柴犬
嘉島セナという大黒柱を欠いた〝エンジェリッシュ〟は、今後どうなってしまうのだろうか。
〝エンジェリッシュ〟という肩書きを失った嘉島セナは、今後どうなっていくのだろうか。
不要な心配をしながらバス停に向かう。
その時、数百メートル先の角から、小さな犬が現れた。
柴犬らしいその姿は、リードを引きずりながら縦横無尽に走り回っている。
飼い主は手を離し、はぐれてしまったらしい。
大丈夫なのだろうかと思わず見入っていると、柴犬は車道に向かって走った。
マズい……。
飼い主が現れる気配がない。
車道に一目散の柴犬に向かって、懸命に走る。
だが、その距離は数百メートル。
間に合え……。
間に合え……。
止まれ……。
止まれ……。
柴犬は止まる事なく、車道に向かって走る。
駄目だ……。
周りに人がいないのを確認する。
やるしかない。
柴犬を見つめる。
体が、すとんと落ちた。
「うわ、びっくりしたぁ! な、何でぇ!」
丁度角から現れたらしい少年が、背中のランドセルに体を預ける様に、尻餅を着いた。
しまった……。
テレポーテーションを見られてしまった……。
いや、そんな事よりも今は……。
柴犬は僕を横切り、そのまま車道に向かって走る。
必死に追い掛け、転んだと同時に、手を伸ばしてリードを掴んだ。
間に合った……。
車が滞りなく現れる車道まで、僅か数メートルだった。
良かった……。
思わず、安堵の息が出る。
少年は、尻餅を着いて絶句したままだった。
マズいな……。
テレポーテーションの瞬間を見られてしまった。
「お兄ちゃん……、瞬間移動が出来るの……?」
少年は、目を見開いたまま、恐る恐る僕に訊いた。
「あ、ああ……」
もう認めるしかない。
「お兄ちゃんな、実は、宇宙人なんだ」
「ええ! そうなのっ!」
「そう。だから、今みたいな事が出来るんだ。でも、宇宙人って事は地球人にバレちゃいけないって決まりなんだ。だからこの事は、絶対誰にも言わないでくれるか?」
「うんっ! 誰にも言わないっ!」
「約束出来るか?」
「うんっ! 出来るっ!」
とりあえずは解決したが、恐るべきは彼の成長だ。
あんなに衝撃的な光景を忘れられる訳がない。
彼がピュアな心を持ったまま大人に成長してくれるのを願うばかりだ。
「ところで、何でお兄ちゃんは地球に来たの?」
食い付いてきた。
「お兄ちゃんはね、地球をパトロールしに来たんだ」
「へぇー! 地球の平和を守ってるの?」
「そうだよ」
「かっけー!」
〝お兄ちゃん〟を自称している上に、〝来週もまた観てくれよなっ!〟とでも言い出しそうな口調の自分が、急に恥ずかしくなってきた。
何が、宇宙人だよ。
何が、パトロールだよ。
「桃太郎! 桃太郎!」
遠くから大きな声が迫って来る。
「ああ! 桃太郎っ! 良かったぁ! そこにいたのっ!」
ひどく慌てた様子の太った中年の女が角から現れた。
柴犬はその姿に尻尾を振る。
「ありがとうございます、捕まえて頂いてぇ!」
女にリードを渡すと、「ありがとうございますっ! ホント、ありがとうございますっ!」と、改めてお礼を言われた。
「良かったぁ! 桃太郎っ!」
犬は桃太郎に連れられた故、〝桃太郎〟と名付けたのだろうか。
それなら尚更、妙だなと思う。
ふと少年に目をやると、唇をしまって必死に言葉を抑えた表情を浮かべていた。




