第59話 天界の争乱(3)
「少しは腕を上げたようだが、まだまだ甘いな。アスタロト」
「舐めるんじゃないよ!」
倉庫の外で、アメミットゼノクとセイレーンゼノクの戦闘は続いていた。魚の鰭のようなセイレーンゼノクの手刀をかわし、アメミットゼノクは鰐に似た口を大きく開いて火炎を吐き出すが、セイレーンゼノクは両手を合わせて勢いよく水流を噴射し飛んで来た火炎に浴びせかける。炎が鎮火し水が蒸発して、正面衝突した両者の攻撃魔法は水蒸気を濛々と飛び散らせながら対消滅した。
「しかし、それにしてもアドラメレクの奴は正気か? このままではレオゼノクもろとも、あのザフィエル教徒の小娘まで一緒に焼け死んでしまうぞ」
不意に動きを止め、アメミットゼノクは炎上する倉庫の方に目をやるとセイレーンゼノクに問いかけた。
「あいつは正常じゃないよ。恨みを募らせ過ぎておかしくなっちゃってる。三百年前にあのダーウードとかいう人間に負けちゃってから、ずっとあんな感じね」
アスタロトと同じザフィエルの配下であるアドラメレクはジュシエル教徒のアラジニア人の中でも、特に恨みのある勇者ダーウードの子孫を集中的に狙って次々と抹殺している。それはいいのだが、ザフィエル教徒のヨナシュ人であるミリアムまで巻き添えにして一緒に死なせてしまうのは問題である。アメミットゼノクの指摘に、セイレーンゼノクは味方の暴走に迷惑している本音を隠そうともせず答えた。
「目の前の敵を殺るのに夢中で、そこまで構ってられない状態なんでしょ。気持ちは分からなくもないけど、いくら成り行きとはいえザフィエル様の可愛い信徒を私的な復讐に巻き込んで死なせるのはやっぱりまずいわね」
そう言うとセイレーンゼノクは顎に手を当てて考え込み、やがて踏ん切りをつけたように再び口を開いた。
「やっぱり休戦しましょ。バラキエル。ただし、ほんの数分間だけね」
「いいだろう」
アメミット型の全身装甲を光の粒に分解し、バラキエルは自分が先に竜人の姿に戻って攻撃の意思がないことを示す。セイレーンを模した鎧を同じように消滅させて変身を解いたアスタロトは、遠く離れた場所へ思念波を飛ばして指令を送った。
「さあ行きなさい。あなたのお友達のサウロ坊やを助けてあげるのよ。可愛い女王蜂ちゃん」
(熱い……苦しい……お兄ちゃん、助けて……!)
炎が勢いを増し、煙が倉庫内に充満する。縄で柱に縛りつけられたミリアムは口に嵌められた猿轡のために声を出すこともできず、自分を取り巻く炎と煙に苦しみながら必死にもがいた。
「ミリアム……くっ」
「ミリアムちゃん……!」
レオゼノクとレオパルドスゼノクは傷ついた体を引きずりながら何とかミリアムの救助に向かおうとするが、その前にサラマンドラゼノクが立ちはだかって妨害する。
「魔王ロギエルの仔……そして憎きダーウードの末裔レオナルド……死ぬがいい!」
「レオ様が……? どうして」
サラマンドラゼノクの言葉にレオパルドスゼノクは当惑した。リオルディアの国王ジャンマリオ三世の落胤であるはずのレオナルド=ラシードが、三百年前のアラジニアの英雄の末裔でもあるというのはどういうことだろうか? リオルディアの王家が遠国の異教徒であるアラジニア人の妃を迎えたなどという話は聞いたことがなく、どう考えても辻褄が合わない。
「ミリアムちゃん! もう、どうしたらいいの!?」
「危ないハミーダ! 早く下がって」
焦って叫ぶハミーダの手をダーリヤが引き、迫り来る炎から離れさせる。炎はどんどん燃え広がり、もはや倉庫内は足の踏み場さえなくなろうとしていた。頑丈な外骨格の鎧に全身を覆われたゼノクならばともかく、生身の人間がこれ以上ここに留まっていれば確実に死んでしまう。
「お前たち、早く外へ逃げろ!」
「でも……隊長!」
部下たちに退避を呼びかけるレオゼノクだったが、何もできないままミリアムを見捨てて逃げるのを三人は躊躇った。立ち込める煙を吸ったミリアムは苦しそうに咳き込み、呼吸困難に陥って喘いでいる。
「何てことだ。神様はあの子を見捨てるのか?」
焦りを募らせて天を呪うカリームの横で、ダーリヤも奥歯を噛み締めながら判断を迷ったように視線を忙しなくあちこちに走らせている。もはや万事休すかと思われたその時、煉瓦造りの倉庫の壁が突如として轟音と共に砕け、大きな穴が開いた。
「何っ……?」
「あれは……!」
倉庫内を満たしていた煙が吸い込まれるように外へと吹き流れ、ミリアムを酸欠と一酸化炭素中毒の危機から解放する。やがて壁に開けられた巨大な穴の向こうから、規則的な足音を響かせて一人の魔人がこちらへ向かって近づいて来るのが見えた。
「あの時の……」
「蜂のゼノク……!」
青色の装甲を纏った女王蜂のような魔人の姿を目にして、レオゼノクとレオパルドスゼノクが戦慄する。アピスゼノクが掌から放った攻撃魔法の光弾で倉庫の壁を破壊し、燃え盛る炎の中を悠然と歩きながら倉庫内に入って来たのだ。
「アスタロトのお気に入りの使徒か。何をしに来た?」
邪魔をするなと言いたげな声で、サラマンドラゼノクはアピスゼノクに問いかける。その口調から、両者がどうやら仲間であるらしいことはすぐに窺えた。だが次の瞬間、無言のままサラマンドラゼノクの目の前まで歩を進めたアピスゼノクは訝る彼に殺気を向け、左手から伸びた鋭い針を彼の胸にぐさりと突き刺したのである。
「グガッ……!」
「恨みに溺れて、我ら天使の本来の使命を見失ったか。神ザフィエルに仕える忠実な僕までも、己の復讐の巻き添えにしようとは」
怯えた目でこちらを見ているミリアムを一瞥しながら、アピスゼノクは感情の存在を感じさせない中性的な声で冷たく言った。心臓を貫かれたサラマンドラゼノクは膝を折って崩れ、そのまま踵を返して去ってゆくアピスゼノクの背後で魔力を暴発させて爆死する。
「ミリアム!」
「お兄ちゃん!」
炎を突破してミリアムの元へ駆け寄ったレオゼノクが縄を怪力で引き千切り、口に嵌められていた猿轡を外すとすぐに抱きかかえて倉庫の外へ運び出す。続いてレオパルドスゼノクやカリームたちも倉庫から脱出し、離れた場所でミリアムを地面に下ろしたレオゼノクの元に集まった。
「あいつ、もしかして味方か……?」
こちらには目もくれず羽ばたいて空の彼方へ去ってゆくアピスゼノクの後ろ姿を見送って、変身を解いたラシードが言う。レオパルドスゼノクも全身の装甲を消し去ってメリッサの素顔に戻り、警戒を促すように険しい表情で首を傾けた。
「どうかしらね。お陰でミリアムちゃんが助かったのは確かだけど、あの不気味さ、一体何を考えてるのかは分からないわよ」
サラマンドラゼノクと元々は仲間だったらしいと分かる先ほどの挙動を見ても油断はできない。恐るべき強さを持った謎のゼノクの出現に、ラシードとメリッサは不吉な予感を覚えて戦慄するのであった。




