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第30話 明かされざるべき真理(2)

「ううっ……」


 遠くから響いてくる船の汽笛が、眠っていた意識を呼び起こす。薄暗い倉庫の片隅で、ラシードは目を覚ました。


「お目覚めになりましたか? レオ様」


「お前は……」


 ゼノクとなって戦ったことで魔力と体力を消耗していたこともあり、気絶させられたまま翌朝まで眠り込んでしまっていたらしい。青いサファイアのような瞳をすぐ傍まで近づけてこちらを覗き込んでくるメリッサの顔を見て、意識を失う直前のことを思い出したラシードは飛び跳ねるように立ち上がって身構えた。


「お目覚めになりましたか、じゃないだろう。味方と見せかけていきなり襲いかかってくるとはな。俺としたことが完全に油断したぜ。リオルディアの女伯爵め。俺を捕らえて、一体どうするつもりだ」


「手荒なことをしたご無礼は、謹んでお詫び申し上げます」


 そう言って姿勢を正し、神妙に頭を下げてくるメリッサの態度にラシードは困惑し、急に毒気を抜かれて彼女の顔をじっと見つめた。敵の斥候に不覚を取って捕虜にされてしまったかと焦ったラシードだったが、縄で手足を縛られたりもしておらず、むしろメリッサは彼を脅迫するどころか目上の者に対するように丁重に接している。


「こうして二人きりになるの、何年ぶりでしょうね」


 感慨深げにそう言いながらゆっくりと歩き出したメリッサの後について、ラシードは倉庫の外へ出た。貨物用の倉庫の前には運河が流れていて、積み荷を乗せた船が水上を行き交っている。


「お懐かしゅうございます。レオ様。ご無事だったんですね」


 波止場の端に立ちながら、振り返ったメリッサはラシードの手を取って嬉しそうに笑ったが、ラシードには彼女が言っていることの意味が全く分からない。


「人違いじゃないのか」


 メリッサの手を冷たく振り払って、ラシードは言った。


「前にも戦場で名乗ったはずだが、俺はマムルークのラシード・アブドゥル・バキだ。レオなんていう名前じゃない。それに、お前のことも覚えていない」


「そんな……!」


 向こう岸で積み荷を降ろしている船の方へ視線を逸らしてラシードが言うと、メリッサは悲しげな目をして、何度も確かめるように彼の横顔と首に掛けている金色の宝石の首飾りを交互に見直した。


「本当に覚えておられないのですか? 前に戦場でも申し上げましたが、私はメリッサ・ディ・リーヴィオ。子供の頃はメリーとお呼びいただいていました。昔、あなたにその首飾りを贈った婚約者ですよ」


「婚約者だと!?」


 突然とんでもないことを言われて、ラシードはつい素っ頓狂な声を上げてメリッサの顔を見る。


「お前のことなんか知らん。誰かと婚約をした覚えもない。やはり人違いだろう」


 取りつく島もなくそう言ってくるラシードが、嘘をついて惚けているようにはメリッサには見えなかった。困惑と失望が入り混じった顔で、メリッサは暗くうつむいて首を振る。それを見て、ラシードは気まずそうに言葉を継ぎ足した。


「いや、悪く思わないでくれ。お前とは昔、確かに会っていたのかも知れない。だが……」


「……だが?」


 こうなってはやむを得ない。不思議そうに首を傾げるメリッサに、ラシードは自分の特別な事情を明かす決心をした。


「俺には、昔の記憶がないんだ」


「えっ……?」


 ラシードの言葉に、メリッサは衝撃を受けた様子で表情を強張らせ、それから目を凝らして彼の顔をじっと見つめた。


「記憶がないって、どういうことです?」


 この吸い込まれるように美しく、どこか神秘的な輝きを帯びた紫色の瞳は間違いなくあのレオナルドのものだ。ラシードと至近距離で目を合わせてそれを強く確信したメリッサは、彼を急き立てるようにしてもっと詳しい説明を求めた。


「十年前、まだ子供の頃に、どうやら何かの事故で海に流されてしまったみたいでな。気がついたらこの国の浜辺で一人で倒れていた。その時に記憶を失くしたらしくて、どうして遭難したのか、その前はどこにいたのか、親は誰なのか、全く何も覚えていないんだ」


「十年前……そっか。レオ様が行方知れずになったのと同じ年ですね」


 あの時、オルトロスゼノクに襲われてメリッサと共に崖から海に転落したレオナルドはその衝撃で記憶を失ってしまったが、奇跡的に命までは落とさず生きてこのアラジニアへ漂流していた。時期の符合を考えても、話はそのように繋ぎ合わせて無理や矛盾はないだろう。メリッサはしばらく無言のまま頭の中で考えを巡らし、突きつけられた現実を何とか呑み込んで消化しようと努めていたが、やがて顔を上げると明るく微笑してうなずいた。


「そういうことか……。それでこの国で育ってマムルークに?」


「ああ。初めはあの料理屋の店長だったヨナシュ人のトマスって人に育ててもらったんだが、その後で奴隷として買い取られてマムルークになったんだ」


 奴隷に売られたと言っても、トマスは決してラシードを厄介払いしたり金の欲しさに売り飛ばしたりしたわけではなく、マムルーク軍人という有力な戦士階級になれるのはこの国においてはとても名誉な立身出世への道である。ラシードにとってトマスは身寄りのなかった自分を育ててくれた恩人であり、マムルークの訓練学校に入れてもらえたことも含めて、今は亡き養父にとても感謝していることはメリッサにも窺えた。


「なるほど……承知しました。私のことだけを忘れられちゃったのなら悲しいけど、記憶を何もかも失ってるんじゃ仕方ないですね。とにかく、今まで色々と大変だったとは思いますが、レオ様がご立派になられて嬉しいです」


「俺が記憶を失う前のことを、お前は知っているんだな」


 今度はラシードの方が強い口調でメリッサに説明を促す番だった。自分はどこで生まれたのか、両親は誰なのか、どうしてこの国にいるのか。己に関する何もかもをラシードは全く知らない。自分が一体何者なのか、ずっと分からないまま彼は今日まで生きてきたのである。


「教えてくれ。俺は誰なんだ。本名はその、レオ様……レオナルドというのか?」


「あなたは……」


 メリッサが話し出そうとすると、ラシードは無意識の内に右腕を振って小さく動かした。感情が昂ぶった時に見せるこの独特な癖も、彼がレオナルドだという証拠の一つになるものだ。だがメリッサが苦笑しながら改めて口を開きかけたその時、黒い小さな光の刃が飛来し、つい数秒前までラシードの右の拳があった場所を目にも止まらぬ速さで通り過ぎた。


「なっ……!」


 幼い頃からどうしても直せずにいた運動性障害による仕草が、今度ばかりはラシードの命を救う結果となった。不意に標的が取った予期せぬ動作によって狙いを外れた錐型の光線は波止場の端に積まれていた木箱に当たり、厚い木の板を高熱で溶かしながら黒ずんだ毒液に変わる。


「これは……」


 物陰から狙撃してきた者の正体が、メリッサにはすぐに分かった。昨日、カンケルゼノクとの戦闘中にも自分たちを撃ってきた、あの謎の敵だ。


「汝が何者なのかは、知らぬ方が汝のためだ」


 倉庫の陰から姿を見せたバジリスクゼノクが、そう言いながらゆっくりとこちらに歩いて来る。頭に赤い鶏冠(とさか)を生やしたその大蛇のような怪物に睨みつけられて、振り返ったラシードは身構えた。


「さてはお前か。民を毒で次々と殺していた犯人は」


 今の光刃が人体に当たれば熱で皮膚を焼き切られて傷ができ、そこに毒液が付着して体内に染み込み命を奪うことになる。エスティムの街を以前から恐怖に陥れていた連続殺人事件の犯人がこのバジリスクゼノクだと、彼の攻撃魔法の性質を見て取ったラシードは即座に悟った。


「なるほどな。毒殺犯の正体は蛇の化け物のバジリスクだったというわけだ。これは盲点だったぜ」


「我が名はウェパル。神ザフィエルに仕えし天使だ」


「天使……?」


 怪物としか形容しようのないバジリスクゼノクの恐ろしげな外見は、ザフィエル教に限らずどの宗教で描かれる天使像ともそぐわない、むしろ悪魔的な禍々しさを感じさせるものである。ウェパルという名を明かしたバジリスクゼノクが自分を天使と称したのを、メリッサは疑念を隠そうともせず聞き返した。


「その口ぶりだと、お前も俺のことを知っているようだな。だったらこの女の代わりにお前に説明してもらうことにしようか」


「言っただろう。真実が受け入れ難いほどに残酷なものならば、敢えて教えずに逝かせてやるのが慈悲というものよ」


 バジリスクゼノクは二人に指先を向け、先ほどと同じ黒い毒の光線を発射した。ラシードは右に、メリッサは左に素早く地面を転がって避け、バジリスクゼノクを挟み撃ちにするように距離を保ちながら対峙する。


「罪もない人々を大勢殺しておきながら、慈悲とは面白い冗談だな。それにしても、俺の過去ってのはそんなに聞くに堪えないほど残酷なものなのか」


「さあ? そこまでのものだとは、私は……」


 バジリスクゼノクの頭越しに問いかけられたメリッサは、心当たりがないというように首を捻る。これから話そうとしていた過去の出来事がラシードにとって簡単には受け入れられないほど厳しく衝撃的なものだという認識は彼女にはなかった。このバジリスクの魔人は、一体何をそこまで残酷だと言っているのだろうか。あるいはメリッサすら知らないラシードの秘密を、このウェパルという天使は知っているとでも言うのであろうか。


「とにかく、申し訳ないけど説明は後。まずはこの曲者を始末してからゆっくりお話ししますね。レオ様」


 何にせよ、ラシードを毒で殺そうとしてきたこの怪人がメリッサにとっては倒すべき敵であることだけは間違いない。彼がもし何らかの秘密を知っているのであれば、叩きのめして吐かせるのもいいだろう。凛々しい声でラシードに一言告げると、メリッサは拳を握って魔力を高め、赤い炎のような魔力を体から燃え立たせながらバジリスクゼノクに向かって勢いよく突進していった。


「行くわよ! 変身(ゼノキオン)!」

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