◇血色の狼煙(1)
アスールの説明通り、デリア橋には定期的に地上へ繋がる階段や坂が造られており、その先には街や宿泊街が形成されていた。大型河川の傍に人里が栄えるのは道理で、どの街も豊かな場所だ。ラーリア湖もずっと左手に見えており、つくづく巨大な湖だ。海を見たことがない内陸住みのヒトたちは、ラーリア湖を『海』と信じて疑わないという笑い話も、割と真実に近いのだという。
「いつ橋を降りるの?」
カイが歩きながらアスールに尋ねる。もうデリア大橋を渡り始めて二日目になる。変化する景色を眺めるのも楽しいものだが、カイはそれにも飽きたらしい。
アスールは顎をつまむ。王都が近付いて、いよいよアスールは周りの目を気にし始めた。曰く、この周辺には『敵』も多いのだという。デリア大橋は国の要人たちも頻繁に使う一般道であるから、ばったり会ってしまうという事態は避けたいのだ。
「今日中には。クレールという街がこの先にあるのだが、そこで降りる予定だ」
「なんだ、案外近いんだね」
「デリア大橋の移動自体はな。クレールの街から今度は北へ、また少し歩くことになるぞ」
アスールはそう言うが、目的地が一気に近づいてきた。あと数日もすれば、サレイユの王都グレイアースに到着できる。アスールが育った街はどんなところだろう。もしかしたらイリーネにとっても、懐かしい都市なのかもしれない。そんなことを考えると、胸が高鳴るというものだ。
しばらく歩き続けると、前方に河川が見えてきた。ラシード川はとっくに越えたから、あれはオレント川だ。グレイアースはそのオレント川の中流域に栄えた都市である。これからはあの川沿いに進むことになるのだ。
そんな川の傍、橋の下に集落が形成されている。アスールの言っていたクレールの街だ。デリア大橋の中継地点として、旅人が多く立ち寄る街だという。
まだ日は高いが、補給もしたい。今日はひとまずクレールで休もう――そんな話をしながら、デリア大橋から分岐している緩やかな坂を下っていく。
その途中、誰からともなく四人は足を止めた。坂を下った先にある街の門の傍に、人だかりが出来ていたのだ。その様子が異様だった。物々しいといえばいいのか――遠く離れたここまで、怒号めいたものが聞こえてくる。
「なに、あれ? 検問か何か?」
「そんなはずはない。出入りに検問を設けている街など、サレイユにはないぞ」
なんとなく物陰に隠れて、チェリンとアスールが街の方を窺う。黙って目を閉じていたカイは、音を聞いていたようだ。集中したまま、カイは呟く。
「……街の中から戦いの音がする。刃鳴りと銃声……あと、魔術も感じる。賞金首の化身族が複数いるみたいだ」
「戦い……!? 馬鹿な、何が起こっているのだ!」
もしそのような不穏な動きがあれば、アスールは事前に知っていたはずだ。でなければここを中継地点に選んだりしないだろう。
街全体を巻き込むような争い――真っ先に考え付くのは、やはりアスールとダグラスの派閥争いか。
「クレールの街の監察官は?」
「……ベイルという男だ。もう長くクレールの監察官を務めていて、かなりの化身族を私兵として組織しているという話も聞く。ダグラス派の人間だ」
つまり街中にいる化身族は、クレールの監察官の私兵たちということか。ならば戦いの相手は、アスールの元に集う武官たちということで間違いはないだろう。
再び集中して音を拾っていたカイが、目を開けて顔を上げた。
「巡視監がどうのこうのって言ってる。心当たりは?」
「巡視監……なるほどな、もうそんな季節か」
腕を組んだアスールは、いまいち事情の分かっていないイリーネたちに簡単に説明した。
「各地の監察官が不正や非道を行っていないかを確認する者、それが巡視監だ。これは年に二度、春と秋に王都から派遣される。デリア大橋周辺の街に派遣される巡視監と、その護衛に就いている軍人たちは、私の派閥に連なる者だ」
「要するに、この街の監察官と視察に来た巡視監との間で、何かいざこざがあったってわけね」
おそらくチェリンの推測通りだ。だとすれば巡視監たちに分が悪い。アスールが反則的に強いから忘れがちだが、普通の人間は化身族とまともに戦うことなどできないのだ。いくら訓練された軍人たちが揃っていようと、防御が精いっぱいのはずだ。
意を決したように、アスールは物陰から出て街の門へ向けて歩き出した。争いを止める気だろう。ここで知らぬふりをするのはアスールらしくない。アスールは王子なのだ。常日頃アスールを疎ましく思い、暗殺しようとまで思う者たちでも、公衆の面前でアスールに楯突くはずもない。
門に群がっているのは、この街にやってきた旅人たちだった。入り口を固めているのは軽鎧を身につけ武装した軍人である。民間人が街に入らないように押さえているようだが、事情も知らされていない旅人たちの怒りは激しい。「中に入らせろ」とか「何が起こっているのだ」とかいう怒号がひっきりなしで、軍人たちも途方に暮れている。
その旅人たちの群れを掻き分けて、アスールは軍人たちの前へ出た。彼らは驚いたように姿勢を正す。
「あ、アスール殿下!? よくぞご無事でッ……」
「無事……? どういうことだ?」
怪訝にアスールは眉をひそめる。放浪癖のある王子の帰還を喜ぶだけの声ではなかったのだ。それこそ、アスールの生存を喜ぶような――アスールが国を空けることなどしょっちゅうあっただろうに、何をそんなに心配していたのだろう。
「一か月前のイーヴァンでの暴動に、アスール殿下が巻き込まれたという噂が流れておりまして……! 亡くなられたのではと申す者まで出る始末だったのです。ご無事で本当に良かった」
「あ、ああ……あれか。すまない、心配をかけたようだな」
感極まった様子の兵士を見ていると、つくづくアスールは臣下たちに慕われているのだということが分かる。おそらく直接的なかかわりはなかったはずの一兵卒が、泣きそうになりながらアスールの無事を喜んでいるのだから。
「状況を把握したい。中で何が起こっているのだ?」
「はっ。一昨日の夜から、クレールのベイル監察官とエメネス巡視監の間で争いが発生。市街地を巻き込んだ暴動と化しております」
「君は騎士隊だな? 巡視監の護衛ではないだろう、一体誰の旗下だ」
「自分はフェレール騎士隊所属であります! 暴動鎮圧のため、半刻ほど前に到着いたしました」
「ジョルジュか……! それなら話は早い」
とんとんと話が進んでいるようだが、後ろで聞いているイリーネは何が何やらさっぱりである。とにかくいまクレールには、暴動を治めようと鎮圧軍が到着しているようだ。
「君はここで任務を続行。民間人を街へ入れるな」
「はっ!」
「そういうわけだ、私は少し行ってくる」
爽やかに振り返られて一瞬唖然としたのだが、慌ててイリーネはアスールの腕を掴んで引き留めた。
「ま、待って! ひとりで行ったら危険です!」
「大丈夫だ、そんな簡単にやられたりはせぬ」
「剣も抜かないで?」
カイがじろりと視線を送る。痛いところを突かれたといった顔のアスールは、剣に手を添えた。
「敵対者といえど、自国の民。彼らに向ける剣など――」
「あんたは化身族を甘く見過ぎ。狭い街中で、大型化身族をそう何体も素手で相手取れると思うなよ」
カイらしからぬ厳しい言葉だ。口調もどことなくキツい。
アスールなら切り抜けるかもしれない。そうは思っても、アスール一人では行かせない。それがカイの意志なのだ。
カイは知っている。幼いころから、アスールが難しく厳しい立場にいたことを――。
「契約相手が行くって言うなら、あたしたちも行かないと。ねえ?」
チェリンに同意を求められ、イリーネも頷く。
「怪我をしたヒトがいたら、助けてあげたいです」
「チェリン……イリーネまで」
困ったようにひとつ息を吐き出したアスールは、顔を上げたときもう決意を固めていた。
「……分かった、頼む」
門番をしている兵士に道を開けてもらい、四人はクレールの街に入った。カイは戦いの音がすると言っていたが、イリーネの耳には何も聞こえない。それどころか、静かすぎた。ヒトで賑わうはずの市場や公園には誰もいなくて、ただ静寂があるのみ。かなり土埃が舞っていて、それだけが争いの激しさを伝えてくる。きっと街の奥で、戦闘が行われているのだ。
カイは荷物を背負う。いつの間にか瞳の色が金色に変わっていた。
「アスール、俺の背に乗って。戦場を突っ切る」
「それはいいが、くれぐれも彼らを攻撃しないように――」
「分かってるって。チェリー、君はイリーネをお願い。ちゃんとついて来てね」
「迷子になるのは御免だから、死んでもついて行くわよ」
チェリンがどんと胸を叩く。カイはふっと微笑んで頷き、豹の姿に化身した。ほぼ同時にチェリンも黒兎へと変化する。
アスールがカイの背に、イリーネがチェリンの背に跨る。それを確認したカイは、ほぼ助走なしで跳躍した。近くの商店の屋根まで上がり、屋根伝いに疾走を開始する。チェリンも危なげなくそれに続き、イリーネは必死でチェリンにしがみつく。
高いところに上がると、街の様子がよく分かった。いっそう高い建物、あれがクレールの監察府だろう。その周辺は土煙が酷く、視界が悪い。あそこが乱闘の中心地のようだ。
「……! カイ、あそこへ行ってくれ!」
アスールが指差した先は、監察府傍の戦場から少し離れた場所。あれもまた何かの施設だろうか、他の住宅と違って堅牢な門や石壁で囲まれている。その中に、大勢の人間たちがいたのだ。街の門番に立っていた兵士と同じ姿をしているから、あれが鎮圧軍と巡視監の陣のはずだ。
指示を聞いたカイが方向を転換する。と、その瞬間カイの足元で石が跳ねた。はっとして地上を見下ろすと、そこに猟銃を構えたハンターが数人立っていた。カイとチェリンの姿は明らかにイレギュラーなもの。住宅の屋根を疾駆していれば、見つかって当然だ。
カイは飛来する弾丸を“凍てつきし盾”で防ぐ。反撃はしない。
チェリンがそこでぐんと速度を上げ、カイを追い抜いた。地上から飛んでくる銃弾など、恐れていないような無防備な疾走だ。そのチェリンを狙った弾丸を、カイが防ぐ。さすがのカイも後ろに目はない。チェリンを先に行かせた方が、安全に守れるのだ。
飛び移れる屋根がなくなってしまい、地上に降りざるを得なくなる。それを狙っていたかのように、今度は化身族の一団が群がってきた。アスールが眉をしかめ、思わず剣の柄を握りかけたとき、カイの魔術が再び発動する。
“氷結”が、大通り一帯の路面を凍結させた。全力でこちらに向かって来ていた獣たちは、凍った地面のせいでバランスを崩して失速する。しかしこれは、鳥族の者たちには関係のない障害だった。一直線にカイらへ突撃してくる。が、突如目の前に出現した氷の壁に頭からぶつかって、星をちらつかせながら彼らは地に落ちた。それを確認するまでもなく、カイたちは大通りを駆け抜けてもう一度別の住宅の屋根に飛び乗る。
これまでの戦いは一対一が基本だったものだから、乱戦でカイがこれだけ立ち回っているのを見るのは初めてだ。カイにとってはこの街そのものが武器になる。身一つで果敢に飛び込んでいくカイの姿は、いつのものあの眠そうな青年の姿と同じだなんて思えないほどだ。
強い土埃の中に突っ込んで、イリーネは思わず目をつぶる。そしてその眼を開けたとき、目指していた巡視監の陣地が目前に迫っていた。
★☆
「――市街地で戦闘を開始するなど言語道断! 今すぐに兵を退かせろ!」
「し、しかしフェレール殿……監察府の勢いは止まりません。住民までが、我々に武器を向けてきております。ここで退いては、こちらの損害が増すばかりです」
「だからと言って、同じサレイユの民同士で争う意味がどこにある……! こんなことを、アスール様もダグラス様も望んではいないというのに」
巡視監の護衛を務めていた護衛団の長に詰め寄っていたのは、フェレールと呼ばれた若い男だった。サレイユの象徴色である青の制服を身につけているのは他の者と同じだが、意匠は明らかに格式高いものだった。護衛団とは所属が別で、かつ階級も高いことが一目で分かる。
短く切りそろえられた薄い茶色の髪と、翡翠のような緑の瞳。こんな場合でなければ爽やかな好青年なのだが、状況の悪さのせいで眉間には深い皺が寄っていた。クレールでの暴動の知らせを受けて鎮圧に駆けつけたは良いが、退くどころか戦うことすらできない。街中で武器を抜くことは、軍規によって禁止されていた。だというのに相手はそんなことを知らず、執拗に攻め立ててくるのだ。こちらは守りに徹することしかできず、そうしている間にも街は監察府の勢力で埋め尽くされていく。いま巡視監とその一派に残された味方陣地は、この町立図書館の敷地内だけであった。門構えも立派なことからここに陣を敷いたが、ここから出ることができない。
打開策を何か考えなければならない――必死に頭脳を働かせはじめたとき、味方内で妙なざわめきが起こった。何かと思って振り返れば、図書館の外壁の上に、巨大な白い豹と黒い兎がいたのだ。この大きさは明らかに化身族である。
武器を構えようとする部下たちを制し、男はその傍へ歩み寄る。豹と兎も地面に降り立った。と、その背にふたりの人間がいることに気付いた。
それは、男もよく知る人物で――。
「――アスール様!?」
男の主君、サレイユの第一王子アスールは豹の背中から降りる。豹は化身を解き、銀髪の青年の姿になった。彼と、黒兎の背に乗っていた女性の姿を見て、またしても男の息は止まりそうになる。
フローレンツで名高い【氷撃のカイ・フィリード】と、リーゼロッテのイリーネ姫ではないか――。
「ジョルジュ、久しぶりだ。突然で悪いが、状況を手短に話してくれ」
アスールの変わらぬ声を聞いて、男――ジョルジュは肩の力を抜いた。アスールが登場しただけで状況は何も変わっていないのに、なぜか安心してしまった。
どういうわけでアスールがここにいるのかは知らないが、多分、大丈夫だろう――思わず湧き上がったそんな思考を振り払って、ジョルジュは深く頷いたのだった。




