約束しているのです、ならば、これは、僕の望んだ事……気にする必要はありません」
「……な、出来た男だろう? こいつは、自慢の弟なのだからな」
くしゃくしゃ、と御用猫は少年の頭をかき混ぜる。くすぐったそうに肩をすぼめて、はにかむリチャード少年であったのだが、次には、はっ、と、した表情にて、彼の顔を見詰めてくるのだ。
「ん、何だ? どうかしたのか? 」
「……いえ、なんでも、何でもありません」
少年の顔には、嬉しそうな、しかし、何処か寂しそうな、残念そうな、複雑な色が見えたようであったのだが、御用猫には、彼の心情なぞ、知る術も無いのだ。
「さて、リチャード君の体力を戻す為にも、もう一晩、ゆっくり休んでから、出発しよう……その代わり、移動の為の足は、ボクが用意しておくよ」
「てんてん丸か? 速いのは有難いが、あんなもんで乗り付けたら、山エルフ達が腰を抜かしてしまいそうだな」
以前、世界樹までの旅に利用した、ホノクラちゃんの使い魔たる、祖霊鳥。クロスロードでは「サンダーバード」と呼ばれる、高位の魔獣であった。
てんてん丸というのは、御用猫の付けた渾名であったのだが、確かに、彼女の速度ならば、北嶺山脈までも、あっという間、ではあろう。しかし、巨大なひよこが天空を舞う姿など、色々な意味で、余人には見せたくないものであるのだ。
「若先生、森を真っ直ぐ北上して、山脈の東側から回り込みましょう、それならば人目にもつきにくいかと……冬山登山の支度もせねばなりませんし、夜を選んで移動して、麓の開拓村から、徒歩に切り替えれば、時間の短縮になります」
既に頭が覚醒したものか、リチャード少年の提案は、納得のいくものであった。御用猫は脳内で進路を思い浮かべ、目的地である山エルフの集落までの筋道を立ててゆく。
「うん、そうだな、紺屋原氏族には、俺の知り合いも居る、まずはそいつを訪ねて、宿と飯を確保するか……ウンスロホールの奴、まだ生きてれば良いが」
御用猫は、老齢の山エルフを思い出す、少年時代、ロンダヌスから逃げ出した時に、世話になった事のある男であったが、その当時ですら、かなりの老齢であった筈なのだ。今も生きている保証は、無いであろうか。
「リチャード! 何故起きているのですか! まだ寝ていないと駄目でしょう」
かちゃかちゃ、と盆の上の器を揺らし、サクラが戻ってくる。リチャード少年の枕元に陣取ると、コップの水を差し出しながらも、額に手をやり熱を測る。
「全く、ゴヨウさんではあるまいし、今日は大人しく寝ているのです……でも、元気そうで良かった……さ、食べさせてあげますから、熱かったら、言ってくださいね」
「ありがとおかん」
ぱかっ、と口を開いた御用猫と、チャムパグンの頭をはたき、サクラは木さじにて、すり潰した木の実入りの、麦粥をすくうと、桜色の小さな唇から、ふうふう、と吐息を吹きかけるのだ。
「……サクラ、自分で食べられます、病気ではありませんから、大丈夫で……」
「わがまま言わない! 」
少年の言葉は、しかし、ぴしゃり、と切り落とされる。ずい、と差し出された木さじを前に、リチャード少年は、助けを求めるように、御用猫に目を向けたのだが。
「そうだぞ、我儘言うんじゃない、諦めて今日は看病されておけ」
いかにも楽しげに笑う兄に、恨みがましい表情を見せたのは、彼の、精一杯の抵抗であったのだ。




