2
王太子殿下の母君は、身分の低い女性でした。
国王陛下が公爵令嬢だった婚約者を捨てて選ばれた平民出身の女性だったのです。
彼女は王太子殿下が幼いうちにお亡くなりになりました。婚約を破棄された公爵令嬢の関与が疑われましたが、その公爵令嬢の娘である親友のイングリッド様によると、
「お母様はそんなに暇じゃなくてよ。王子を傀儡にしたい妃の取り巻きの仕業でしょう」
とのことです。
国王陛下は王太子殿下の将来を憂えて、親友であった侯爵の娘との婚約を決めました。
それが私、ロザリンドです。
美しい金髪に青い瞳、お人形のように可愛らしい王太子殿下に初めて会って、私は一目で恋に落ちました。
お母様が大好きだった私は(もちろん今も大好きですよ)、母君を亡くされたという彼が可哀相でなりませんでした。
自分なりにお力になろうとしてきたのですが、たぶん殿下はそれが疎ましかったのでしょう。私を嫌い、仲良くしてはくださいませんでした。成長するごとに才覚を現し、文武両道に優れた姿を見せる殿下には、もの覚えが悪くて王妃教育が進まない私は理解不能な愚物だったのでしょう。
この国の貴族が通う学園に入学して、殿下はとある特待生と出会いました。
身分こそ低いものの、見目麗しく才に長けた少女です。平民ながら特待生に選ばれるほど学業の成績も優秀だそうです。
王妃教育があまりに進まないので、学園を休学して王宮に泊まり込んでいた私とは違います。殿下が彼女に惹かれ、愛するようになるのは当然のことでした。それに、特待生の髪の色は亡くなられた母君と同じだったのです。私のくすんだ灰色の髪とは違う、光り輝く黄金の髪です。あ、でもお父様と同じ灰色の髪が嫌なわけではありませんよ?
久しぶりに登校した私は、殿下と特待生の仲睦まじい姿に衝撃を受けました。
王宮でも噂は聞いていましたが、信じてはいませんでした。信じたくなかったのです。そうでなくても王妃教育で知識を詰め込まれて、頭が痛かったのです。
学園に通い出した私は、毎日毎日おふたりに注意をして、とうとうある日泣きじゃくる彼女を抱き締めた殿下に──彼が望んでの婚約ではないという真実を突き付けられたのです。
……注意しているつもりで嫉妬をぶつけていた私の声が、おふたりに届かないのは当然のことでした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「本当なの?」
イングリッド様の言葉に頷きます。
数日ぶりの学園です。
医師や薬師、王宮魔術師達に検査をされましたが、異常が見当たらないということで登校を許されたのです。しばらく王妃教育を休んでいいというのは、喜んではいけないことなのでしょうが正直嬉しいです。廊下を歩きながら、事情を説明します。
「私にはよくわからないのですが、私は王太子殿下を感知できなくなったようです」
「そう」
イングリッド様が、楽しげに微笑みます。
「だったらアイツとの婚約は解消ね。あなたとの婚約が解消されたら、王家を支えるものなんていやしないわ。どうなるか見ものね」
「イングリッド様……」
私は溜息をつきました。
お母様のことがあるので、彼女は王家に良い印象を持っていません。いいえ、私のお父様の取り成しがなければ、高位貴族のほとんどが王家を見捨てていたことでしょう。
以前イングリッド様が言っていた『王子を傀儡にしたい妃の取り巻き』は、すでに処分されています。生き残っていたとしても、彼らは身分が低く王太子殿下の後ろ盾にはなり得ません。
「……あははっ……」
「ちっ、アバズレだわ」
どこからか聞こえてきた笑い声に、イングリッド様が舌打ちを漏らしました。
イングリッド様は伯爵令嬢です。婚約破棄されたお母様が、実家の公爵家が持っていた伯爵位を継いで女伯爵になったのです。お父様は平民の方だとか。
そのせいか、イングリッド様は少々荒っぽい口調で話されるときがあるのです。
笑い声の主は例の特待生でした。
取り巻きに囲まれて、楽しそうに話をしています。
王太子殿下はいらっしゃらないようでしたので、安堵しながら彼女の横を通り抜けようとしました。
「あ」
なにかにぶつかって、廊下に尻餅をついてしまいます。
どうしたのでしょう。
頭痛は収まっているから、目まいを感じることもないはずなのですが。
「申し訳ありません、イングリッド様。お手を拝借してよろしいでしょうか」
さすがに特待生の取り巻きに助けてもらうつもりにはなりません。
どんなに彼女が王太子殿下とお似合いでも、彼の婚約者はまだ私なのですから。
「ええ、もちろんよ」
イングリッド様は楽しげに笑って、私に手を差し伸べてくださいました。
彼女は凛々しくて、騎士のようなところがあります。伯爵領では剣を取って魔物と戦うこともあるのだとか。
ひとつ違いの弟君が魔術研究に明け暮れているため、伯爵家はイングリッド様が継いで二代続けて女伯爵になるかもしれないと話してくれたこともあります。
「ふふっ。……あの顔」
立ち上がってしばらく歩いていたら、イングリッド様が吹き出されました。
「どうなさったんですの?」
「あ……ごめんなさい」
イングリッド様は申し訳なさそうな顔をなさいました。
もしかして私は王太子殿下にぶつかって転び、殿下が差し出してくれた手を無視して彼女に助けを求めたのでしょうか。
不敬の極みだと恐ろしく思いつつも、見えないのだから仕方がないと心が言います。
実はね、と説明してくれようとしてくれたイングリッド様に首を横に振って答えます。
教えていただいたとしても、私は殿下に謝罪することはできません。どこにいらっしゃるのかさえわからないのですから。
もう、彼の怒号さえ私の耳には届かないのです。寂しいはずなのに、安堵している私がいました。
そっと目を閉じても、厳しい王妃教育の間の心の支えだった王太子殿下の面影は浮かんできません。
このままずっと見えないままだったら、いつか彼の顔を忘れてしまうかもしれません。
……それも良いのではないかと、心が言っています。




