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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
2章 【青き嶮山 イーヴァン】
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◇霊峰ヴェルン(4)

 行き詰ればニキータが上空から道を探し、カイやアスールに助けられて一行はテルメニー山を進んだ。植物の密集する道なき道を進むのは常人には厳しい。カイでさえ息が上がるほどなのだから、イリーネやクレイザは尚更だ。少しの距離を進むのにかなりの時間を要した。

 しかしそれでも、ほぼニキータの予定通りの日程で、彼らはテルメニー山を乗り越えることができた。


 下り坂の終了は、イリーネに下山完了を告げていた。実際はすぐに次の山、ガデル山に登ることになるのだが、今は束の間の広い平地に寝転がりたい気分だ。


「ここまで四日か。まずまずのペースだな」


 ニキータは満足そうだが、その足元でクレイザが地面に膝をついて蹲っていた。


「あ、足が……限界……」

「だらしないねぇ、うちの坊やは」


 クレイザは本当に武芸の心得もなく、体力も二十代の青年としてごくごく平凡なものでしかなかった。一切の戦力を放棄するという信念のもと、クレイザも一切の武力を身につけなかったのかもしれない。

 ニキータがクレイザの足を診ている間に、カイとアスールはせっせと寝床を整えはじめた。イリーネとチェリンも食事の準備をはじめ、さすがにクレイザも寝ているだけという訳にはいかなくなったらしい。足に問題もなさそうなので、ニキータと共に傍にある川へ水を汲みに行ってくれた。元々イリーネらは野営に慣れていたし、四日目にもなるとクレイザとニキータも仲間内で役割がはっきりしてきた。ニキータはその視力を活かして、貴重な水場を見つけ出してくれる。そこへクレイザが急行し、水を汲んでくるというのが彼らの役目になっていた。



 ヒトの気配は一切ない。目下最大の障害であるハンターもいないので、これはこれで気が楽だ。だがまったくヒトの手の入っていないイーヴァン西部では、気をつけねばならないこともたくさんある。怪我や病気をしても医者はいない。危険な野生動物や、毒を持つ植物も存在する。幸いなことに博識な面々が多いので、今のところ知識を持ち寄って危険は事前に回避することができていた。

 夜の見張りも、立てないわけにはいかなかった。火を焚けば匂いを嗅ぎつけて野生の獣が来るかもしれない。だが火を消すわけにもいかないので、寝ずの番はどうしても必要だった。


「クレイザさん、大丈夫ですか? 随分お疲れなんじゃ……」


 今晩の寝ずの番はクレイザだった。数時間交代で男性陣が見張りに立ってくれることになっていた。イリーネは先程のクレイザの疲労困憊の様子を見て、心配して声をかける。だがクレイザはにっこりと微笑んだ。

 夜食を終えて眠るまでの時間、仲間たちは思い思いに過ごしている。カイは明日からの進路を確かめてくるとかで席を外し、チェリンも残りの食材などの確認をしている。イリーネはふと、ひとり木陰に腰かけていたクレイザに声をかけたのだ。


「そんなことを言ったら、イリーネさんだってお疲れでしょう」

「でも、私は見張り免除してもらってますから……」

「女の子に見張りなんてさせられませんよ。大丈夫です、座ってじっとしているだけでも十分な休憩ですから」


 言いながらクレイザは、膝の上に乗せていた竪琴の弦を爪弾いた。ぽろん、と控えめな音が出る。そこまで大きな竪琴ではないが、かさばることは間違いない。それでも手放さないあたりに、クレイザの思い入れがあるように思えた。


「……心配してくれたんですか?」

「え?」


 急に問い返され、イリーネは呆気にとられる。


「僕が、皆さんから離れてひとりでいることを」

「え、ええっと……」


 実は図星だった。クレイザもそれが分かったのか、微笑む。

 クレイザは人当たりよく、誰とでも打ち解けたように話していたように一見は思った。しかし、思いの外クレイザはひとりの時間が多かったのだ。それは打ち解けているように見えて、実はまったく打ち解けていないかのように不自然だった。――何せ、クレイザは自分から口を開くことが皆無に等しかったのだ。


 沈黙してしまったイリーネの耳に、ぽろん、ぽろんと竪琴の音が聞こえる。それからクレイザが口を開いた。


「リーゼロッテの民も、ヘルカイヤの民も、本質は敬虔な女神教信者です」

「は、はあ……」

「けれど、女神教と一口に言っても派閥がいくつかありまして。リーゼロッテの女神教が種族をはっきり区別する、厳格なものであるのに対して――ヘルカイヤの女神教は、種族間交流を積極的にとる、非常に緩い戒律の宗派なんです。象徴的なのは異種族結婚ですよね。リーゼロッテでは決してこれは認められませんが、ヘルカイヤではむしろ奨励されていました」


 唐突に語りだしたクレイザの話に、イリーネは無言で頷く。その語り口から、クレイザが豊富な女神教の知識を持っていることがうかがえる。彼は女神エラディーナの物語を吟遊詩人として歌ってきたのだ、当然のことかもしれない。いや――むしろ、詳しかったからこそ、吟遊詩人になったのか。


「元々の女神教の起こりは、エラディーナが化身族と人間族の平等を望んだという事実に基づいています。とすると、神国が国教と定める女神教は矛盾していないか――それが、僕たちヘルカイヤの民の考えでした。神国とヘルカイヤの不仲は、宗派の違いが原因だったんです。両者ともに、自分たちの宗派が始原にして真理だと信じていましたから」

「なら……二十年前に、リーゼロッテがヘルカイヤに攻め込んだのは……」

「あれは紛れもなく、宗教戦争でした。別に他に何の目的があったわけでもない、敬虔な女神教信者であった神国王は、ヘルカイヤの女神教を許せなかっただけです。……強いて言えば……ニキータの獲得は狙っていたかもしれませんね」


 神国王――イリーネの、父親。

 ヘルカイヤの民は、大国の圧迫を受けながらも独自の宗派を守ってきた。ただそれを守り続けようと戦い、もろとも神国に破壊された。

 信じるもの、目指す場所は同じなのに、考えが少し違うだけで――聖戦と称して、ヒトを殺せるものなのか。


 リーゼロッテやサレイユなどで広く信奉されている女神教では、種族は種族として区別されるべき、それでも手を取り合うというのが目指す場所らしい。両種族の平等な繁栄――それを目指すから、血の融合を進めるヘルカイヤの民とは分かり合えなかった。

 けれどそれを、客観的に淡々と語るクレイザは、やはり傑物なのだろう。


「……ヘルカイヤには戻らないって、言ったような気がしますけど。実は僕、一度だけ戻ったことがあるんです」

「え?」

「十年ほど前……リーゼロッテの小さい姫君が、ヘルカイヤを訪問すると聞いて」

「それって、私……?」


 クレイザは頷いた。


「それまで神国の王族の方がヘルカイヤを訪れたことはありませんでした。イリーネさんだけならともかく、カーシェルさんも一緒でしたから。どんなことになるのだろうかと、心配になって」


 ヘルカイヤの民が、憎いリーゼロッテの王族を前にしてどんな態度を取るか。また、リーゼロッテの幼い姫がどんな態度を取るか。それを心配して、クレイザは極秘裏にヘルカイヤに戻ったのだという。


「あの時、自分が何をしたか覚えていますか」

「い、いえ……」

「あ、そうでした、イリーネさんは記憶がなかったんでしたね。すいません、それじゃ覚えているわけもないか」


 はは、とクレイザはひとり笑う。だがイリーネは気が気でなかった。十歳のころの自分は、一体何をやらかしてしまったのだろう。考えるだけで血の気が引いてしまう。

 笑みを収めたクレイザの表情は、それでも穏やかだった。


「――頭を下げてくださったんです」

「……!」

「『帰れ』と罵声を浴びせられ、今にも石を投げるんじゃないかという民衆の前で……貴方は僕たちに謝罪をした」


 普通の王族なら、そんな迂闊なことはしない。敗戦国に勝者が頭を下げる、それは己に過ちがあったと認める行為。事実が何でも、勝者は敗者に頭など下げないのだ。王族ともなれば、なおさらのことだ。


「カーシェルさんは、頭は下げなかったけれど黙っていた。貴方の行いをやめさせることもなかった。本当に驚きましたよ」

「クレイザさん……」

「何の責任もないはずの、小さなお姫様が。謂れのない憎しみを向けられた貴方とカーシェルさんが――公式な場ではなかったとはいえ、確かに非を詫びた。……僕はそれだけで十分だったんです。僕にだってそれまでは、神国を恨む気持ちがあった。でも貴方の姿を見たら、急にそんな気持ちも薄くなってしまったんですよ。元々僕が吟遊詩人になったのは、ヘルカイヤの宗派の女神教を世に伝えるためでしたけど……それももう、些細なことのような気がして」


 また、クレイザが弦を弾く。


「貴方がしたのは、軽率な行動だったでしょう。けれどそのおかげで、どれだけの人々が救われたか。カーシェルさんの計らいで、ヘルカイヤでの信教の自由は約束されました。理解ある役人の方も派遣して頂いた。民の多くは、まだリーゼロッテへの蟠りを捨てきれていません。それでも、イリーネさんとカーシェルさんには感謝しています」


 それは本当に、クレイザの本心からの感謝のようだった。全く身に覚えのない過去の話ではあるが、確かに自分がやったことなのだ。自分と、異母兄のカーシェルが。


「同じ時期に、サレイユで信教の自由を認め、ヘルカイヤの民を受け入れようと奔走してくれたのはアスールさんと彼のお兄さんです。だから僕は、同じようにアスールさんにも感謝している」


 戦争が終わってしばらくしても、異教の民というレッテルを貼られたヘルカイヤ人たちは、大陸の中で居場所を失っていたという。それでもあちこちで、その差別をなくそうと活動したヒトがいた。そのうちのひとりがアスールなのだ。


 話が一段落したのか、クレイザの声の調子が急に変わった。


「――とまあ、柄にもなく色々喋りましたけど。何が言いたいかって、僕は全然、これっぽっちもイリーネさんとアスールさんに恨みなど持っていないってことです」

「はい……」

「なのにふたりとも、なんだか僕に遠慮して。ちょっと寂しいですよ」

「ご、ごめんなさい! 私、軽々しいことは言わないようにと思って……」


 大袈裟に、おそらくわざと項垂れたクレイザを見てイリーネは慌てる。神国がヘルカイヤにしたことは非道だと思うし、それを自分の父親がやったというのならイリーネも他人事ではない。そう思っていたが、実際はクレイザに遠慮するアスールの態度に引きずられたのだ。

 戦争だ。被害者はヘルカイヤだけではない。ヘルカイヤ軍によって、多くのリーゼロッテとサレイユの兵士が死んだのもまた事実。アスールだけが負い目を感じるのも、妙な話だ。


「とはいえ、一線を引くアスールさんに僕も遠慮したのは事実。イリーネさんに心配かけないよう、これからはちゃんとアスールさんとも話しますよ」


 貴族としての知的な一面を見せたかと思えば、茶目っ気たっぷりの若々しい表情も見せる。クレイザには色々な面を持ち合わせているのが、いまの数分で一気に分かった気がする。思えばクレイザはアスールよりもいくつか年上、人間族の仲間の中では最年長なのだ。色々抱えていて当然だ。


「……クレイザさん。一曲聞かせてくれませんか?」

「勿論。イリーネさんは神属性の魔術書を読んでいるんですよね」

「はい、ちょっとずつだけど」

「じゃあ、それにちなんだ歌を」


 クレイザは地面に座り直して、竪琴を構えた。先程までのように徒に弾くのではない。王都オストで一度見たときと同じように、クレイザは竪琴を弾きはじめた。と同時に、穏やかな歌声が夜の山中に小さく響く。聞きつけた他の仲間たちも自然とクレイザの歌声に耳を傾けた。


 いつか、クレイザが何の気兼ねもなくヘルカイヤに戻れる日が来ると良い。

 アスールとクレイザが、友として話せる日が来ると良い。


 そのための努力をしなければならないのだと、イリーネは感じた。これまでも互いに歩み寄ろうとはしていたのだろう。今はいないカーシェルのことも、クレイザは信じている。カーシェルを知るヒト全員が、カーシェルを信頼している。それは滅多にあることではない。

 何にせよ、カーシェルを救い出すことがすべての解決に繋がるはずだ。まだ見ぬ兄に、早く会ってみたい――。


 そうしたら、すべての記憶も取り戻せるのではないか。今のイリーネを形作った、それほど深いかかわりの合った兄に再会すれば、もしかしたら。

 記憶が戻れば、クレイザやアスールのためにできることもあるのに。カイとの思い出も取り戻せて、彼らの負担を減らせるかもしれないのに。


 もどかしくて、仕方がない。

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