第23話 人外への誘惑(3)
「ちっ、一体何だったんだ。あの赤い豹みてえな女といい、死角からいきなり毒なんて撃ってきやがった奴といい……」
まるで迷路のように複雑に曲がりくねったエスティムの裏小路を駆け抜けて逃走したカンケルゼノクはウマルの姿に戻ると、苦々しげに悪態をついた。
手に入れた人外の力を使って強盗をしてみたはいいものの、突如として現れた自分と同種と思しき魔人に妨害され、せっかく盗んだ金を取り返されての敗走である。意を決して実行に移した初めての犯行は、惨めな大失敗に終わったのだった。
「大体、この力は何なんだ。俺だけが持てる、特別なものじゃなかったのかよ」
今の自分は、盗みをして憲兵に追われる身となった犯罪者だ。人目につかないよう倉庫の中の暗がりに隠れながら、ウマルはひょんなことから自分の中に目覚めた不思議な力についてずっと考えていた。
生まれつき気性が荒く興奮しやすい性格だった彼は数日前、怒りに任せて感情を昂らせている内に精神と肉体の異変に襲われ、巨大な鋏を持った蟹の魔人に変貌した。初めは驚いたし恐ろしさのあまり気が触れそうにもなったが、人間を超越した凄まじい力が得られたのはよく考えてみれば僥倖である。早速この力を有効活用してみようと市場に繰り出して強盗をしてみたウマルだったが思わぬ敵に遭遇し、戦うも敵わず敗走する破目となったのだ。一体何がどうなっているのかと、ウマルは頭を抱えて嘆いた。
「その力は、お前だけに与えられたものではない」
暗い倉庫の奥に、誰かが立っている。人影かと思われたそれは、よく見ると人の形をしてはいなかった。声がした方へ振り向いて目を凝らしたウマルは、闇の中に浮かび上がる奇怪な蟲のような怪人の姿に驚いて思わず叫び出しそうになった。
「誰だ! てめえは」
「うろたえることはあるまい。お前と同じ先祖を持つ一族だ」
背中に昆虫のような羽を持ち、額からは二本の長い触覚が伸びたコオロギを思わせる深緑色の魔人――グリラスゼノクは、冷徹なまでに落ち着き払った低い声を広い倉庫の中に響かせる。
「一族? ケッ、てめえみてえな気味の悪い化け物の親戚なんざ知らねえな」
「自分とておぞましい姿の化け物だろうに、その言い草はなかろう。我々は皆、血を分けた同族、一人の父祖から分かれた兄弟姉妹なのだ。お前も俺も、あの我々に刃向かう命知らずの雌豹もな」
「さっきのあの女も? そいつはどういう意味だ」
掴みどころのないグリラスゼノクの言葉に、ウマルは強く興味を引かれて訊ねた。冷たくせせら笑いながら、グリラスゼノクは変身を解いてコオロギ型の外骨格を消失させ、ウマルと同じ年頃の武骨で鋭い目つきをした青年――ナジブ・ジトゥーニの素顔を見せる。
「先祖の罪を受け継いでいる、ということよ。そしてその罪の報いは死あるのみだと、この聖地を支配せんとする神々はのたまっている」
「死だと? 笑わせやがるぜ。この俺様を殺れるもんなら殺ってみろ」
一瞬、この青年が自分を殺すつもりなのかと錯覚したウマルは売られた喧嘩を買おうとするように声を荒げたが、そうではないと苦笑しながらナジブは説明する。
「勘違いするな。俺が殺すと言っているのではなく神が裁いているのだ。だがもっと寛大で慈悲深い神もおられる。己の罪を懺悔し、遥か古代よりこの聖地で崇拝されてきた真実の神に帰依すればお前も生き永らえることができるだろう」
「どこの宗教の勧誘だか知らねえが、俺は敬虔な信者なんて柄じゃねえんだ。見りゃ分かるだろ」
神が教える道徳や愛など、聞くだけで反吐が出そうになる。偉そうな宗教家の説法ならばお断りだと、ウマルは吐き捨てるように言って顔を背けた。だがナジブはその反応を予期していたかのように、声の調子を変えることなく話を続ける。
「お前が思い込んでいるほど、神々の世界は清らかで堅苦しいものではないぞ。むしろこの水が合うのではないかな。お前のような血の気の多い男には」
「何だかよく分かんねえが、てめえさっきから面白いことを言うな。要するにどういうことなんだ」
この青年は何やら物凄いことを知っている。そう確信したウマルは、急に彼の話をよく聞いてみたい気分になった。自分が得ることになった特別な力の背後には、恐ろしいほど巨大で深遠な何かがあると彼は確信したのである。
「ついて来い。教えてやろう。この世の真実、隠された摂理というものを。そして、その中で俺たちが生き残るための術もな」
ウマルを手招きして誘うと、ナジブは暗闇の奥へ向かってゆっくりと歩き出す。不思議な力に導かれるかのように、彼の後を追ったウマルの姿は漆黒の闇の中へと消えていった。
聖なる都と呼ばれるエスティムの街と、その四方をぐるりと取り囲むように布陣している神聖ロギエル軍の陣営。下界で行なわれている熾烈な宗教戦争を冷ややかに見下ろす険しい岩山の頂で座禅を組みながら、ビルシャは一人静かに瞑想に耽っていた。
「申し訳ございません。老師」
切り立った岩山をずっと登ってきたにも関わらず、わずかな息の乱れすらなく近づいてきた若者がそう言って跪く。体の疲れはなくとも、心は己が取った不覚のゆえに大いに憔悴しているのが年老いたビルシャにはすぐに分かった。
「ムスタファは死におったか。我が弟子アシュラフよ」
自分があの魔石のついた腕輪を渡し、スースゼノクに変身させて暴れさせたムスタファの姿がない。そのことを訊ねられたアシュラフ・サージドは深々と頭を下げ、再び緊張の面持ちで詫びの言葉を口にする。
「面目なき限りにございます。老師よ。同志ムスタファは突如として出現した正体不明の赤い豹のゼノクと交戦して敗れ……殉教の死を遂げました」
アシュラフもアラーネアゼノクとなって人質を取り援護を試みたものの、戦いに乱入してきたレオゼノクに圧倒されて傷を負い、仲間を失って命からがら撤退する結果となった。じっと目を閉じたままアシュラフの報告を聞いていたビルシャは、己の失態にひどく恐縮しているこの若い弟子に向かってしわがれた声で言った。
「まあ良い……火は無事に灯されたのじゃ。間違いなく神ジュシエルの名の下に殺戮は行われたのであろう?」
「はい。これがジュシエルからの天罰であるということは確かに宣して参りました。立ち向かってきたマムルークの男を一人、殺めねばならなくなったのは誤算でしたが、それ以外の犠牲者は全てザフィエル教を信ずるヨナシュ人どもにございます」
「ならば良い」
ビルシャは意味深な笑みを浮かべ、不覚を取ったアシュラフを寛大に許す態度を見せた。ジュシエル教徒がザフィエル教徒を神意によって誅したという事件の趣旨さえ世間に伝われば、その後の戦闘の勝敗などはこの場合さして重要ではない。
「後はただ静観しておれば、我らが手をかけずとも自ずと炎は燃え広がり、やがてはあの穢れきった聖都を焼き尽くしてくれる」
エスティムに割拠する三つの宗教がこれまで辛くも保ってきた均衡は、スースゼノクの破壊活動という一石によって今や完全に破られた。ロギエル教徒の軍勢が街を攻囲している中、ジュシエル教徒とザフィエル教徒の間にも争いが起これば狙い通りである。ムスタファは自らの命を犠牲にして、重い歴史の歯車を動き出させる大仕事をやってのけたのだ。
「気がかりなのはもう一方の獅子のゼノク……ただの偶然ならば良いが、念のため我らの姫君にも出現を報告し、仔細を確かめねばなるまい」
「老師、その、偶然ならば……とは?」
レオゼノクに変身したのがアシュラフの報告通りアラジニア人なのであれば、心配は杞憂と考えて良さそうだがまだ断定まではできない。怪訝そうに質問してきたアシュラフには答えず、ビルシャはひとまず現状に及第点を与えたように言った。
「いずれにせよ、エスティムを焼き滅ぼす憎しみの炎はこれでめでたく点火された。計画通りじゃ。大儀であった。我が弟子アシュラフよ」
「ははっ……ありがたきお言葉」
「火の勢いが足りぬようであれば今後も随時、薪をくべてやる必要はあるやも知れぬが、今はひとまずこれで良い。愚かな異教徒どもが互いに血を流し合うのを、しばし高見の見物と参ろうぞ」
まんまと戦乱を煽ることに成功したビルシャは満足げに嗤うと、時が過ぎるのを待つように瞳を閉じてまた瞑想の世界に浸り始めたのであった。




