10 音色は閉ざされた心の奥底にある繊細で傷つきやすい部分を垣間見せる
何も言わないが視線はハープから離れない。
「父上、ハープ、弾けるんですか!?」
ルカスが目を輝かせた。ディートリッヒはルカスの問いに、少しだけ間を置いてからぽつりと答えた。
「……昔、少しだけ」
どこか遠い過去を懐かしむような響き。表情は依然として硬いものの、瞳には以前のような冷たい壁は感じられない。
ディートリッヒはルカスの前で、ゆっくりと指を動かした。たどたどしいながらも旋律がある。子供向けの単純なメロディだったが、指から紡ぎ出される音は切なく美しい。
ルカスは音色に聞き入り、目を閉じていた。音に耳を傾ける。
ディートリッヒのハープの音色は閉ざされた心の奥底にある、繊細で傷つきやすい部分を垣間見せるよう。演奏が終わると応接間には静寂が戻った。
ディートリッヒはゆっくりとハープから手を離し、こちらを双方見た。彼の表情にはやはり感情は浮かんでいないが、瞳の奥には物憂げなものが。
「昔、母が、よく弾いていた」
ディートリッヒが低い声で呟いた。凍てつく過去が少しだけ顔を覗かせた瞬間。母親は幼い頃に亡くなったと聞いている。
ハープの音色は母との大切な思い出と繋がっているのだろう。胸に何とも言えない感情が込み上げてきた。
この男は冷たいだけではない。深く傷つき、孤独を抱えながらもそれでも生き続けている。
ルカスはディートリッヒの言葉に、何も言わず彼の顔をじっと見上げていた。
「はぁ」
小さな瞳には、ディートリッヒへの深い理解と変わらない愛情があるように見えた。ハープの音色は城に新しい風を吹き込んだ。
ディートリッヒは以前よりも少しだけ、穏やかな表情を見せるように。特にルカスがハープの音に耳を傾ける姿を見ている時、目が優しい。
毒舌は相変わらずだがそれももう、日常の一部になっていた。
そんなある日。ルカスと城の庭で遊んでいた時のことだ。ルカスは小さな石をいくつも積み重ねて、崩れてはまた積み直していた。
「フロラティア様、見てください!大きな塔ができました!」
手を離した途端、石の塔はガラガラと音を立てて崩れ落ちた。ルカスは残念そうに肩を落とす。その姿を見て、ふと思いつく。
「そんなにがっかりしないの。これでは不安定すぎてすぐに崩れて、もっとしっかりとしたもので作ればきっと頑丈な塔ができるわ」
「もっとしっかりしたもの?」
ルカスが首を傾げる。前世の文化に、積み木というものがあったことを思い出した。
木でできた四角いブロックを積み重ねて、家や塔。時には動物まで作れる。子どもの想像力を育むのにとても良い遊び。
「ええ、木でできた、色々な形のブロック。積み重ねて遊ぶの。きっとあなたも気に入るわ」
ルカスはキラキラと目を輝かせた。
「わあ、面白そう!僕、それ、欲しいです!」
ルカスの純粋な瞳に何とかしてあげたいと思った。辺境の地で精巧な積み木を作れる職人がいるだろうか。夕食時、ディートリッヒに切り出した。
「この領地に腕の良い木工職人や、何か新しいものを作るのが得意な職人はいないかしら?」
突然の問いにディートリッヒは食事の手を止め、こっちを見た。
「何の用だ」
いつも通り無表情だ。
「怪訝な顔をしないでちょうだい。ルカスに、 積み木というものを作ってあげたいの。木でできた、色々な形のブロックを積み重ねて遊ぶ玩具ね」
説明するとディートリッヒは少し考えるように黙り込んだ。ルカスは父ディートリッヒの顔を不安そうに見上げている。
「積み木か……」
ディートリッヒが小さく呟いた。表情は変わらないが、瞳の中に思案の色が浮かんでいるように見える。
「ええ、そうよ。城下町で探してみたけれど、見当たらなかったわ。この領地には器用な職人はいないのかしらね。辺境には基本的な技術を持つ者すら不足している、なんてことはないわよね?」
わざと挑発するように言うと、ディートリッヒの眉がピクリと動いた。
「いる。城に仕えている職人もいるし、城下町にも何人かいる。だが、木工品は家具や農具が主で玩具を作る者は少ない」
希望を見出した。
「そう。なら、誰か適任の者はいないかしら?私の説明を聞いて、きちんと形にできるような腕の良い職人」
ディートリッヒは問いに答えることなく、黙って食事を再開した。やはり無理な注文だったのだろうか。少しがっかりした。
その夜、ルカスが寝静まった後、再び自室で酒を飲んでいた。積み木のことを考えるとどうにも諦めきれない。
ルカスのあの嬉しそうな顔を、なんとか見たいのだ。その時、コンコンと扉をノックする音がした。こんな夜中に誰だろう。
扉を開けると立っていたのは、ディートリッヒ。珍しく話しかけてきた。
「フロラティア嬢、先ほどの件だが」
胸が高鳴る。ディートリッヒはいつものように無表情で答えた。
「先ほどの件だが心当たりのある職人が一人いる。城下町の外れに住む、老いた木工職人だ。変わり者だが腕は確かだと聞いている」
顔は一瞬で明るくなった。
「ご立派なことですこと。あなたが気の利いた情報を持っているなんてね。明日、その職人を訪ねてみるわ」
皮肉を込めて言うと、ディートリッヒは眉一つ動かさなかった。
「私も同行する」
二度目の驚きに目を見開いた。
「あなたも? ふうん、そんなにも暇なのかしら。領地の仕事は大丈夫なの?」
「私の責務だ」
短く言い放った。どこか彼なりの責任感が滲み出ているような気が。それ以上何も言わず、彼の申し出を受け入れる。
翌朝、連れ立って城下町の外れへと向かう。ディートリッヒは相変わらず無口だったが隣を歩くのは、以前ほど苦痛ではない。
しばらく歩くと小さな小屋が見えてきた。中からは木の香りと、木を削る音が聞こえてくる。
「ここが彼の工房だ」
ディートリッヒが告げ、扉をノックした。




