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第51話 勇者への復讐(3)

「うぅっ……」


 暗い路地裏に、苦しげな少女の弱々しい声が響く。薄汚れた建物の壁に片手を突いて(すが)りつくようにもたれながら、スザンナは目を瞑って体中を走る痛みを必死に堪えた。


「私……どうして……」


 見覚えのない貧民街の裏小路をふらふらと彷徨い歩きながら、スザンナはどうして自分がここにいるのかを思い出そうと記憶を懸命に辿る。こんな見知らぬ場所にどうやって来たのか全く分からないし、つい先ほどまで自分が何をしていたのかも一切覚えていない。ただ重くのしかかる疲労と倦怠感が、彼女の華奢な体をひどく消耗させてまるで喘息のような激しい息切れを起こさせていた。


「その病弱な体ではやはり負荷がきつかったかな。どんなに屈強な人間でも、ゼノクの力に慣れない内はとても疲弊するものだからね」


 力尽きて路上にうつ伏せに倒れ込んだスザンナの姿を冷ややかに見下ろしつつ、近づいてきたスコルピウスゼノクは長い尻尾をくねらせてその先端についた鋭い毒針を彼女に向ける。だがこれで刺し殺すことは許されない。ほんの冗談さ、と自嘲気味に微笑しながら、紫色のサソリ型の全身装甲を光に変えて消失させたスコルピウスゼノクはマナセの素顔を見せた。


「これが神ザフィエルに選ばれた聖女の使命……ようやく理解できたよ。深遠なる神の御心が」


 ずっと忌々しく思っていた生意気な聖女の顔が、急に美しくて愛おしいものに見えてくる。意識を失って倒れているスザンナの細く色白な体を値踏みするように眺めながら、マナセは愉しげに口元を歪めた。




「ふざけんなよ、おい!」


 エスティム西地区・十七番街の料理店ハル・マリア。敵軍の包囲下で物資が不足し仕入れが困難な中、今日も何とか必要な食材を揃えて朝早くから店を開いている。だが、かき入れ時となる昼食の時刻、この店ならではの小洒落て落ち着いた雰囲気は吹き飛び、数人の客が食事をしている店内には若い男性の物々しい怒号が響いていた。


「蜂蜜のパンが三十ジールって、どういうことだよ。高すぎるだろうが!」


 細身で背の高い軍服姿の青年が、端整な美顔を怒りに歪めながら大声で苦情を叫んでいる。街の見回りの途中に立ち寄って昼食を済ませたサディクが、料理の値段に納得が行かないと激昂しているのだ。会計を担当していたミリアムも、騒ぎを聞いて厨房から出てきたシメオンも、曲刀を腰に提げながら高圧的に凄んでくるこの若いマムルークの将軍の迫力にすっかり怯んで蒼ざめてしまっていた。


「申し訳ございません。街が敵に攻囲されているこの戦時下、外の農村などからの仕入れができず、食材の価格が急騰してしまいまして……」


 ひたすら平謝りして価格改定への理解と容赦を乞うシメオンだったが、サディクは冷酷な薄ら笑いを浮かべたまま横柄な態度を崩そうとしない。その様子はパンの値段が高すぎるという問題自体をどうにかしようというよりは、自分より目下で年下の店員たちを困らせていじめることの方に主眼を置いているようにも見えた。


「お前らの事情なんて知ったことじゃねえよ。第一、俺を誰だと思ってるんだ? マムルークのサディク・ウスマーン将軍だぞ。お前たちを命懸けで敵から守ってやってるマムルーク様に感謝もせず、こんな高値を吹っ掛けてくるとはヨナシュ人風情がいい度胸だな」


「申し訳ありません……何と言いますか……その……」


 例え差別的な罵声を浴びせられても、自分たちを支配している身分でもある客に対して怒って反論したりするわけには行かない。シメオンとミリアムが屈辱をぐっと堪えて頭を垂れていたその時、サディクの背後で入口の扉が勢いよく開き、鮮やかな赤いアバヤを着た一人の女性が入ってきて後ろから割り込むように声を上げた。


「ちょっと、いい加減にしなさいよ! あなたの喚く声が店の外まで聞こえてたわ。せっかく静かで素敵な雰囲気を味わいに来たのに、こんな不愉快な騒ぎを起こされちゃ台無しじゃない!」


「あっ……!」


 マムルークを相手にしても臆することなく、高飛車なくらいに強い口調で文句を言ってきたその女性の顔を見てミリアムが驚く。赤いスカーフを頭に被った、凛とした強い輝きを帯びた碧い瞳を持つ白肌の美しい異国人。店に入ってきたのはメリッサだったのだ。


「何だお前。アレクジェリア人か? ひょっとして敵軍の間者とかじゃないだろうな」


「間者だったら、こんなに堂々と敵のマムルークの前に現れるかしら? ただの巡礼者よ」


 あまりに平然と言ってのけるので、メリッサの言葉にはサディクの疑念も消し飛ぶほどの説得力が生まれてしまう。両手を腰に当てて胸を張り、威圧するような態度を見せながら彼女は更に言った。


「第一、天下のマムルークともあろう者がたった三十ジールも払えないの? それに、あなたたちアラジニア軍がいつまでも敵を追い払えずにいるからこうして籠城戦が長引いてるわけで、物資が不足して料理の値段が上がってるのは店側じゃなくてそっちの責任でしょうが!」


「何だと、てめえ……」


 この街を包囲している神聖ロギエル軍の一員であるメリッサがアラジニア軍の部将のサディクにそれを言うのは見事なまでの責任転嫁でしかないのだが、彼女の正体を知らないサディクにとっては図星で返す言葉が見つからない。悔しげに歯ぎしりしていたサディクは、やがて顔を背けて言った。


「ふん、分かったよ。三十ジールぐらいお望み通りに払ってやるさ。もう二度とこの店には来ないぜ。そもそもヨナシュ料理なんて、まずくて食えたもんじゃねえしな」


 会計の台の上に叩きつけるようにして三枚の十ジール銅貨を置くと、サディクは足早に店を出て行った。


「二度と来なくて結構よね」


 勝ち誇るように弾んだ声でメリッサが言う。玄関の扉が乱暴に閉められる音が店内に響くと、シメオンとミリアムは同時にほっと肩を撫で下ろした。


「助けて下さってありがとうございました。この前の旅のお姉さん。えっと……」


「エレナよ。そう呼んでくれると嬉しいわ」


 はにかみながら咄嗟に偽名を名乗ったメリッサに、ミリアムも笑顔を見せて改めて自己紹介した。


「私はミリアム。兄の名前はシメオンです。また来て下さったんですね。エレナさん」


「今更だけど、あの時の支払いをしてなかったのに気づいてね。途中であんな大変なことになっちゃったから、つい忘れてたわ」


 食事の最中にスースゼノクが出現して戦闘となったため、どさくさ紛れに会計を済ませずに立ち去る形になってしまった先日のことを詫びながら、メリッサは胸元から取り出した銅貨をミリアムに手渡した。


「ありがとうございます。でも私たちの命を助けてくれたお礼に、ステーキ一枚のお代なんておまけしても全然いいって思ってたのに」


「そんな訳には行かないわ。でも二人とも、あの時は怖かったでしょ? あんな怪物に捕まってるのに、自分たちには構わず戦ってなんて訓練を積んだ騎士でもなかなか言えないことよ」


 アラーネアゼノクの糸で縛られて人質にされた際に二人が見せた勇気と自己犠牲の精神に、メリッサは素直に敬意を表した。


「ねえエレナさん、今日は何にしますか? 羊のお肉はもう切らしちゃったけど、牛肉なら仕入れたばかりの凄く柔らかくて美味しいのがあるんですよ」


 嬉しそうにはしゃいだ声でミリアムは客席にメリッサを招こうとするが、メリッサは少し申し訳なさそうに手を振って誘いを固辞した。


「ううん、悪いけどお食事は今日は遠慮しておくわ。それより、ミリアムちゃんにちょっと訊きたいことがあるんだけど」


「えっ、私に……?」


 きょとんとした顔で、ミリアムは自分の顔を指差した。

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