14 当主の不在を狙い私の妻を侮辱し息子を脅すなど決して許されることではない
一切の感情が込められていないように聞こえるが、それがかえってザンドルに底知れない恐怖を与えている。
「いえ、これは、その、陛下からの命で、監査を……その」
ザンドルはしどろもどろに言い訳を始めたが、ディートリッヒは言葉を遮った。
「監査は結構。だが、当主の不在を狙い、私の妻を侮辱し、息子を脅すなど決して許されることではない」
ディートリッヒの視線が背後にいるルカスに向けられた。紛れもない怒りの炎。ルカスを守る彼の父親としての顔が、そこにあった。
「あなた方のような者に伯爵領の秩序を乱させるつもりはない。速やかにここから立ち去れ。でなければ、直々に首をはねて差し上げよう」
ディートリッヒの言葉は氷の刃のように鋭く、ザンドルの心臓を貫く。男は恐怖でガタガタと震え始め、顔は真っ青。
「ひぃっ……! 申し訳ございません! 申し訳ございません、伯爵様!」
ザンドルは地面にひれ伏し、必死に謝罪を始めた。付き従う従者たちも顔面蒼白になり、恐れおののいている。
「二度と、領地と家族に近づくな」
冷徹な声が夜の闇に響き渡った。ザンドルと従者たちは命からがら、城から逃げ去る。残されたのはルカス、ディートリッヒ、護衛らだけ。
ディートリッヒはゆっくりと歩み寄ってきた。
「……大丈夫だったか、フロラティア」
いつになく穏やか。じっと見つめてみると瞳は怒りの炎が消え、深い安心の色に変わっている。
「あ、あなたに心配される筋合いはないわ。私一人でも、あんなちっさい小物、どうとでもできたし。でも、まあ、来てくれたことには感謝してあげる」
いつもの毒舌で素直な気持ちを隠した。夫の顔に笑みが浮かぶ。
「ありがとう、フロラティア。ルカスも」
ディートリッヒはルカスの頭を優しく撫でた。子どもは安堵と喜びで、ディートリッヒに抱きつく。
その夜、月明かりの下。ディートリッヒとルカスと共に城門の前に立っていた。監査官が去ってから、城の空気は一段と穏やかになったのだ。トラブルも悪くないかもしれない。
ディートリッヒは以前にも増してルカスを大切にするようになったし、視線も冷たさの中に温かさが混じるのが常になった。もちろん毒舌は健在。
「ぼーっとしてないで、少しはルカスと遊んであげたらどうかしら? せっかくの休みなのだから体を動かすのも大事よ」
黙ってルカスと積み木を始めた。見るたび心には温かいものが広がる。ルカスが寝静まった後、自室で刺繍をしていた。
窓からは満月が煌々と輝き、静かな夜を彩っている。
扉が控えめにノックされた。
「……入って」
扉がゆっくりと開き、立っていたのはディートリッヒ。珍しく執務着ではなく、少しだけくつろいだ普段着姿。手には小さな銀の盆が。
「ごきげんよう、ディートリッヒ伯爵。こんな夜更けに私に恋でもしに来たの? 残念だけど、あなたのような朴念仁の相手をしている暇はないわ」
皮肉を言うとディートリッヒは眉一つ動かさない。盆を差し出してくる。温かいハーブティーと小さな焼き菓子が二つ。
「……ルカスが、昼間、お礼をと」
いつものように低いが落ち着かない様子。ルカスが昼間、お礼を言っていたのは壊れた木の人形を直してあげたことだろう。ディートリッヒがわざわざ持ってくるとは思わなかった。
「ご丁寧にどうも。気遣いができるなんて、明日は雪でも降るんじゃない?」
言いながらハーブティーを受け取ると、ディートリッヒは向かい側の椅子にゆったりと腰を下ろした。普段ならこんなふうに二人きりで過ごすことはない。胸はほんの少しだけざわめいた。
「……お前は、いつも、ルカスに優しいな」
ディートリッヒがぽつりと呟く。思わず彼を見たものの、相手の視線は手元にあるハーブティーに向けられている。
「今更そんなことを言うなんて、よほど他に言うことがないのね。私だって、好きで優しくしているわけじゃない。子があなたみたいに愛情不足でひねくれた人間に育たないように、最低限の教育をしているだけ」
彼の口元は動かない。諦めと照れのような笑み。
「……そうか」
それだけ言うと自分のハーブティーを一口飲んだ。部屋にハーブの優しい香りが広がる。沈黙が二人を包み込んだ。以前のような息苦しいものではなく心地よい、穏やかな時間。
月明かりが窓から差し込み、二人の間に温かい光を落とす。ふと、ディートリッヒの横顔を見た。ハーブティーの湯気に揺らめく。その奥に穏やかな感情があるのだろう。
「……あの、監査官の件。感謝している」
突然、ディートリッヒが口を開いた。えっと、少し驚く。
「何を今更。私一人でもどうとでもできたわよ。それにあなたも、結局は家族を守っただけでしょう」
ディートリッヒのまっすぐ見つめた瞳には、紛れもない感謝の気持ちが見て取れる。
「ああ……だが、あの場でお前が毅然と対応してくれたおかげで、私が来るまでの時間を稼げた……助けられた」
そこまで素直に感謝の言葉を口にするのは初めてのこと。胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……そう。なら、よかったわね」
それ以上何も言えずハーブティーを一口飲んだ。甘さと言葉の甘さが、心を温かく満たしていく。夜遅くまで静かにハーブティーを飲み続けた。
夜のティータイムを境にディートリッヒとの間の空気は、さらに穏やかになった。




