第21話 人外への誘惑(1)
アレクシオス帝暦一二一四年・六月十九日。すなわち、エスティム西地区の十七番街に魔人たちが出現した翌日のことである。
この日の未明、アラジニア軍はエスティムの東の城門から兵を繰り出し、都市を包囲している神聖ロギエル軍に対して奇襲攻撃を敢行した。
「申し上げます!」
陽はまだ昇りきっておらず、聖地を囲む荒涼とした平原は薄闇に包まれている。急報を受け、寝床から飛び起きた総大将のマティアスの下知で直ちに出陣したヘルミーネは、本陣の聖ウィリアン砦から引き連れてきた七千のヴェルファリア兵に厳戒態勢を取らせつつ、城門の周辺で行なわれている戦の成り行きを後方から注視していた。
「奇襲を受けたテオノア軍は、反撃に出て徐々に敵を押し返しつつあります。フィリーゼ軍も既に救援に到着しており、アラジニア軍のマムルーク騎兵を二方向から攻め立て追い詰めている模様」
「さすがはイオアンナ王女。すぐに持ち直したようね。この分なら、私たちヴェルファリア軍が最前線まで出て戦う必要はないでしょう」
伝令の兵がもたらした優勢との報告にヘルミーネが安堵する。アラジニア軍による突然の不意打ちは当初こそ成功し、多数のテオノア兵を討ち取る戦果を挙げたが、態勢を立て直した神聖ロギエル軍の各部隊が反撃を開始すると戦況はすぐに逆転し、寡兵に過ぎないマムルークの騎兵軍団はたちまち押し返されている。テオノア軍を指揮するイオアンナの巧みな采配もさることながら、敵兵の数がさほど多くなかったことが大惨事に至らずに済んだ要因だろうと分析したヘルミーネはこの武運を神に感謝した。
「敵にとっても軽い牽制程度の出陣で、本格的に決戦する気まではなかったのかな。幸運だったね」
ヴェルファリア軍の部将で、ヘルミーネより二歳年下のレベッカ・ファン・ペルシー伯爵がやや拍子抜けしたように言う。副官として重用している彼女の言葉に、ヘルミーネはわざと意地悪な表情を浮かべてその本心を指摘した。
「幸運? あなたにとっては、武勲を立てる機会がなかったのは不運ではなくて?」
やはりこの人には隠し事はできない。内心では白旗を上げて参りながらも、レベッカは敢えて首を横に振って反論の言葉を口にする。
「わざわざ味方がやられるのを願うほど、私だって利己主義じゃないよ。そういうやり方は嫌われてかえって損になるから、商売上も下策だしね。それに、もっと攻囲が長引けば敵も疲れて弱ってくるだろうし、それを待ってから蹴散らして手柄を立てても遅くはないかなって」
ヴェルファリア皇帝に服属するユリアント都市連邦の兵を束ねるレベッカは、この聖戦で活躍できれば帝国内における自分たちの地位が高まるとあって戦功に飢えているが、かと言って焦るつもりは決してない。いつも通りの明るく楽天的な彼女の声に、ヘルミーネはくすりと笑った。
「商売、ね……。神の名による聖戦の陣中でそういう俗な言葉は控えなさい、と言いたいところだけど、あなたのように損得勘定を主体にもっと簡単に考えた方が、柔軟に動けて上手く行くのかも知れないわね」
元はユリアントの主要都市の商人ギルドの長だった富商の一族が爵位を賜って貴族となったファン・ペルシー家の末っ子であるレベッカの思考回路はやはり商人のそれに近く、ヘルミーネのような根っからの名門貴族が囚われがちな沽券や格式などにはこだわらず常に名より実を取ろうとする。と言って、彼女の人柄は決して無味乾燥や冷徹というわけではなく明るく話上手で親しみやすい。これもいわゆる商売っ気という奴で演技のようなものか、とヘルミーネは疑っているのだが、媚びを売ってでも気に入られるべき目上のヘルミーネにレベッカが素の自分を見せたりすることはまずなく、彼女の本性はなかなか掴めなかった。
「それにしてもさ、リオルディアのディ・リーヴィオ卿は今頃どうしてるんだろうね。自ら聖地に忍び込むなんて言って陣を出てから、もう三日になるけど」
高い城壁に囲まれたエスティムの街を眺めてレベッカが言うと、ヘルミーネも考え込むようにしてうなずいた。
「確かに気になるわね。いくらディ・リーヴィオ伯爵の武は一流と言っても、斥候の真似事なんてできるとは思えない。でも考えもなしにあんな突拍子もないことを言い出すほど、彼女も愚かではないでしょう。何か秘策があるはずだけれど、それが一体何なのかは私には想像もつかないわ」
彼女自身にとっても不思議なことなのだが、同じく自分と性格が大きく違うメリッサに対しては、ヘルミーネは愉快さや物珍しさよりも苛立ちを覚えてしまってレベッカに対するようには好意的に見ることができない。レベッカもそれを見透かして、彼女の反応を楽しむためにわざとメリッサの話題を出した節はあったのだ。
(あんな女の腹の内なんて分かるはずもないし、分かりたくもないわ)
無茶をして仮に命を落とすことになったとしても、それはメリッサの自業自得でしかない。構わず好きにさせておこうと切り捨てたくなるヘルミーネだったが、心のどこかに引っかかるものを感じてそれがなかなかできずにいた。メリッサが軍議の席で見せたあの妙な自信は、彼女が隠している何か重大な秘密と関係があるような予感がするのだ。
「いずれにせよ、事を急ぐ必要はないわ。今回のように敵が焦れて飛び出してきたところを叩いて異教徒たちの兵力をじわじわと削りつつ、ディ・リーヴィオ伯爵の帰りをもうしばらく待ちましょう。もし生還できなければそれまでのこと。私たちの軍から代わりの斥候を送り込んで情報収集をやり直すだけよ」
敗色濃厚となったアラジニア軍の奇襲部隊は既に退却を開始し、城門の内側に逃げ帰ろうとしている。戦いがひと段落つきそうなのを見たヘルミーネは馬の手綱を引き、単身どこかへ駆け出そうとした。
「どこ行くの? ミュラー公爵」
「ちょっと探し物があってね。軍の指揮は任せるわ。すぐに戻るから心配しないで」
「まだ戦は終わってないんだよ? 一騎駆けなんて危険じゃない?」
ヴェルファリアの公爵ともあろう者がたった一人で戦場の近くをうろついて、もし敵に見つかってしまえば目も当てられない事態となる。常に慎重で節度をわきまえたヘルミーネらしからぬ不用心さに驚いたレベッカは自分が護衛として同行しようかと申し出たが、ヘルミーネは馬上で小さく笑ってそれを固辞した。
「私に限っては、その心配は無用だわ。そう簡単には殺られたりしないから安心して。ディ・リーヴィオ伯爵はどうだか知らないけれどね」
理知的で思慮深いヘルミーネが敢えて自信満々にそう言うからには、何か考えがあるのだろう。きょとんとした顔をしていたレベッカはやがてそう思い直して納得し、指揮官を乗せた馬が嘶きと共に走り去ってゆくのをそのまま素直に見送ったのであった。
陽が昇り、薄暗かった空が次第に明るさを増してゆく。青空の中に溶け込むようにして霞む獅子座の星々をぼんやりと眺めつつ、メリッサはエスティムの西の城門の近くに建っているジュシエル教の礼拝堂の屋根の上で、腕枕に頭を乗せて仰向けに寝転びながら考え事をしていた。
「レオ様、か……。まさか、こんな遠い異国で生きておられたなんてね」
昨日、昼食を食べに立ち寄ったハル・マリアの店でまたも出会ったあのラシード・アブドゥル・バキというマムルークの青年は、やはり十年前に死んだと思われていたレオナルド・オルフィーノなのだろうか。寝床にさせてもらった大きな異教の礼拝堂の上で、メリッサはそのことをずっと頭に巡らせながら一夜を過ごしていた。他にも考えなければいけないことが山ほどあるのは分かっていても、思いはそればかりに向いてしまって言うことを聞かない。
「しかもゼノクに覚醒か……。これは面白いことになってきたわ」
まるで神の見えざる手が導いているかのような、思いがけない奇跡の連続である。仮にあのラシードが本当にレオナルドだとして、彼はなぜ生きていたのか。どうして母国のリオルディアから遠く離れたこんな異郷で、マムルークなどという奴隷の戦士になっているのか。もし可能であれば、彼はリオルディアへの帰還を希望するだろうか。それとも、このアラジニアに骨を埋めるつもりで固く忠誠を誓っているのだろうか。国王の落胤である彼の生存が今になって判明すれば、リオルディアの王家や貴族たちは彼を一体どう扱うだろう?
分からないことは数多く、これから事態がどう進展していくのか、あるいは、どう進展させていくべきなのかはメリッサにもすぐには判断しかねる部分が大きい。
ともかく、人の運命とは思った以上に数奇なもので、この世というのは想像していた以上に奇想天外で諧謔的だということだけはどうやら間違いなさそうな気配である。やはりそうでなくては、と、メリッサは空を流れる白い雲を見つめてほくそ笑んだ。
「とにかくもう一度、あのマムルークの将軍に会ってみる必要があるわね」
疑問のほとんどは、本人に直接話を聞けばすぐに氷解することだろう。ラシードを探しに行こうと決意して、メリッサは礼拝堂の屋根の上で身を起こした。本来、彼女の目的はこのエスティムを攻め落とすために敵の内情を探ることなのだが、街を守っているアラジニア軍の部将の一人が実はこちら側の人間かも知れないというのはその任務と照らし合わせても決して無関係の私事などではなく、むしろこの都市の攻略のために大いに役立つ可能性を秘めた重要案件であろう。
「私のこと、思い出して下さるといいんだけど」
一つ残念だったのは、ラシードの側にはメリッサの顔を見て何か思うところが特になさそうだったことである。自分のことはもう忘れてしまったのだろうか。それとも、彼はやはりレオナルドとは似ているだけの別人なのだろうか。お互いまだ八歳の子供だった十年前と今では外見や雰囲気も随分違うので、一目ですぐに分からないとしても無理もないことではあるのだが。
「……何かしら?」
朝になり、徐々に人出が増えてきた地上の様子が何やら騒がしい。早速行動を開始しようと立ち上がったメリッサは、人々の悲鳴と野次、そして男の怒声が下から響いてきたのに気づいて礼拝堂の前を走る大路に目を向けた。
「泥棒だ! 誰か捕まえてくれ!」
白いターバンを着た小太りの男が、大きな壺を抱えて走る人相の悪い青年を必死に追い駆けながら大声で叫んでいる。街路を行き交う通行人たちを突き飛ばして強引に人波をかき分けながら、青年は制止の呼びかけを無視して逃走を続けていた。
「泥棒か……。放ってはおけないわね」
街で起こった犯罪を解決するのは街を攻め落とそうとしている敵軍の斥候の仕事ではないし、敢えて騒ぎに関わって人目に触れるのはむしろ避けるべきではあるのだが、こうした悪事やその被害者を目にしてしまうとどうしても黙ってはいられないのがメリッサの性である。困った癖だな、と自嘲しつつ、立ち上がったメリッサは街路を走る犯人の男と並走するようにして礼拝堂の屋根の上を身軽に駆け抜け、赤いアバヤを風にはためかせながら、常人を超えた跳躍力で隣に建っている大きな倉庫へと跳び移った。




