第25話 魔人たちの宗教戦争(1)
「私は一体、どうなってしまったのだ……?」
砂塵を乗せた風が吹き抜ける、荒涼とした平原。その四方に散開してエスティムの街を攻囲している神聖ロギエル軍の陣営を遠くに眺めつつ、ヴェルファリア帝国のゲルト・シュティーリケ男爵は憔悴しきった表情でうなだれ、先日のアイン・ハレドの戦いで己の身に起こった奇怪極まる現象を嘆いた。
「これが、私の姿……」
なぜか生まれつきのように知っている、変身の呪文【ゼノキオン】。それを唱えて念じるように力を込めると、彼の肉体は妖しい光に包まれ、灰色の硬い鎧を纏ったエイのような魚人へと変貌する。敵将ラシードに討ち取られて死んだと思った矢先に、なぜか蘇生して得ることになった魔人への変身能力である。泉の水面に映った自分の姿を見つめて、ゲルトは身の震えを禁じ得なかった。
「そこにいたのね。シュティーリケ男爵」
「ミュラー公爵!」
ライアゼノクの姿を目にしても全く動じることなく、背後から平然と声をかけてきたのは彼の主君のヘルミーネであった。まるで値踏みするかのように馬上からこちらをじっくりと観察しているその落ち着きように、かえってゲルトの方が当惑させられる。
「最初は誰しも恐怖を感じるし、自我を保てずに暴れてしまうこともあるものだわ。錯乱の程度や長さには個人差があるけれどね」
そう言いながら、馬を下りたヘルミーネは恐れる素振りもなくライアゼノクの元へ歩み寄る。どこか嬉しそうに肩を一つ叩かれて、変身を解いたゲルトは地面に片膝を突いて彼女の前に拝跪した。
「このような姿となった私をご覧になっても驚かれぬのですか。公爵様」
こんな化け物となった姿を晒せば、ヘルミーネやマティアスも他の将兵たちも恐れをなし、自分を忌避してしまうに違いない。そう考えると帰るに帰れず、荒野を当てどなく放浪していたゲルトだったが、ヘルミーネはこの怪現象については以前からよく知っているような口ぶりである。一体どういうことなのかと、ますます混乱してゲルトは声を上擦らせた。
「こうしたことは一定の確率で起こり得るものだから、さして驚くには値しないわ。あなたが私たちと同じ血族だったのは、もちろん意外だったけれどね」
「同じ血族? それは如何なる意味です? 私のような辺境の出の田舎騎士が、ミュラー公爵家のような帝国きっての名家と血の繋がりなどあろうはずが……」
「名門貴族だろうと下級騎士だろうと、あるいは皇族だろうと奴隷だろうと、遠い昔まで遡ればどこかで同じ先祖に辿り着いたりするものよ。まして同じヴェルファリア人なら、家系が枝分かれしたのは案外最近のことであってもおかしくはないわ」
それは確かにそうかも知れないが、と、まだ合点の行かない様子でゲルトはこの若く美しい女貴族の顔を仰ぎ見る。ヘルミーネはくすりと笑うと、不意に振り向いて背後の大きな岩を鋭く睨んだ。
「私の代わりに、彼に詳しく解説でもしてくれるのかしら? それなら手間が省けてありがたいのだけれど」
彼女が呼びかけると、左右の肩の装甲を瘤のように大きく膨らませた、駱駝を彷彿とさせる砂色の魔人が岩陰から姿を現わす。
「その男が我らの神に仕えるのを望むのであれば、いくらでも詳しく説明してやるさ。そうでなければ、わざわざ死ぬ前に知っておく必要もない無駄な知識、教えてやってもただの徒労ということになるが」
「あなたこそ、改宗するなら今の内だわ。すぐに懺悔して洗礼を受ければ、神罰を受けて地獄に落ちるのは避けられる」
殺意を隠そうともしない駱駝型の魔人――カメールスゼノクを挑発するようにそう言ったヘルミーネは、話について行けずにうろたえるゲルトを尻目に、右手をゆっくりと掲げて静かに呪文を唱えた。
「これが私たちゼノクの定め。よく見ておきなさい。シュティーリケ男爵」
「ゼ、ゼノク……?」
「――変身」
当惑するゲルトの目の前で、両手を広げたヘルミーネの体に白い雪のような光がまとわりついて凝固し、優美な、それでいて研ぎ澄まされた刃のような鋭利さを湛えた鳥人の鎧となってゆく。ゲルトはそれを見て絶句した。数日前、怪物化した直後の自分たちの前に飛来し、圧倒的な強さでエクウスゼノクを葬った鶴のような白銀の魔人。あのグルースゼノクは、他ならぬヘルミーネが変身した姿だったのである。
「私たちの使命は、唯一絶対の神であるべきロギエルに逆らう異教徒たちを天に代わって成敗すること。邪神ジュシエルに忠誠を誓うあなたのようなゼノクも、我ら神聖ロギエル軍の征討の対象なのよ」
「魔王ロギエルの下僕が笑わせてくれる。貴様らが楽園などと呼んで美化する、あの家畜のような惨めな隷従の時代にまた戻りたいか」
嘲るようにそう言ったカメールスゼノクの突進を、地面を蹴って空高く跳躍したグルースゼノクはひらりとかわす。翼で揚力を作り、重力を低減しながら軽やかに着地した彼女を狙って、両肩の瘤を眩しく発光させたカメールスゼノクは充填された魔力を稲妻に変えて撃ち出した。
「ハァッ!!」
鋭い気合と共に、グルースゼノクは左右の掌から白い光弾を放ち、カメールスゼノクの瘤から発射された二発の稲妻にぶつけて迎撃した。光弾と稲妻が激突し、激しい二つの爆発が空中に発生する。
「なかなかやるな。だが……」
この程度ならば恐れるに足りない。余裕を見せてそう呟きかけたカメールスゼノクは、不意に横から受けた強烈な体当たりに反応できずに弾き飛ばされて転倒した。ライアゼノクに変身したゲルトが、主君を助けるべく加勢してきたのである。
「貴様!」
「神ロギエルに逆らう異教徒は、生かしてはおけぬ」
怒りに燃えるカメールスゼノクと激しい殴り合いを展開したライアゼノクは長く伸びた尻尾を振るい、その先端についた太い針に魔力を灯らせて相手の左肩を突き刺した。カメールスゼノクの肩の瘤を鋭い針が貫き、硬い外骨格を叩き割って穴を開ける。
「お……おのれ! 覚えていろ」
破壊された左の瘤から魔力が漏れ出し、閃光が迸って火花が散る。勝敗を決定づける深手を負わされたカメールスゼノクは右手を突き出して地面に向けると、山吹色の光弾を掌から発射して自分の足元を撃った。地表に爆発が起こって炎と土砂が噴き上がり、煙幕のようにカメールスゼノクの姿を隠す。
「逃がしたわね」
爆炎が収まって煙が晴れた時には、カメールスゼノクの姿はどこにもなかった。グルースゼノクは白い装甲を蒸発させてヘルミーネの姿に戻り、それを見たライアゼノクもやや遅れて灰色の鎧を無数の光の粒に変えて消し去る。
「何が何やら、よう分かりませぬ。公爵様、この異形の姿は一体何なのですか? それに我ら神聖ロギエル軍の使命と仰せでしたが、それは……」
「落ち着きなさい。シュティーリケ男爵。これは今ここで手短に説明できるような簡単な話ではないわ。でも心配は要らない。私たちゼノクの覚醒者には、神から与えられた特別な役目があるのよ」
「ゼノクの……覚醒者……」
この力に目覚めたからには、彼には色々と教えておかねばならないことがある。アイン・ハレドの一戦で行方知れずとなって以来、自分の元を離れてずっと荒野を彷徨っていた部下のゲルトを迎えに来たヘルミーネは直ちに帰参させて味方の陣へと連れ帰った。自分以外のゼノクを家臣として抱え、手持ちの戦力を少しでも強化しておくことは、先の読めない今後の戦いにおいてもきっと大きな強みになると彼女は確信していたのである。
「あなたも本当の真理を知るべき時が来たようね。シュティーリケ男爵。あまりの衝撃に心が耐えられればいいけど、さてどうなるかしら」
どこか愉しげに、ヘルミーネはそう言って冷たい微笑を浮かべた。




