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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
2章 【青き嶮山 イーヴァン】
31/202

◇山岳を越えて(2)

 日が傾いてきたころに到着したのは、山の斜面に建てられた大きな木造の建物だった。これが今夜の宿であり、山中にいくつか存在する山小屋のひとつだ。

 要するに今まで街道沿いに建てられていた休憩所と同義の建物ではあるが、さすがに山中ということがあってそれは『宿』と呼ぶべき管理体制だった。部屋は個室に別れていて、世話をしてくれる人もいる。食堂も浴室も完備で、旅人に優しい宿だ。ちなみにここも狩人協会が運営しているらしく、イリーネとカイはハンターの特権として安く泊まることができた。


 壁も床も家具もすべて木でできていて、その匂いが心地良い。一日登山して疲れ果てた身体を柔らかいベッドに横たえると、もう数秒で眠れそうな勢いだ。


「身体は平気?」


 湯を浴びて汗を流してきたカイが、まだ湿った髪をタオルで拭きながら尋ねてくる。イリーネは微笑んだ。


「はい。ちょっと足痛いですけど」

「ちょっと足痛いくらいで済んでるのか。逞しいね、イリーネは」


 カイは隣のベッドに座り、使ったタオルを傍のタオル掛けに引っかけた。


「明日はニムに着くんですよね?」

「多分夜になるけどね。明日のほうがもっと辛いだろうから、早めに休んでおきなよ」


 言われなくとも、重たい瞼を必死であげているところである。けれども夕食を食べて入浴してすぐという早い時間に寝るのはなんだか勿体ない気がして、頑張って起きていようと試みる。

 せめてカイが寝る態勢に入って、灯りを消すまでは――。


 と思ったというのに、「ちゃんと布団被らないと風邪引くよ」とカイに毛布を掛けられてしまい、枕に頭を乗せればあらがいようがない。


 意識が鮮明になったり遠のいたりを繰り返し、うつらうつらと浅い眠りの中を漂う。その中でカイが、ベッドに座ったまま何か本を読んでいる姿がおぼろげに見えた。

 本――魔術書だ。イリーネに教えるために、カイがまず魔術書を読みこんでくれているのだ。

 疲れているのはカイも同じだろうに。徹夜して、イリーネのために。


 イリーネが観ていることに気付いたカイが、ふわっと微笑む。


「もう寝なって。めちゃくちゃ無理して目開けてる顔だよ」


 だって。こんなにもカイが頑張ってくれている隣で、のうのうと朝まで眠っているなんて。


「――また、眠っちゃうのが勿体ないとか思ってる? ……明日も早いんだから、夜ふかし禁止」


(え……? 『また』?)


 そんなことを、カイに言ったことがあっただろうか。

 カイの一言が何か引っかかったが、結局は睡魔にあらがえずイリーネは眠りに落ちたのだった。





★☆





 ――夢を見た。


 すぐ傍を駆けていく、大きな四つ足の獣。イリーネを追い抜かした獣は、少し前方で足を止めて振り返ってくる。

 犬だろうか。本当に、とても大きい。


 夢の中の自分は、その犬に向かって声をかけた。とびきりの笑顔で、その名を呼ぶ。だが声は聞こえない。自分の発した言葉であるはずなのに、聞き取れない。


 こちらを振り返っていたその犬は、また前を向いてしまった。そして軽やかに駆けていく――イリーネの手の届かない場所に。

 なぜだか、それがとても辛いような――。





 はっと我に返り、飛び起きた。すると、室内に立って荷物をあさっていたカイとばっちり目が合う。カイはきょとんとした目で瞬きした。


「どしたの? 急に飛び起きて」

「あ……夢、見てて」

「夢?」


 室内はまだ薄暗い。日が昇って間もないのだろうか。カイは本当に早起きだ――もしかして、完徹したのかもしれないが。彼は疲れとか眠気とかが顔に出ないから分かりにくい。

 カイは隣のベッドに座って、イリーネと向き合った。イリーネはベッドの上に膝を立て、毛布を引き上げて微笑んだ。


「なんだか、不思議な夢でした」

「ほう、そりゃまたどんな?」

「犬を飼ってるんです」

「――……は?」

「大きくて、白い犬。夢の中の私、その犬のこと大好きみたいで……でも、最後には消えていなくなっちゃったから、すごく悲しくて。そうしたら目が覚めたんです。もしかしたら昔飼ってたのかもしれないですね」


 そこまで話して、今度はイリーネが呆気にとられる番だった。さっきまでの穏やかな表情はどこにいってしまったのか、カイは血の気の引いたような顔で沈黙しているのだ。


「あ、あの、カイ?」

「犬……ね。なるほど」

「……?」

「他に、なんか夢見た?」

「いえ、それ以外には……」

「ふーむ……」


 カイは意味ありげに呟くと、ごろんとベッドに倒れ込んだ。イリーネが驚いて身を乗り出す。


「ど、どうしたんです?」


 仰向けに倒れ込んだカイは両手で顔を覆い隠した。そして息を吐き出す。


「なんかちょっと、複雑な気分で」

「複雑……?」

「こっちの話。ありがと、イリーネ」

「どういたしまして……?」


 よく分からないまま、とりあえずイリーネは礼を受け取る。一体いまの夢の話の何に、カイが喜んだのか悲しんだのかはまったく理解できなかったのだが。


 身体を起こしたカイに、イリーネは忘れかけていた疑問をぶつけた。


「そ、そうだ、カイ、ちゃんと昨日寝たんですか?」

「大丈夫大丈夫、日付が変わる前には寝たよ」

「……本当に?」

「本当に。ちゃんと寝ないと君に心配されちゃうからね」


 そう言われて、自分はカイに『ちゃんと寝たのか』ということを確認しすぎだったろうかと思い至る。カイにしてみれば面倒だったかもしれない。

 少し沈んだイリーネを知ってか知らずか、カイは大きく伸びをした。


「おかげで規則正しい生活送れてるよ」


 感謝されていると思って、いいのだろうか。


「さ、早く起きてイリーネ。山の朝は早いんだ」


 カイに促されて、イリーネは急いでベッドから降りたのだった。





 本日の行程、とにかく登る。


 大雑把もいいところな日程をカイから告げられ、イリーネは装備を整えて山小屋を出発した。外に出たところでカイが空を指差したので視線を向けると、山腹からでもまだまだ高い場所にある山が見える。あの山に、目指すニムの街があるという。


 建物周辺の整備された道から離れ、砂利だらけの坂道を上っていく。昨日より道が狭い。下は鬱蒼とした森林となっており、落ちたらひとたまりもないだろう。


「さすがに夏だから、緑が多いなぁ」


 今日はまたイリーネの後ろにいるカイが、ぽつりと呟いた。


「そうなんですか?」

「ここに生えている木は殆ど落葉樹だから……秋になれば紅葉して、冬には丸裸だよ。辺り一面雪原になって、綺麗といえば綺麗だね」

「へえ、雪……見てみたいです」

「氷ならすぐにでも見せられるんだけどなあ」


 何か話題がずれたような気もするが、イリーネは構わず続けた。


「そういえばカイって、人の姿でも魔術使えたんですね。てっきり化身しているときだけかと思ってました」

「できないこともないけど、獣の姿の時のほうが魔術を組み立てるのが簡単なんだよ。人の時にやろうとすると手間取るから、余程のことがなきゃやらない」


 なら、イリーネが混血だとばれたときに魔術を使ってくれたのは「余程のこと」だったのか。


 そんなことを思っていた時、背後からばたばたと慌ただしい足音が聞こえてきた。なんだろう――山の中に入ってから、走る人間など見たことなかったのだが。

 そう思って振り返ると、きつい坂道を全速力で駆けあがってくる男性が二人。今にも死んでしまうのではないかと思うほど息を切らせているが、どう見てもハンターだ。


「み、見つけたぞ、【氷撃】! この俺と戦え……!」

「ちょっともう、時と場所を考えてよ。こんな狭い道で戦えるわけないでしょ」


 急斜面の途中で、道幅は大人がふたり並んでは歩けるほどしかない。カイの呆れは最もだが、相手は気にも留めない。


「いいから、戦え! 俺には、金が必要なんだ……!」


 何やら切羽詰った様子のハンターだったが、カイはやれやれと肩をすくめた。離れているように言われたので、イリーネは坂を少し登ってカイから遠ざかる。ちょうどカイとハンターたちを見下ろすような格好だ。

 挑んできたハンターが化身する。相手はトライブ・【スワロー()】だった。鷹などよりは小さく、その分小回りが利く。狭い道など問題にならない。強いて言うなら茂る木々が邪魔そうだが、燕には関係なさそうである。むしろいま問題なのは、豹であるカイのほうだ。


 ――と思えば、カイは足を肩幅に開いて身構えた。化身する前にそんなポーズは取らなかったはず。何をするのかと思っていれば、カイの立つ地面が一斉に凍結を始めたのだ。

 魔術。“氷結(フリージング)”だ。


「えっ……まさかそのまま!?」


 イリーネが驚いて声をあげると同時に、カイは右手を燕に向けて振り下ろした。


 強烈な冷気が撃ちだされる。“凍てつきし息吹(フローズン・ブレス)”だった。それそのものに殺傷力はなく、冷たい波動が直撃した衝撃でハンターの男が吹き飛ばされた程度だ。慌てて燕が相方を翼で受け止めていく。

 構えを解いたカイのもとへイリーネが駆け寄る。


「今のは……余程のことだったんですか?」

「手っ取り早くていいじゃない?」


 それはそうだが。


 その瞬間、何かが豪速ですぐ傍を通り抜けた。はっとした瞬間、凄まじい地響きが響く。何事かと思って辺りを見回せば、斜面に生えていた木が根元からぐらついているではないか。


「うっわ」


 どうやらあの燕が、カイに一矢報いるためにとんでもないことをしでかしてくれたようである――。


 木がこちらに向かってゆっくり倒れこんでくる。カイがイリーネの腕を引っ張って坂を駆け上がり、地面に伏せた。一瞬遅れて、背後で轟音が響き土煙が上がる。


「だ、大丈夫かーッ!?」


 周りにいた旅人たちが慌ててこちらに駆け寄ってきた。イリーネに覆いかぶさるように伏せていたカイが立ち上がり、服の埃を払いながら振り返る。巨木が一本横倒しになっており、完全に登山道を塞いでしまっていた。


「あーあ、何してくれちゃってんの」


 カイがぼやく。巨木のせいで向こう側の様子は分からないが、騒ぎが起こっているようなのでハンターは取り押さえられているだろう。いくらハンターに特権があると言っても、これはさすがにやりすぎだ。


 あまりのことにイリーネは度肝を抜かれ、地面にへたり込んで肩で呼吸していた。そんな彼女に手を差し伸べてくれたのは、いままさに山を下ってきていた若い男性だ。見たところ商人のようである。


「大丈夫か、君?」

「は、はい……」


 立ち上がる支えのために差し出してくれた商人の手を、イリーネはとる。とその瞬間、ぞくりと背筋に悪寒が奔った。

 何の悪寒か――『恐れ』だ。



 たとえばこの人の手に、何か傷があって。

 それに気づかずこの人に触れて、治癒術が発動してしまったら。


 ――この人は、ライルやカスパーのように、私を見るのだろうか?



 気付けばイリーネはぱっと商人の手を放していた。商人が驚いた顔をしているのを見てようやく我に返り、イリーネはなんとか愛想の笑みを浮かべた。


「大丈夫です。ごめんなさい、ありがとう」

「そ、そうかい?」


 そのやり取りを見ていたらしいカイが、すぐにイリーネの元に戻ってくる。それからそっとイリーネの手を握って尋ねる。


「平気?」

「……多分」


 おそらくカイも、何が起きたのかは分かっている。触れるだけで傷を治してしまう治癒術――それを恐れるがために、ヒトに触れることそのものすら無意識に拒絶してしまう。こんなことは昨日まではなかったのだ。

 いまイリーネがなんの迷いもなく手を伸ばせる相手は、きっとカイだけだ。混血の事実を知ってもそれをくだらないと一蹴してくれる、カイだけ。


 イリーネを立たせてから、カイはもう一度横倒しになった巨木に向きなおる。


「さて……さすがにこれなんとかしなきゃなあ。俺も悪いっちゃ悪いし」


 カイにも罪悪感というものはあるらしい。ひょいと軽々巨木に飛び乗り、向こう側にいる誰かと話をしている。昨夜宿泊した山小屋からたいして離れていないので、山の管理人が来たのだろう。あれだけの轟音ならば聞こえて当然だ。


「どうする? 俺がこの木、砕いちゃってもいいんだけど……え、木材にする? 移動させるの? 嘘でしょ……」


 カイは明らかに肩を落としている。カイならばこの木を芯まで凍結され、ナイフで楔でも打ち込めば一撃で粉砕することはできるだろう。だがどうやら管理人の考えではこの木を丸々木材にしたいらしく、人の手で動かすという結論に達したらしい。


「ごめんイリーネ、ちょっと待っててね」

「わ、私も手伝います!」

「だめだめ、女の子にそんなことさせられません。手に棘でも刺さったら大変」


 なんだか過保護になったような気がするカイに言われるがまま、イリーネは脇にどいた。居合わせた男たちが力を合わせて巨木を持ち上げ、端へと移動させる。ちょうどトライブ・【ベア()】の化身族が運よくいてくれたおかげで、作業は少人数だったが短時間で済ますことができた。

 それでも大幅に時間を失ったことに変わりはない。作業を終えたカイが息を吐きながらイリーネのもとへ戻ってくる。さすがに疲れたらしい、額にはじんわりと汗が浮かんでいる。


「はぁ、さて行きますか」

「休憩したほうがいいんじゃないですか……?」

「大丈夫だよ。時間食っちゃったし、さっさとしないとニムに着けないしね」


 カイは朗らかにそう言って、軽快に坂道を上っていく。あの無尽蔵の体力が羨ましいと、イリーネは心の底から思った。


 比較的道幅が広くなったところで、ふたりは肩を並べた。カイはイリーネの歩調に合わせ、ゆっくりと歩いてくれる。それを有難く思っていると、ふとカイが口を開いた。


「さっき、怖かった?」

「え?」

「知らない男の手」


 イリーネは少し黙し、しばらくしてから頷いた。


「もし勝手に魔術が発動したら、どうしようって思ったら……」

「君のせいじゃないんだから堂々としていればいい――と言っても、無理あるよね」

「……」

「俺が真っ先に君に教えたいと思うのは……その治癒術の扱いなんだ」


 カイは視線をわずかに上に向けた。視線の先には、まだ見上げるほど高い山々がそびえている。それらの頂上にまで行くわけではないが、圧倒感はある。


「イリーネの意思とは無関係に発動する治癒術を……君が使おうと思って使えるように、制御する。それが一番の課題かな、と」


 それができたら、どれだけ嬉しいだろう。



「……ふふ。私の両親のどちらかも、こんな風に治癒術の使い方を学んでいたんでしょうか。どの種族の化身族だったんでしょう?」


 イリーネがなんとなくそう呟くと、カイは「あー……」と微妙な呟きを漏らした。


「そういえば言っていなかったんだけどさ……」

「え?」

「混血児の特徴ってね、何も人間族と化身族のハーフじゃなくても現れるものなんだよ」

「それってどういう……」

「たとえばクォーター。もしくは何代か前の祖先。そういう場合でも、隔世遺伝として特徴は出たりする……んだけど」


 歯切れの悪いカイに、イリーネが問いかける。


「私がその、隔世遺伝なんですか?」

「多分……?」

「……なんで分かるんですか、カイ?」


 このタイミングでその話をするということは、つまりイリーネが『単なるハーフではない』ということであろう。カイはなぜ分かるのか。もしかして最初から知っていた――? カイには分かる、見分け方があるのだろうか。


「……」


 カイは黙っている。イリーネもまた、黙ってそれを待つ。


 やがてカイは、観念したように声を絞り出した。


「ハーフだったとしたら、もっと魔力量が多いはずなんだ。治癒術は高度な術だから、君の片親は相当な魔力を持っていたんだろう。それなのに、君から感じる魔力は微量。だからきっと、何代も経ているんだと思った」

「魔力って、感じることができるんですか?」

「うん、まあ、こればっかりは感覚だから口では説明しにくいんだけど……ね」


 なるほど。やはりカイはそういうことが分かるのか。


 そうして納得したイリーネの横で、カイがほっと小さく息を吐いていたことを、イリーネは知らない。

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