06.嵐の前の静けさ
聖女とその姉君が入学してきた。シーズンの終了と新しい学びの季節の始まりを告げる日。形ばかりの学園長たる宮廷魔術師長からの、年に一度の有難いご高説を賜り、翌日から授業が再開された。学園としての代わり映えのしない日常が始まったことになる。
「おはようございます、ジェーン様、グローリア様。」
「エリス様!おはよう。」
「おはようございます、エリス様。」
フルール姉妹の学園の案内役は、寮母であるマダム・クレイの強い推薦によりエリスに一任された。ちなみに姉であるジェーンは本来エリスとグローリアより二歳離れているが、今回特例として姉妹揃って同じ学年に転入を果たした。
ジェーンはエリスと同じクラスだが、グローリアはクラスが隣。またエリスといえど日がな一日二人につきっきりで付き人のように付き従うことはできない上に、する必要もない。そこで基本的な案内や、学園内で咄嗟の判断に悩んだ際に教員がいなかった場合など、緊急事態の対応はエリスが。その他の些細なことはエリスがある程度声がけした混魔と魔力持ち双方から幾人かずつが担当することとなった。無論その中にカルロスも含まれている。
朝、寮から教室のある棟まで送るのはエリスの役割だ。入学から一週間、フルール姉妹からエリスは一定の信頼を得ることに成功していた。
「お姉様とエリス様が同じクラスなのが羨ましいわ。あたしも同じクラスがよかったのに!」
「クラス分けは魔石によるランダムですから…とはいえわたくしもグローリア様も同じクラスでないのは残念に思います。」
「エリス様も残念に思ってくれるの?」
「勿論です。ですからグローリア様とジェーン様、お二人とお話できるこの朝の時間を頂けていること、とても嬉しく思います。」
「嬉しいわ!ねえ、お姉様?」
「ええ。わたし達姉妹とエリス様を引き合わせてくださったマダム・クレイに感謝しなければ。」
姉妹だが二人の性格は正反対だ。姉のジェーンは穏やか、もとい達観していて時に淡々としている。そして聖女、グローリアは無邪気で幼げだ。伸びやかに愛されて甘やかされて育ったのだろうとよく分かる。だが傍若無人なワガママを言うようなことはない。ジェーンが諌めることもあれば、お姉様に嫌われるような言動はしない、と自ら律し慎んでいる。ある意味そんな二人にエリスが宛てがわれたのは正解だった。ジェーンの性格では、並の娘をつけたとて自分はともかく妹に似つかわしくないと言って、到底認めるとは思えない。エリスはその点をクリアしており、かつ表面上穏やかで姉と同タイプと見たグローリアが懐くのも道理だった。
「今日はグローリア様は魔力制御のトレーニングでしたか。慣れそうですか?」
「難しいわ。座学ならなんて事ないのに、座学で勝てる相手に魔力制御では歯が立たないの。悔しいったら!」
「リアは気持ちがそのまま魔力に反映されるのだもの。切り分けられたらもっと上手くいくはずよ。…ねえ、エリス様。」
「そうですね、凪いだ気持ちで魔力を扱うことに慣れれば自ずと切り分けられるでしょう。ジェーン様はコツを掴むのがとてもお早いです。」
「お姉様、すごいでしょう?あたしに出来ないこと、お姉様は全部できてしまうの!」
「全部ではないわ。」
「お二人とも、向き不向きが真逆なのですね。でも姉妹で助け合えるということですもの、とても素敵な関係ですね。」
この一週間で分かったのは、グローリアは座学は地頭の良さでクリアしていくが、実際に魔力を扱うのはこれまでが感覚的すぎて苦手だということ。これは本人の性格だけではなく、これまで付いていた家庭教師の教え方が問題だ。一方のジェーンは魔力の扱いの上達が異様に早い。本当にグローリアと同じ教育を受けてきたのか疑問になるレベルだが、その代わりといってはなんだが魔力量が少ない。本人曰く、量の少ない魔力を効率的に回そうと思えば自ずと魔力の扱いに慣れる、との事だが、エリスは懐疑的だ。
とはいえ、ジェーンが魔力の扱いに特化していようがいまいが、エリスにとっては些事だ。エリスの知るシナリオのどれを辿ろうと構わないが、国が平穏でありさえすれば良い。そこにジェーンは大きく関係しない。問題はグローリアを取り巻くあれこれだ。
「エリス様、今日のお昼ご一緒にいかがかしら?勿論、医務室の方のお役目があるならば無理にとは言わないけど。」
「お誘いありがとうございます、グローリア様。今日は先生からのご指示もございませんので、ぜひご一緒に。」
「本当に!?嬉しいわ、ねえお姉様!」
「ええ、リア。お昼が楽しみだわ。」
「お昼時、お迎えにあがります。そうしましたら。」
三人で談笑する時間は、せいぜい十分弱。教室の前までグローリアを送り届けたあとは、ジェーンと連れ立ってエリスは自身の教室に踏み入れた。窓際の一番後ろがエリスの席だ。教師やクラスメイトに気付かれないようにそっと魔力で蝶を二匹練り上げる。一匹はキール、もう一匹はカルロスの元へ飛ばす。カーテンが窓際で風にそよいだタイミングに合わせてそれぞれ飛ばした。キールには、今日の昼はフルール姉妹と取るため医務室へ行けない旨を。カルロスには姉妹と共に昼を食べようという誘いを。それぞれの返事は、比較的早くに、そしてエリスの望んだものが届いた。
「クラウンさん、こちらの薬液の調合比率の設問に解答を。」
「かしこまりました。」
キールとカルロスからの返事をチェックしていると、教員から黒板前へと指名される。授業に真剣に向き合ってきたエリスだが、さすがに今学期は始まってすぐに気もそぞろだと各々の教員たちに気づかれた。最もそれは悪い意味ではなく、学園内が荒れぬよう立ち回っているのだと好意的に受け取られている。たった今エリスを指名した教師―――イルシュナー薬学教授も同様で、黒板に解答を記すエリスへそっと念話を送ってきた。曰く、問題はないかと。なければそのまま解答して席に戻り、あるのであれば何かアクションを起こすようにという指示だった。
「…できました。」
「よろしい、正解です。クラウンさん、ありがとう。席へお戻りなさい。」
「教授、こちらの設問に関して質問させて頂きたい内容がありまして後ほどお時間頂けますでしょうか?」
「構いません。放課後、準備室へおいでなさい。」
「ありがとうございます。」
魔力持ちでありながら混魔であるエリスに友好的、というよりも魔力持ちよりも混魔贔屓とも見えるイルシュナーは、唇の端だけで薄く笑ってみせた。
座学を二つこなせば、昼時だ。エリスはジェーンと連れ立ってグローリアのいる屋外競技場へと向かった。魔力コントロールの実技では広い空間を要する。いつ何時、誰が魔力を暴発させるか分からないからだ。今日は幸いにも何事もなかったようで、実技授業の際にのみ身につけるローブをちょうど片付けたグローリアが、視界に認めたエリスたちの元へ喜色を浮かべて走り寄った。
「お姉様、エリス様!聞いて、あたしやっと魔力を練り上げられたの!」
「まぁ、グローリア様おめでとうございます。」
「リアおめでとう。頑張ったのね。」
「えへへ、はい!」
ニコニコと笑うグローリアは全身で喜びを表現するかのようだ。それを猫可愛がりするかのように褒めちぎるジェーンはまさしく妹が可愛くてたまらない姉の典型的姿だ。最も、聖女の力を宿した魔力は練り上げるのが非常に難しい代物らしく、グローリアは入学以降ひたすらに苦労していた。それをジェーンは純粋に労いたいのだろう。エリスは二人の仲睦まじいやり取りを邪魔することないよう、さりげなくエスコートして中庭のガゼボへと足を進めた。
「エリス嬢。」
「カルロス様、ありがとうございます。」
「このくらいは任せろ。もうじき先に昼を買いに行った連中が帰ってくる。戻ってきたら俺達も行くぞ。」
「かしこまりました。」
今日のランチはフルール姉妹とエリス、以外にカルロスをはじめ混魔と魔力持ちが四人同席する。なかなか大所帯だが、囲い込もうとしているという言われなき中傷を避けるためにも必要な事だった。朝飛ばした蝶でエリスは、ガゼボと参加者の手配はカルロスに一任していた。社交は苦手だと公言してはばからないカルロスだが、貴族同士の社交の場以外ではそれなりに人当たりも悪くない。加えて家柄的に、それなりに人脈も広いのだ。自分が声を掛けて回るより効率的だと依頼したエリスは、自分の見立てが正しかったことに小さく笑った。
「あら?ボーデン様たちもご一緒なさるの?」
「ええ、グローリア様。わたくしだけがお二人を独り占めしては皆嫉妬いたしますから。わたくしと親交のある方しかご紹介できず恐縮ですが、たくさんの方と接していただければと。」
「ボーデン様は良いけれど…あたしはエリス様ともっと仲良くなりたいのに!」
「リア。エリス様のお気遣いにそんなこと言わないの。」
「申し訳ないな、フルール嬢。俺が無理を言ったんだ。」
「ボーデン令息、妹が失礼を言ってごめんなさい。お気遣いありがとう。そしてわたし達のことはどうぞ名前で呼んでくださる?」
「…ああ、わかった。ジェーン嬢とグローリア嬢。俺もカルロスで構わん。」
「ええ、カルロス様。」
ニコニコと笑い合うジェーンとカルロスは一見すると穏やかだが明らかに目は笑ってはいなかった。腹の探り合いと言うのがまさしくといった様子だ。
エリス以外もいると知った時には、ぷくりと頬をふくらませ拗ねた様子を見せていたグローリアは、表面上笑い合う二人の姿にもう仲良くなったの?と呟いている。色々な意味で純粋に育ちすぎではなかろうか、とエリスはややグローリアを心配に思いつつ、これは確かに御しやすいと危機感を内心募らせた。
「エリスさん。」
エリスが危機感を抱いているのに気づいてはいないグローリアは、おずおずといったていでカルロスとジェーンの談笑に参加しようとする。その姿を輪の外側から眺めているエリスの背に、柔らかな声が掛かった。
「あぁ、カルロス様はやっぱり皆様にお声がけしていたのですね。」
振り返ったエリスは、予想通りの面々に柔らかく微笑む。カルロスが呼んでいたのはなかなかに豪華な顔触れだった。宰相の子息であるルーク・ミストレス、宮廷魔術師長の一人娘ケイティ・アンカース、国一の商家の長女エステル・ウィンスレット。ルークとケイティは魔力持ち、エステルは混魔だ。混魔に偏らず、かつ周囲のやっかみも羽虫のようにあしらえる面々である。
「聖女様とお話が出来る機会を逃すはずがないでしょう?貴重な!貴重な魔力ですもの!!」
「ケイティ様、落ち着いて。…ぼくも今後の情勢に関わるしフルールご姉妹とお話したかったから誘ってもらえてよかったよ。」
「お二方とも、まずは皆さまにランチを取ってきていただくのが先です。」
「はっ!すみません私ったら…ルーク様とエステル様の言う通りです……。」
穏やかにエリスに声をかけたルークだったが、魔力オタクのケイティが全てを台無しにした。とはいえ三人をよく知る者からすれば常といったリアクションと状況なのだが、グローリアとジェーンが驚きに目を見開いているのに気づいたエステルがすげなく二人を諌める。この三人は幼なじみとも言うべき腐れ縁で、誰か一人を呼べば三人セットで馳せ参じる。おそらく声がけする面々の華美さにも気を使っての人選だが、それ以上に声がけする手間を最小限にしたいというカルロスの本音が透けて見え、エリスは先程三人に見せた微笑みとは違う類の笑みを唇の端に小さく浮かべた。
「さて、では…お昼を取りに行きましょうか
。」
「そうだな。ジェーン嬢とグローリア嬢も良いか?」
「ええ、構いません。」
食堂へは事前にカルロスが話を通しておいてくれたらしい。持ち運びしやすいようバスケットが既に用意されており、どのメニューを頼んでも対応できる万全の体制だった。それぞれにシェフに注文をし、思い思いのバスケットを抱えて中庭に戻る。食堂と中庭の往復で好ましくない人物からの接触があるのではないかと気を張っていたエリスだが、無事何事もなくガゼボにたどり着くとそっと息を吐いて肩の力を抜いた。
「エリス様?」
「なんでしょう?グローリア様。」
「なんて言うのか…気にかかることでも、あるの?」
「え…。」
「気のせいならいいのだけど、エリス様時々周りにすごく気を配ってるでしょ?疲れてしまいそうって思って。」
あたしには話してくれないかしら、と俯くグローリアの姿からは他意は伺えない。正直に告げるか、否か。エリスの逡巡は一瞬だった。何せジェーンもこちらをちらりと伺っている。妙な誤魔化しは二人からの信頼を失うきっかけになり得る。エリスは一つ息を吐くと、少しだけ困ったような表情を浮かべた。
「気遣って頂きありがとうございます、グローリア様。聞いていただけますか?折角のランチが冷めてしまいますし…できれば食べながら話半分にでも。」
少し茶化して伝えれば、グローリアはそうしましょう!とすぐにエリスの提案に乗った。
「つまるところ、あたしは格好の餌なのね…。」
「言い方は悪いのですが、そういう事です。混魔を格下と思って疑わない魔力持ちの者たちから見て、お二方は何がなんでもお近付きになりたい存在なのです。勿論、そうした者たちしかいない訳ではありません。極端な考えの者はごく一部ですが…マダム・クレイからお二方の安全を任され、どうにも気負ってしまっていたようです。ご心配お掛けして申し訳ございません。」
「いいえ、エリス様。正直に話してくれてありがとう。それならあたし達だって、自衛できるわ。危ない存在がいること、それがエリス様と相容れないということ。それだけ知っていればどうとでもなるもの。ね、お姉様!」
「そうね、リア。エリス様もわたしたちの知らないところでご迷惑お掛けしていて…ごめんなさい。」
説明しきると、ジェーンとグローリアの顔色は曇った。致し方ない。当人たちを置いて周りは担ぎ上げる、担ぎ上げさせないで揉めているのだ。カルロスが仔細を説明していたかは不明だが、苦い笑みを口元に揃いも揃って浮かべるルークたち三名も、思うところがあるらしい。
「いいえ、ジェーン様。お二方から謝っていただくことなどございません。元はと言えばこの学園そのものの、古くからの慣習が原因なのですから。」
「そうだな、だから俺達でどうにか変えていけたらいい。」
パン!と手を打って謝罪大会となりかけていたその場の空気を、カルロスが断ち切った。夢物語、ではある。根深い問題だ、簡単に慣習は変わらない。変わらないが、変えるための礎にはなれる。カルロスが淡々と何事もないように言い切ったことで、フルール姉妹の肩にはいっていた力は少しばかり抜けたようだった。
「とりあえずは、やっかみのない程度に俺たちと関わってくれ。このメンツならおいそれと有象無象は手出しできない。」
「そうですね。わたくしも…ある程度の地位の方からはご認識いただいているのですが、逆にある程度中央から離れていらっしゃる方々には顔がききませんから。」
「それでしたら確かに私たちが適任ですね!!親の七光りトリオと残念なご認識をされてばかりおりますが、むしろそれを有効的に使わない謂れもありません!」
ふんす!と効果音でもつきそうな勢いでケイティが拳を握り締める。三人はケイティが自己申告したように、些か残念な認識を学内ではされている。だが親の七光りと侮るなかれ。本人たちはうまくそれを使い学園内でそれなりの立ち位置を確保しているのだ。また各々、両親達とは別のフィールドで十二分に今後地位を築けるだけのスキルを有している。親の七光りと侮った者は、大概がカウンターを食らって、以降は三人を恐れ戦く始末だ。
分かりやすいところでいえばルーク。父である宰相補佐を現在エリスの兄ライルが務めており、またライルは次期宰相に内々定している状況だ。ルークは代々宰相を担ってきたミストレス家の嫡男でありながら、父からその役目を継げない。だがしかし一方で、ルークは今、王国で最も多言語を話せる人間といって間違いない。
一度聞いた言語を全て覚えるという、特技なのか魔力の持てる技か。いずれかはハッキリとしないが、その力を持って外交官としての修行を積んでいる最中だ。外交官として実績を詰んだ後に、国外情勢に歴代で最も詳しい宰相になる、というのがルークの目標であり、その間をライルが担うとライル自身が決めている。ミストレス家とライルの間で、既に口約束ではあるものの取り決めているのだ。そして外交官としての仕事も徐々にこなし、ルーク自身の実績も多少ある。騒ぐだけの外野など、ルークにとっては羽虫も同様。外野は騒いだ後で、ルークに実績という名の拳で殴られ返り討ちにあうのだ。
「わたし達姉妹のことで皆さまにはご迷惑おかけいたします。…どうかそれでも、仲良くしてくださるとうれしいわ。」
「もちろんです、ジェーン様。」
オロオロとするグローリアに代わり、ジェーンが深くエリス達へ頭を下げた。エリスがふわりと微笑んで頷き、その場は穏やかにまとまった。
「早く食べないと、そろそろ午後の授業です。」
「エステル嬢の言う通りだな。食べよう。」
すっかり長々と話し込んでいた面々は、エステルの淡々とした指摘に慌てて手を動かした。午後の授業開始の鐘が鳴るまで、あと二十分。全員移動教室がないのは助かったが、片づけは影を使って移動できるカルロスに全員分任せざるを得ないだろう。
はしたなくない程度に大急ぎでサンドイッチを咀嚼していたエリスは、紅茶で急いでかけらを飲み干しながら、そうだ、と手を叩いた。
「ジェーン様、グローリア様。今日の放課後はわたくし用事がございまして…今日はできれば寮まではどなたかとお戻りになっていただければと思うのです。」
「それなら自分とケイティ様が適任では。」
「そうですね。私たちはグローリア様と同じクラスですし。」
「お二人のご負担にならないのならば、わたし達と帰っていただけます?」
「自分たちも戻りますし、迷惑など。」
「ならぜひ!あたしクラスの方とまだあまり話せていなかったから…お二人と仲良くなりたいわ。」
エステルの発案に、ジェーンは慎重に、グローリアは喜びもあらわに乗った。それをエリスは微笑ましく見守る。
「放課後の用事って医務室関連か?」
「いえ、授業のことで教授に確認がありまして。」
「なるほどな。」
多くは語らないエリスの発言に、カルロスはおそらく当たりをつけたのだろう。それ以上の追及はしなかった。
そこから大慌てでガゼボから教室へ移動し、各々午後の授業を受けた。本日のエリスとジェーンのクラスは、精霊に関する講義と、魔術の発動に用いる術式の構築に関する座学が主だったカリキュラムだった。さすがのジェーンも術式の構築は手間取ったらしく、授業中に数度、照れながらエリスに質問をしてきた。最もエリスも本来は複雑な術式を必要としない混魔である。あまり得意ではないものの、どうにか授業をこなした。
そうこうしているうちに、気づけばあっという間に放課後を迎えた。フルール姉妹をエステルとケイティに託し、エリスは一人、薬学の準備室に足を運ぶ。薬学準備室は、やや男子寮寄りの位置にある。準備室だけが並ぶ静かな廊下で、エリスはお目当ての部屋の扉をノックした。
「教授、エリス・クラウンです。今少々よろしいでしょうか?」
「お入りなさい。」
「失礼いたします。」
薬学準備室は、一部薬品を保管しているために少し室温が低い。扉を開けると、ひやりとした空気がエリスを迎え入れた。一階であることと、窓のすぐ外の花壇に大木が植わっていることもあり、日当たりもあまり良くはない。若干薄暗く、かつ片側の壁一面に薬品のボトルが所狭しと並べられている室内は、見ようによっては不気味だ。ただしこの部屋に慣れてしまっているエリスは、何一つ気にすることなく、部屋の奥まで進んだ。
「よく来ましたね、クラウンさん。お掛けなさい。」
「失礼いたします。」
「さて、聖女姉妹について何かありましたか?」
「まだ大事は起きておりませんが…嵐の前の静けさのようでして、教授に念のためご相談させていただければと思いお時間を頂きました。」
元々の建前であった授業に関する話、は一切省き、二人はすぐに膝を突き合わせて話し始めた。事前に部屋には盗聴防止の魔術が仕込んであったため遠慮はいらない。第一王子が今後の学内の情勢に警戒していること、カルロス達からの協力は恙なく得られたこと。そして―――警戒していた魔力持ちたちが、気味が悪いほど静かなこと。かいつまんで報告すると、イルシュナーは眉間にそっとしわを寄せた。
ちなみにイルシュナー、学内で姓は知られるが名を知る者は生徒におらず、また性別も不明という割合謎に包まれた人物だ。無表情でいれば冷たいかんばせは、よくできた学生を褒める際には花が咲きほころんだような笑みを浮かべる。イルシュナーという家名は貴族に存在しないものの、美貌と実力で学生たちから、得体は知れないがそこも含めて憧れられている。最も王立学園、得体は知れずとも怪しい人物が教職を担うはずがないと、王家への無意識の信頼の表れでもある。
「嵐の前の静けさとは言い得て妙でしょう。」
「…何か起こると、予見されていらっしゃるのですか?」
「良いご身分のはずのご子息たちがコソコソしていますからね。間もなく動きがあるでしょう。おそらくはキール殿が笑顔で圧をかけて回っているために、彼らにしては珍しく準備をする必要性に気づいてしまっただけだと思われます。」
「なるほど。」
イルシュナーのやや毒のある解説に、エリスはなるほど、と頷きこめかみを抑えた。つまるところ牽制するつもりだったキールの対応が、かえって相手方に必要のない知恵を与えてしまったことになる。もっともキールにも悪気はなく、むしろできることをやろうとしたものの、それにより斜め四十五度の結果がはじき出されてしまったというだけだろう。
「ではまだしばらくは気が抜けませんね…ジェーン様は読みにくいですが、グローリア様からは一定の信頼を頂けていると思います。また、お二方へは学内の情勢もお伝え済みです。よほどのことがない限りは、そうそう悪い方に転がらないかと思いますが…。」
「用心するに越したことはないでしょう。あとは…こちらでもなるべく、問題を起こしそうな一派は控えておきましょう。」
「ありがとうございます。できればリストに関してはわたくしではなく第一王子へお渡しくださいませ。必要であれば殿下へはわたくしから、リストのご共有がある旨をお伝えいたしますので。」
「そう、ですね…。お願いできますか。来週までには殿下にお持ちできるかと。」
「かしこまりました。」
一息にそこまで話し込んでから、イルシュナーはポンと手を打った。
「ああ、そういえば。お茶もお出しせずに…失礼しました。」
「いえ教授、お構いなく。」
「そう仰らず。新しい薬草茶の感想をいただければ嬉しいのですが。」
「そういうことでしたら、喜んで。」
もてなしもせずに失礼した、ということらしいのだが、エリスからすれば相談に来ている身であり、もてなされる必要もあまり感じてはいなかった。ただしイルシュナーの側からはそうではないらしい。イルシュナーが趣味でブレンドしているという薬草茶の新作を試す、という口実まで作られてはもてなされないわけにはいかない。諦めてエリスは、腰かけていた椅子の上ではしたなくない程度に姿勢を崩した。
イルシュナーの薬草茶を予定外に御馳走になって、エリスが薬学準備室を出ると、既に入室からに時間近く経っていた。廊下に面した窓から外に目をやれば、とっぷりと日も暮れている。トラブルが起これば、エリスの蝶を通じて連絡が入るだろうがそれもない。平和だ。とはいえのんびりしている暇も必要性もない。足早に女子寮へと歩を進める。
―――パリン、
不意に、微かに何かが割れる音がした。ただそれは、エリスの聴力の範疇で何かが割れたわけではない。
「…動き始めましたか、このタイミングで。」
エリスが吐いた溜息は大層重たいものだった。それもそのはず、エリスが張った結界が、何者かによって傷つけられた音だったからだ。エリスの血液も練りこんだ魔術で張られた結界は、ある程度の距離にいれば、術者は結界に異常があったときに察知できる。
エリスの姿が空間に溶ける。結界が『攻撃を受けた』と認識した時、そこに術者を転移させる術をエリスは元々組み込んでいた。転移する間際に、キールとカルロスへ魔力の蝶を飛ばすのは忘れない。そうしてエリスが次に目を開けたとき、エリスが立っていたのは女子寮へとつながる渡り廊下だった。




