第38話 餓狼の戦士(1)
暗い地下室に、松明の火が揺れている。会堂の地下に築かれた、床に巨大な魔方陣が描かれたその秘密の礼拝堂で、ザフィエル教の名だたるラビたちが巨大な竜神像を囲みながら祈祷を唱えていた。
「我が民族の守護神ザフィエル様のお告げは下った」
修業を積んだラビの中でも最高齢にして最高位に座すヒゼキヤ・ベン・アハブのしわがれた声が、祈祷が終わって静まり返った地下室に響く。弟子のラビたちが息を呑んで聴き入る中、ザフィエル教ヒゼキヤ派の長老である彼は言った。
「近頃、この聖地でヨナシュ人ばかりが感染している奇病は、やはり邪神ジュシエルの配下の堕天使が起こしているものだと神は仰せじゃ。天使ウェパル様は以前からこの街のジュシエル教徒どもに天罰を下しておられたが、その報復だと奴らは申しておるらしい」
ウェパルが変身したバジリスクゼノクはジュシエル教を信じるアラジニア人の毒殺を繰り返していたが、アッハーズが魔人化したガルーダゼノクがザフィエル教徒のヨナシュ人を皮膚病で苦しめているのはそれに対する反撃であろうと考えられる。ヒゼキヤが神託に基づくそのような見解を述べると、彼の弟子のラビたちからはどよめきが起こった。
「神の裁きに対して報復などと申すとは、不届き至極な!」
「そもそも元を正せば、アラジニア人どもが先に我らを迫害していたのだ。ウェパル様はそれにお怒りになって罰を与えておられたに過ぎぬ」
「返報じゃ! かくなる上は我らも更なる反攻を加え、数倍の痛みをジュシエルの僕らに与えるべし」
「……静まれ」
決して大きくはないヒゼキヤの声は、それだけで一同をすぐに沈黙させる力があった。部屋に静粛が戻ると、彼は自分の隣に控えている息子のマナセの方へ視線を向け詳しい説明を促す。年老いた父と目を合わせて小さくうなずいてから、マナセは透き通るような美声で一同に告げた。
「目には目を、歯には歯をとザフィエル教の聖典にもある。我々としてもこの事態を黙って看過するわけには行かない。至高の神の教えに従い、身の程知らずな悪神とその信奉者たちには速やかに相応の報いを受けさせる必要がある」
声の爽やかさとは裏腹に不穏極まる科白をマナセが言うと、ラビたちは揃って喚声を上げた。暗い地下室に憎しみと殺意が渦巻き、閉塞した室内は異様な熱気に包まれる。
「畏れながら、報復には我が弟子アモスをお遣わし願いたく」
ヒゼキヤの側近であるラビの一人、ツァドク・ベン・ゼブルンが立ち上がり、そう言って自分の弟子を推した。マナセはうなずき、それから父親に承認を求めて目配せする。
「良かろう。あの者が得意とする魔法は、大勢の異教徒をまとめて地獄へ送るには最適じゃ」
ヒゼキヤは満足げに答え、恐るべき大量殺戮作戦の適任者の顔を脳裏に思い浮かべて哂った。マナセは列座のラビたちに視線を戻し、自分より遥かに年上の教団幹部である彼らに対して教え諭すかのような口調で言う。
「もう一つの懸案は、あの魔王ロギエルの仔レオゼノク……。その正体はマムルークの獅子将軍ラシード・アブドゥル・バキであると、殉教の死を遂げたピネハスから報告があったのは皆も知っての通りだ」
そのラシードとマナセは実際に接触して会話を交わしたばかりである。レオゼノクの戦闘力の程はまだ不明だが、ラシード自体の人物像としてはいくらか武勇に秀でたごく普通の青年武将という印象しかなく、それほど手を焼かされる相手になるとはマナセには思えない。
「もしレオゼノクが作戦の邪魔をしに現れたなら好都合。むしろ奴を誘き出すために、破壊は派手にやって構わないとアモスに伝えろ」
「畏まりました。マナセお坊ちゃま」
神の祝福と加護を願って、ラビたちはまた一斉に祈りを捧げる。凶暴さを湛えた恐ろしげな姿の竜人像は松明の火に照らされながら、ただ静かに彼らを見下ろしていた。
翌・六月二十一日。エスティム北地区の十五番街で、アラジニア人の平民たちが住んでいた三階建ての集合住宅が倒壊するという事件が起こった。
「悲惨ですね……。現時点で子供も含めて八人の死亡を確認、瓦礫の下にはまだ多くの人がいると思われます」
事件を聞いて城から駆けつけたラシードに、一足先に現場へ急行していたカリームが報告する。煉瓦造りの大きな建物は無惨に全壊し、瓦礫の山に生き埋めになった住民たちの救助が兵士らによって行われている。担架に乗せられて搬送されてゆく重傷者の痛ましい姿を見送りつつ、ラシードは胸の苦しさを吐き出すように嘆息した。
「地震があったわけでもないのに、こんな崩れ方をするとはどういうことなんだ。よほど老朽化していたのか、それとも建築のやり方に何か問題があったのか」
「手抜き工事などの可能性はまだ否定できませんが……この集合住宅は完成してまだ五年とのことですから、古さが原因ということはちょっと考えられませんね」
場合によっては、五年前に建設に携わった大工や職人ギルドなども取り調べて責任を問う必要があるかも知れない。ラシードが腕組みをして考え込んでいたその時、離れた場所で建物の残骸を検分していたダーリヤが彼を呼んだ。
「ラシード様! これ……見て下さい」
「何だ? どうしたんだダーリヤ」
ダーリヤが指差して示したのは、建物の外壁の一部だったと見られる煉瓦の破片だった。何か緑色の液体がべっとりと塗りつけられており、溶けて白い煙を湯気のように噴き上げている。
「これは……」
この溶解液が壁に吹きかけられ、煉瓦を溶かして穴を開け建物全体を倒壊させたのだ。集合住宅は自然に崩れたのではなく人為的に破壊されたのだと確信したラシードだが、問題は犯行に使われたこの液体が一体何なのかということである。
「ううっ……痛い! 誰か助けてくれぇっ!」
その時、ヨナシュ人の民族衣装のターバンを着た一人の男が大声で叫んでいるのが遠くから聞こえたので皆は振り返った。片手を押さえながら悲鳴を上げてこちらへ入って来ようとするのを見張りの兵士たちに止められている。すぐにハミーダが駆け寄り、よろめく体を支えるように彼の肩を掴んで事故現場に侵入するのを制止した。
「しっかりして。どうしましたか?」
「手が……急に手が……!」
右手の皮膚が黒くただれて激痛を引き起こしている。見たこともない毒々しい奇病の症状に、遅れて近づいてきたラシードも息を呑んだ。
「何が起きてるんだ。一体……」
名状し難い何か不吉な予感がする。昨日のマナセの謎めく言葉を思い出しながら、ラシードは奥歯をぐっと噛み締めて低く唸った。




