第68話 謎を秘めた力(2)
籠城戦が長引くにつれて、聖地エスティムでは日ごとに緊迫感が増しつつあった。市内に突入してきた敵兵を迎え撃つための櫓や塔が街のあちこちに建てられ、川を渡るための橋が取り壊され、柵や土塁や空堀が巡らされて市街戦の準備が急がれている。ラシードも配下の兵や賦役に駆り出された民たちを指揮し、川岸に防戦用の陣地を構築する工事を進めていた。
「向こうには大勢の民が暮らす住宅街がある。この防衛線を突破されれば彼らはアレクジェリア軍の奴らに容赦なく虐殺され、街は血の海と化すだろう。敵が絶対に乗り越えられないように、心して鉄壁の防御陣地を築くんだ」
声を張り上げて皆を鼓舞しながら、ラシードは忙しなく工事現場を歩き回って精力的に普請を監督する。炎天下での肉体労働は暑さで倒れてしまう者も多いのが常だが、ラシードは人遣いの荒いアラジニアの将軍たちの中では珍しくその点への配慮も欠かしてはいなかった。
「水をしっかり飲みながら作業しろ。暑くてのぼせそうになったら、すぐに日陰に入って休むように」
大声でそう指示を飛ばした刹那、不意にラシードは目眩を覚えてふらついてしまう。天地が引っ繰り返るような感覚と共に、地面の土に膝を突いた彼は持っていた指揮棒で何とか体を支えた。
「大丈夫ですか? ラシード様」
背中から声をかけてきたのはダーリヤだった。どこから持って来たのか、冷たい水が入った小さな器を彼女はラシードに差し出す。
「さっきのお話の時も、何だか顔色が良くなさそうでしたから……お疲れでしたら無理は禁物ですよ」
「ああ。すまんダーリヤ。別に無理はしてないつもりだが、こう暑いとな」
他人に口酸っぱく注意していた熱中症に自分がなってしまった、と水を飲みながら苦笑するラシードだが、本当はそうではないのは自分でも分かっていた。昨夜のアピスゼノクとの戦いで力を解放された直後から、謎の変調が彼の体を蝕んでいるのだ。
「ゼノクになって戦うのは、人間にとっては肉体への負担が大きいと言われてます。昨日も夜遅くに戦ったばかりで、やっぱり疲れが溜まってるんじゃないですか?」
「どうかな……。だが、変身が体への負担が大きいなんて誰から聞いたんだ?」
言われている、とさも周知の事実のように言うダーリヤだが、そんな話はラシードは今まで誰からも聞いたことがない。そもそもゼノクの存在自体ごく一部の者しか知らないのだから、変身についても一般的にそうした認識があるかのような言い方はおかしいだろう。ラシードにそう指摘されると、ダーリヤは慌てて首を横に振りながら答えた。
「あ、いえ……! その、ターリブ卿がそう仰せだったので。それで心配になってラシード様のご様子を見に来たんです」
「そうなのか。あの爺さん、俺にはそんな忠告は一言もしてくれなかったぞ。危険なら直接教えてくれればいいのに、気がいいようでどうも意地悪なところがあるよな」
「そうですね。はは……」
誤魔化すように笑うダーリヤだったが、その妙な態度を気にする余裕もないほどラシードは憔悴している。のしかかる疲労感を押しのけるように気合を入れて立ち上がったラシードを、ダーリヤは心配して両手で支えた。
「大丈夫だ。こうしている間にも、アレクジェリア軍の奴らがこの街に攻めて来るかも知れないからな。ちょっと具合が悪いからって休んでいられるか」
「ラシード様……」
自嘲気味に笑顔を見せたラシードが普請の指揮に戻ろうとしたその時、突如として遠くで大きな爆発音が響いた。川岸に築かれていた建設中の櫓が燃え上がり、爆裂して崩れ出す。
「ば、化け物だぁっ!」
工事現場に出現したのは、シマウマのような白と黒の縞模様の魔人・ゼブラゼノクであった。敵兵の突撃を防ぐために作られていた木製の柵を蹄のような手で叩き壊し、両目から破壊光線を発射して暴れるゼブラゼノクは作業をしていた人夫たちに襲いかかる。
「またゼノクか……よし。俺が倒す」
「ラシード様……」
ゼブラゼノクに向かって猛然と駆け出してゆくラシードの後ろ姿を、ダーリヤは手に汗を握りつつ真剣な眼差しで見送ったのであった。
「あーあ、ひどい目に遭ったわ。レオ様……」
昨夜のアピスゼノクとの戦闘中にレオゼノクの凄まじい破壊力の発動に巻き込まれ、爆炎に呑まれて倒れたメリッサが意識を取り戻したのは陽がすっかり昇ってからのことだった。繁華街の外れの路地裏に身を潜めつつ、疲れ果てたように壁にもたれて彼女は溜息をつく。
「やっぱりレオ様は普通のゼノクじゃない……と言うより、レオ様自身が普通の人じゃないのかも」
以前に戦ったバジリスクゼノクは、ラシードの過去を敢えて本人に明かさないのが神の慈悲だと言っていた。思わず現実から目を背けたくなるような何か重く凄惨な秘密がラシード――すなわちレオナルドにはあるのだろうか。メリッサが父のマッシモから聞かされていた、国王ジャンマリオ三世の私生児であるということ以上の何かが彼の身の上にあるとすれば、あの異常なまでの強さもそれで説明がつくのかも知れない。
「レオ様が戦ってる……!」
燃え上がる二つの高い魔力をゼノクの第六感で感知して、メリッサは息を呑む。片方はレオゼノクのもので、場所はここからそう遠くない。勇気を出してもう一度ラシードに接触してみるべきか否か、逡巡の末に彼女が足を踏み出そうとしたその時、不意に背後から呼び止める声がした。
「待ちやがれ。敵の斥候さん」
「あなたは……!」
反射的に振り向いたメリッサの前に立っていたのは、昨日ハル・マリアで昼食の代金の支払いについて口論になったサディクだった。鋭利さを感じさせるよく整った彼の顔立ちはなかなかの美顔ながら、その上に貼りついた冷たく嗜虐的な笑みにメリッサは生理的な嫌悪感を覚える。
「あの時は偉そうなお説教をどうも。ただの巡礼者だなんて嘘つきやがって、アレクジェリア軍の密偵だと見抜けなかった俺様もうっかりしてたぜ」
「パンの値段がちょっと高いとか、つまらないことで怒って興奮してるからそうなるのよ。ハッタリで上手く押し通せたと思ってたけど、バレちゃったら仕方ないわね」
悪びれもせず、メリッサは勝気な笑みを返してサディクを挑発する。からかうようにふざけた態度だったサディクの表情が急に凄みを増し、彼は残酷な人柄がにじみ出た低く恐ろしげな声で言った。
「昨夜はラシードの奴と密会してたようだが、色仕掛けで裏切りの誘いでも持ちかけたのか? 事の次第によっては俺があいつをブチ殺さなきゃならねえ話になるが」
「そうなったら嬉しいんでしょ? いじめっ子さん。私の大切なレオ様にひどいことしたのは、まだ子供だったとはいえ許さないわよ」
「レオ様……? 何だその呼び方。もしかして記憶を失う前のあいつの本名か?」
「あなたには知る権利のないことだわ。あの人の過去は、誰彼構わず教えたりなんてしない」
煮え立つ怒りに呼応して両者の魔力が高まり、薄暗い路地の中で互いに光を放ちながらぶつかり合う。やがて二人が同時に呪文を唱えると、その光は彼女たちの体に吸いつくように収束して実体化し、分厚いゼノクの全身装甲を形成した。
「――変身!」
真紅の豹の魔人・レオパルドスゼノクと化したメリッサと、漆黒の狼の魔人・ルプスゼノクに変身したサディク。人外の力を纏った両者の拳が激突し、路地裏の薄闇に眩しい火花が飛び散った。




