25.己の手で得ていたもの
キールが魔力暴走を起こしてから三週間。
アンカースからの許可を得て、エリスはようやく学園に復帰した。キールも同時に学園に戻る。キールが魔力暴走を起こしたことは、基本的に伏せられている。知っているのは、教師とアンカースはじめ当時駆けつけた宮廷魔術師、それから一部の大臣含む国の中枢のみだ。
キールの先祖返りとしての膨大な魔力は、時として外交カードにもなる。しかも戦力としても、外交官としても一定以上の実績があり、国として失うには惜しい人材だ。学園としても教員が魔力暴走を起こしたというのは不祥事ではないもののショッキングなニュースでしかない。学園に通う先祖返りが、自分の魔力に振り回されながらも自信喪失せず、魔力コントロールに前向きに取り組むのに、学園の教員に先祖返りであるキールが名を連ねていることも一役買っていたたためだ。方々の思惑が合致し、あの騒動は全く別の話に置き換えられることになったのである。
「…ええと、最後にもう一度整理しておこう。学園に魔獣が侵入、宮廷魔術師に応援を頼み、ボクが足止め役として医務室に魔獣を隔離した、」
「イルシュナー教授経由で、キール様から応援要請を受け、わたくしが駆けつけ、二人で魔獣に封印をかけ、限界近いところでアンカース様たちが到着された。」
「うん、そう。…うーん、これ無理がないかなあ。大丈夫かな本当に…。」
「まあ…無理がないとは言えないですが…強力な魔獣の侵入は過去にもあったそうですし、大丈夫だと思うしかないですよ。」
「そうだよねえ…。あ、侵入したのはオオカミ型の魔獣で合っていたよね?」
「合ってます。」
ガラガラと音を立てる馬車の上、キールとエリスは向かい合っていた。
魔族と異なり、ヒトと交わらない魔力を持つ存在。それが魔獣だ。力のないものは獣を模っていても実態を持たないモヤのようなもので、力のある魔獣は実態を持つ。特に大型で実態を持つものほど強力だ。過去にもオオカミ、猛禽類など大型の動物の姿をした魔獣が学園に紛れ込んだことがあるという。その際の被害は計り知れない。魔獣に食い殺された教員、学生もいる。
キールとエリスにしてみれば、そんな凶暴な存在と何故に二人で立ち向かったことにされているのだと首を傾げるほかないのだが、あの時学園にいたほぼ全員が、暴走したキールの膨大な魔力の残滓に触れている。魔獣の侵入があった、としてしまうのが一番カモフラージュとして手っ取り早かったらしい。
「魔獣を封じている際、キール様の魔力が限界を超えかけたのでわたくしの血を差し上げて眷属に、そこから先は本来通りと。」
「…まあエリスの血をボクが飲んで、それがきっかけで婚約…っていうのに自然に繋げるならこのシナリオしかないのかあ。」
長く学園を休むため、エリスとキールの体がそれだけの休息が必要なことは周知されていた。さらに王城で治癒を受けているため各家への見舞いの自粛令まで出されたという。王城での治癒、となれば確かにちょっとやそっとの騒ぎでないことは確定する。魔獣の侵入というのは、当人たちの困惑さえ脇に置いておけばとても良い筋書きだった。
「まあ、細かい部分は両殿下が広めておいてくれているだろうし、どうにかなると思うしかないね。」
「…開き直りも大切ですよね。」
悟りを開いたような表情で、キールとエリスは顔を見合わせて頷き合った。ちょうど、馬車が止まる。先に馬車を降りたキールに手を引かれ、エリスは久方ぶりに学園の敷居を跨いだ。
「エリス様!!」
「グローリア様…? わっ、」
正門を抜け、学園内のメインストリートへ。キールに手を引かれながら学舎へと足を進めていたエリスの耳が、駆け寄る足音を拾う。と思えば、気づけば走り寄って来たグローリアに、突然飛び付くように抱き付かれた。衝撃を支えきれずにいたエリスの背を、咄嗟にキールが支えたことでグローリアとエリスは地面に転がるのを回避した。
「どうなさったのです?」
「どう、はこちらのセリフですエリス様! 心配…心配したんですから!!」
うるうると今にもこぼれ落ちそうなほどの涙を空色の瞳いっぱいに湛えて、グローリアはエリスにしがみついたまま言う。思わぬ涙声での歓迎に、エリスは思わずキールと顔を見合わせた。それから意識して柔らかい声でグローリアを宥める。背中をゆるく撫でさするのも忘れない。
「ごめんなさい、グローリア様。急なことだったので…でも、わたくし達は無事ですから。ね、安心してください。」
「ううう、なんでエリス様を巻き込んだんですかスタインシュイン先生!!」
「えっ!? あ、いや…ボクも咄嗟のことで…エリス以外に頼れる人が思い浮かばなくて…、」
「そこは! 学生ではなく教職員の皆様で対応されるべきことでは!?」
「いやあの…はい。」
「グローリア様、落ち着いて。わたくしはわたくしの意思でキール様の元へ向かいました。だからキール様を責めないでください。」
グローリアの指摘に、指示された筋書きの一番のつっこみどころはそこだよな、と納得してしまいキールはうまい反応ができなかった。思わずグローリアの抗議に頷いてしまう。とうとう涙を溢し始めたグローリアの目元をハンカチで拭ってやりつつ、エリスはやんわりとキールを援護した。それがまたグローリアの癪に触ったようで、エリスの制服の袖をぎゅっと握り込みつつ、泣きながらキールを睨み上げる。とほほ、と言わんばかりの表情でキールは頬を掻いてその視線を受け止めた。
「おーおー、やってる。」
「カルロス様。」
「おかえりエリス嬢。それからスタインシュイン先生。ご婚約おめでとう。」
「あら耳がお早い。ありがとうございます、カルロス様。」
「エリス嬢は午前の授業はなしだそうだ。グローリア嬢を連れて女子寮へ。マダム・クレイが呼んでるぞ。」
「かしこまりました。グローリア様、行きましょう? キール様、また後で。」
「マダム・クレイによろしく伝えて。あとで挨拶に伺うからと。」
「かしこまりました。」
すんすんと鼻をならすグローリアを半ば抱えるようにして、エリスは久しぶりの女子寮への道を歩く。遠くなる視界の端で、カルロスがキールを一発蹴り上げているように見えたが見なかったことにした。カルロスは幼馴染だ。心配の言葉がなくとも、気遣わしげな視線で、大体の心中は察した。キールとカルロスはエリスがいるからこそ交流が生まれた仲だ。おかえりの言葉の際も、キールはついでと言わんばかりだった。
「ふふ、」
「…どうしたの? エリス様。」
「いえ…わたくし、周りの方にとても恵まれているなあと、しみじみ思って。」
「…そう。」
周りの方、に自分も言外に含まれていることに気づいたらしい。涙の引いたグローリアの頬にほんのりと朱がさす。それを微笑ましく見ながら、エリスは久しぶりに女子寮に戻ってきた。一瞬、寮付近に張り巡らせた結界に異常がないか魔力を揺らめかせたのは無意識の行動だった。エリスの魔力に呼応してか、バタバタと寮の中で複数の足音がする。
「エリスさん!!!」
「ただいま戻りました、マダム・クレイ。」
比較的自分は、この貴婦人の慌てた姿を見る機会が多いなと駆け寄ってきたマダム・クレイに、エリスは大人しく抱き締められた。バタバタとした足音は続き、ジェーンやケイティ、エステルといったエリスが普段からともに行動することの多い女学生達がわらわらと集まる。
「おかえりなさい、エリスさん!」
「ええ、ただいま戻りました。」
王城で数日治療を受けるほど、怪我や消耗が激しかったに違いないエリスを、エリスの想定を大幅に超える人数が心配していた。エリスと特に親しい数人は、エリスの授業の遅れを取り戻す一環として、本人達が授業を十二分に理解しており半日程度授業を受けなくともどうにかなるというお墨付きを得て、こうしてエリスを迎えに集まったらしい。もちろん、普段から仲の良い人間だけではない。何人かは、おそらくキールとの婚約話でも聞きたいのだろう。野次馬のような気持ちで参加している令嬢もいたが、エリスはそれを微笑んでかわす。
まさか自分が寮母のうちに、学生をこんな危険な目に遭わせることになるなんて、と涙ぐんでエリスから離れなかったマダム・クレイが落ち着いたタイミングで、全員で寮の談話室に移動した。エリスの右側にはマダム・クレイ。左側はグローリアがひたすら陣取っている。二人にそれそれ両手を握られて、エリスは戸惑ったような微笑みを浮かべながらソファーに腰掛けた。
「…リア、少しエリス様から離れなさい。」
「……。」
「…ごめんなさい、エリス様。しばらくそのままでも良いかしら?」
「ええ、構いませんよ。」
構うけれども、とは決して口にしない。皆が皆、エリスを心配していたことは十二分に伝わった。マダム・クレイの涙なぞ、おそらく真正面から見た学生は自分くらいのものだろうとエリスはぼんやり思いつつ、両隣の二人の手をそっと握り返した。
「あ、マダム。後ほどキール様が伺いたいと仰っていました。先にお伝えだけ。」
「…そう。」
「マダム?」
「エリスさんを巻き込んだ若造が何のご用かしらね…?」
「マダム…!!」
一瞬にして冷えたマダム・クレイの声音に、エリスは慌てて繋いだままの手に力を込める。しがみつくような状態になったグローリアを気にしつつも、ほんの少し体をマダム・クレイ側に傾け、困った顔で覗き込む。
「巻き込まれたのではないんです、マダム。…話を聞いていただいても?」
「…エリスさんがそう言うのなら。」
「ありがとうございます。」
本当のことは話せない。けれども、このままではキールが教員の立場でありながらエリスを巻き込んだだけに見えてしまう。エリスの魔力量や幼少期からの関係性を知っている人物達は、多少は腑に落ちなくとも、納得はしてくれる。けれどそれまでだ。理解は得られない。瞬間的に思考を回して、エリスはそっと息を吸った。
「…あまり、人にお聞かせするようなお話ではなかったのですが…キール様の名誉のために。」
幼少期の歪な家庭環境。表に出すのは恥と秘めていたが、キールのためならとエリスは語る。自分に自分らしい生き方を説いてくれたキールに報いたくて、巻き込まれたのではなく巻き込んでもらったのだと、前提が違うのだとエリスは話した。全てを語ったわけではないし、話の辻褄を合わせるために、キールに何かあった時に自分を呼んで欲しいと約束をしてたと一つだけフェイクを混ぜる。
「だから今回の件、わたくしは単にわたくしのわがままを貫いただけです。キール様を悪く仰らないでください。」
「…つらい話をさせてしまったわね。」
「いえ。わたくしのわがままなのに、キール様が誤解されたままなのは嫌だっただけなので…それに過去は過去です。」
「そう…。」
過去は過去、と微笑むエリスの表情があまりに晴れやかで、マダム・クレイは一瞬目を大きくして、それから仕方なさそうに笑った。頑張ったのね、とエリスと繋いだ手と逆の手で、そっとエリスの頭を撫でる。
「エリスさんは本当に頑張り屋さんなのね。」
「え…。」
「過去を恨まず、卑屈にならず、努力を続けることができる。こんなに頑張り屋さんでよくできた娘さん、なかなかいないわ。…よく、頑張りましたね。」
その言葉は、今回の件というより、エリスのこれまでの人生に向けられた言葉だった。家族とキール以外で初めて他人に頭を撫でられた衝撃で固まっていたエリスは、今度こそ声を発することもできない。繋がっていた手を優しく解いて、マダム・クレイはそっとエリスを抱き締める。背中を撫でる、大人の手のひらの温度に、エリスは一粒、涙を溢した。
嗚呼、と思う。ついぞ、両親とまともな関係は築けないまま、縁が絶たれた。けれどエリスを庇護する対象として抱き締める大人は、エリスの努力を、正当に評価してくれる人間は近くにいた。そして同じ目線で、自分を心配し、今もエリスの生い立ちにうっすらと涙を浮かべてくれる友人にも、いつの間にか恵まれていた。これはきっと、エリス自身がこれまで積み重ねてきたものの結果だ。そう思えるのは両親と決別したからか。何はさておき、それだけで息がしやすく感じる。
優しく自分を抱き締めるマダム・クレイの腕にそっと手を添えて、エリスは心から微笑んでありがとうございますと呟いた。




