12 夏の到来はヴァルター伯爵領に豊かな恵みをもたらした
ルカスが手入れをしていた薬草の蕾に視線を向ける。
「……咲くのが、楽しみだな」
ディートリッヒが珍しく自分から言葉を発した。声は穏やか。彼の心にも辺境の地がもたらす穏やかな変化が訪れていることを感じさせる。ルカスは父の言葉に嬉しそうに頷いた。
「はい! きっと綺麗な花が咲きますよ、父上!」
ディートリッヒはルカスの言葉に頷く。
笑顔はピクニックの時や手遊びの時よりもさらに自然で、心の奥底から湧き上がってくるような温かさがある。
その様子を静かに見守っていた。こんなにも穏やかな笑顔を見せる日が来るなんて。
氷のように閉ざされていた心が、確実に溶けているのだ。信じたい。
この地でルカスの純粋な心がディートリッヒの心を解き放ち、三人は本当の家族として少しずつ絆を深めていくことが望ましい。
春が終わり、新しい季節が訪れるように関係もまた、新たな段階へと進み始めているのだと予感がした。
夏の到来はヴァルター伯爵領に豊かな恵みをもたらした。城の庭には色とりどりの花が咲き誇り、薬草畑は青々と茂っている。
ルカスは日ごとにたくましくなり、下町の子どもたちとも打ち解けて、楽しそうに走り回るようになった。
ディートリッヒは相変わらず領地の政務に追われていたが、以前のように執務室に籠りきりになることは少なくなったようだ。
時には、ルカスが友人たちと遊ぶ姿を遠くから見守ったり、薬草の世話をする様子を静かに眺めたりする。
毒舌にも完全に慣れてしまったようだ。残念。
「突っ立っていないで少しは体を動かしたらどうかしら? 鉛のように重い体になってしまうわよ」
眉一つ動かさず一瞥するだけ。視線には冷酷さはなく諦念が混じっているように見える。
午後のあまりの暑さに、ルカスと城の裏手にある小川に涼みに出かけた。透き通った水が心地よく、木陰で休んでいると、柔らかな風が頬を撫でる。
「フロラティア様、見てください!大きな魚がいます!」
水の中に手を伸ばして興奮した声を上げた。ルカスの隣に座り一緒に水面を覗き込む。
カサッと背後から足音が聞こえた。振り返ると、ディートリッヒが静かに立っている。執務着ではなく、少しだけ簡素な服装。
「こんなところでサボり? 涼みに来た?」
何も答えない。いつものこと。視線は小川で楽しそうに魚を追いかけるルカスに向けられていた。穏やかな光がキラリと宿っている。
「……暑いな」
ディートリッヒがぽつりと呟いた。人間らしい感想が聞けるなんて少し驚く。
「こんな日は冷たい飲み物でも飲んで、ゆっくりするのが一番だわ」
ディートリッヒは少しだけ考え込むような素振りを見せた。
「……城に、果実水がある」
言った時、思わずディートリッヒの顔をまじまじと見てしまう。彼が飲み物を勧めるなんてびっくり。
「ご丁寧にどうも。あなたからそんな言葉が出るとは思わなかったわ。熱でもあるんじゃない?」
ディートリッヒは反応しない。ルカスの方に視線を戻した。
「父上も、水に入りませんか?」
ルカスが水遊びの手を止め、ディートリッヒに声をかけた。躊躇するような素振りを見せた後、ゆっくりと小川の縁に腰を下ろす。足が水に触れると、ルカスの顔がパッと明るくなる。
「父上、ね?冷たいでしょう!?」
ルカスが嬉しそうに言うと、ディートリッヒの口元が上がる。夏の陽射しのように温かく、紛れもない笑顔。
凍てついた心が完全にではないにしろ、確実に解き放たれ始めている感じ取った日の午後。三人で小川のほとりで過ごした。ディートリッヒは相変わらず多くを語らないが存在は、以前のように壁を感じさせるものではない。ルカスが水しぶきを上げると温かい眼差しで見守っていた。
夏の盛り、ヴァルター伯爵領は収穫の準備で活気づいていた。城も領民も忙しく、こちらもルカスも薬草の管理や食料の保存に追われる日々。
ディートリッヒは領地の視察で不在がちになり、城を空けることが増えていくばかり。
「ご苦労なことですこと。城を空けて遊んでる、なんてことはないでしょうね? あなたのことだから真面目に仕事をしているのでしょうけど、たまには家族の顔も見てあげたらどう」
皮肉を言うと出発前のディートリッヒは眉一つ動かさず、静かに頷いた。瞳の奥に疲労の色が浮かんでいるのが見える。疲れているみたいだ。
ディートリッヒが城を空けて数日経った、ある日の夕暮れ時。ルカスと一緒に庭の薬草畑で最後の水やりをしていた。
ルカスはディートリッヒからもらった積み木を畑の隅に持ち出し、小さな家を作って遊んでいる。
「フロラティア様、見てください!父上のお家です!」
ルカスが嬉しそうに駆け寄ってきた、その時。
「おや、こんなところで辺境伯夫人自ら土いじりとは、ご立派なことですな」
背後から皮肉めいた声が聞こえた。振り返ると立っていたのは見慣れない男。派手な装束を身につけ、顔には嫌味な笑みを浮かべている。瞳にはどことなく下卑た光。
「あなたは……?」
警戒して尋ねると男はニヤリと笑う。気持ち悪い。
「これは失礼。私は中央から派遣されてきた、監査官のザンドルと申します。ヴァルター伯爵領の財政状況を監査しに参りました」
監査官。警戒心はさらに高まった。ディートリッヒが不在の隙を狙って現れるとは、いかにも胡散臭い。
しかも、この男の視線がドレスの胸元やルカスの小さな体に向けられていることに気づき、脳裏に嫌な予感がよぎる。
「フン、ご丁寧にどうも。ディートリッヒ伯爵は現在、領地視察で不在にしております。監査は彼が戻ってからにしていただきたいものね」
冷たく言い放つとザンドルはさらに不快な笑みを浮かべた。
「ほう。それは困りましたな。我々は中央からの厳命を受けて、一刻も早く監査を完了せねばなりませんので。それに伯爵様が不在となると、夫人であるあなたが代理で対応することになりますな。いやはや、これは重責ですぞ」
ザンドルは一歩近づいてきた。




