病室
頭が真っ白だ。
全く、理解が追い付かない。
信じられない。
だが、とにかく、急がなくては。
父が慌てた声で発した言葉を、何度も何度も反芻するが、微塵も理解が出来ない。
嘘だろ……。
冗談だろ……。
嘘であってくれ……。
間違いであってくれ……。
街灯が照らす道路を走りながらタクシーを探すが、見付からない。
ポケットからスマホを取り出す。
「汰駆郎っ!」
その声に振り向くと、渡仲が店の出入り口付近にいた。
「あれ使えよっ! 母ちゃん大変なんだろっ!」
でも、あれは……。いや、仕方ない。
父が言った病院の名前をスマホで検索し、表示された画像を、凝視する。
息を吐き、集中する。
頼む……。
頼む……。
早く……。
早くしてくれ……。
「どれどれ」
数十メートル離れた場所にいた筈の渡仲はいつの間にか真横にいた。
「この病院なんだな? 俺の肩に掴まってろ」
渡仲の肩に手を置くと、すぐに視界が変わった。
二人の体が、すとんと落ちる。
目の前には、病院がある。
「行って来いっ!」
そう言われ、「ありがとうございました」と、頭を下げる。
「グットラック」
渡仲は親指を立てて消えていった。
病院に向かって走る。
頭が真っ白だ……。
全く信じられない。
ナースステーションで看護師から訊いた番号の部屋へと急ぐ。
真っ白な頭の中に、父の言葉が並ぶ。
「母さんっ!」
ドアを開くと、そこにいた父が振り向いた。
「あらぁ、汰駆郎。お父さん呼んだの?」
ベッドの上で病院のパジャマを纏った母が僕の顔を覗く。
「大丈夫だったのにぃ。癌って言ってもねぇ、大した事なくて、取り除くだけで
いいみたい」
いつもと変わらない顔色と口調だった。
それから、医師の説明を受ける。
母の乳癌は早期発見で、まだ初期段階だった故、手術で摘出すればすぐに退院出来るらしい。
早期発見で良かった。
初期段階で良かった。
医師の言葉が、改めて僕の脳内を安堵に塗り替えていった。
「ごめんねぇ、心配させちゃって」
母がそう言った時、かなり憔悴した様子の父は尻餅を着き、頭を両手で押さえた。
「癌、かぁ……」
「だから、初期段階だから大丈夫なんだってば、お父さん」
当の本人が慰める。
突然突き付けられた、〝癌〟という単語の魔力が発する、非現実的な恐怖に苛まれているらしい。
「全く心配性なんだから、お父さんは」
母や僕が少し高熱を出した時や、自分がぎっくり腰になった時など、父は救急車を呼ぶハードルがかなり低かったのを思い出す。
そんな父の性格なら〝癌〟と聞いてそうなるのも納得だ。
「仕事帰りだったの?」
「うん」
「上手くいってるの?」
「うん」
「ごめんね、びっくりさせて。がりがりになってると思ったでしょ?」
「いや、そんなすぐ痩せないでしょ」
それから、病室を後にした。




