第7話 本音
アリアとアルヴィスが狩った鹿のそばに向かうと、奥に小さな泉が見えた。
おそらく鹿はこの泉の水を飲みに来ていたのだろう。
アルヴィスは慣れた様子で手際よく鹿を解体し、角や肉など、必要なものだけを袋に分けて入れていた。
解体を終えたアルヴィスは泉の水で手についた血を洗い流し、アリアは倒木に腰掛けながら、丸まった彼の背中をぼんやりと見つめた。
「なぁ。ずっと聞いてみたかったんだけど、アルヴィスは実家があんまり好きじゃなかったりする?」
「……なぜです?」
アルヴィスは泉に手を浸したまま、動きを止めた。
表情は見えないが『なぜ』と問う声はどこかピリピリとして、張り詰めているようだ。
あまり聞かれたくない話なのかもしれない。
アリアは一瞬ためらうが、そのまま踏み込む。
「だって、ノヴァリー家の評価を上げようとしないどころか、評判が悪くなりそうなことも進んでするから」
アリアの返答に、アルヴィスは泉から手を抜いて立ち上がり振り返る。
そこにいつもの笑みはなく、はぐらかしやからかいなしの本音で話そうとしていることが、アリアにも見てとれた。
「家名と爵位、名誉が第一のこの国で、家が嫌いで煩わしいと言ったら殿下はおかしいと笑いますか? それとも、貴族の子として生まれたのに贅沢だと不愉快になるでしょうか」
「不愉快? なんで? 別になんとも思わないよ。人それぞれ大切なものや考えが違うのは当たり前のことだし、誰が何を言おうと、好きなもんは好き、嫌いなもんは嫌い、でいいんじゃないか?」
「そうでした。殿下はそういうお方でしたね。お隣、よろしいですか?」
穏やかなアルヴィスの問いかけにアリアはうなずき、彼は隣に腰掛けた。
「父と兄は他の領地にならい、ノヴァリー領の森を壊し、開拓を進めようとしているんです。森や、森に住まう動植物がノヴァリーの領地と国を豊かにしているのも気づかずに」
股の間で手を組んだアルヴィスは視線を落として歯噛みした。
森とノヴァリー領を愛しているのだろう。許せないという想いが、言葉になくとも伝わってくるようだとアリアは思った。
「森の開拓、かぁ。成功して豊かになった領地はいくつもあるもんな。住める土地が増えて、畑作や放牧も可能になったりしてさ。でも、それも一時的なことで、長い目で見たらどうなるか分からない、って話を聞いたことがある」
アリアの返答にアルヴィスは静かに首肯し、視線を落とした。
「同じように忠告はしましたが、臆病者と罵られて終わりました。平野には平野の、山岳には山岳の、森には森の生き方があると僕は思いますし、動植物には適する環境というものがあります。無理矢理形を当てはめるべきではないのに、愚かな父と兄はそれを忘れている……」
森にいるアルヴィスは生き生きしていて、綺麗だとさえアリアは思う。おそらく、彼の本来いるべき場所は森なのだ。ノヴァリーの家でも、城でもないのだろう。
――そうすると私の居場所ってどこなんだろう。あの塔、なのかな。
考えた途端、アリアは胸が冷たく凍える心地がした。
これまでもこれからも、死ぬまで塔でひとり毒の勉強を続けて、人知れず兄を守り続ける。
それでいい……いや、むしろそれがいいとさえ、アリアは思っていたはずなのに。
――なんでだろう。いまは、塔の暮らしに戻るのが怖い。ねぇ兄様、お願い。まだ帰ってこないで……。
はっとしたアリアは『何をばかなことを考えているのか』と、左右に顔を振った。
いまの王子の姿は仮初でしかなく、この生活も期限つきで、いつかは終わるものなのに。
アリアは胸の奥に生まれた淀みを誤魔化すように笑う。
「適する環境がある、かぁ。それはアルヴィスにも言えることかもな」
「僕にも、ですか?」
「そう。いるべき場所があるんだと思う。アルヴィスにも。それと……俺にも」
アリアは呟くように言い、アルヴィスの顔に手を伸ばした。
「なぁ、ここに血ついてるよ」
手のひらでアルヴィスの頬に触れて、鹿の血を拭う。
自分の柔らかな頬とは違う、硬い感触がした。
「え、あ……はい……?」
アルヴィスが目を泳がせて動揺するのを見て、アリアは『余計なことをしちゃったかな』と、困ったように笑った。
「悪い、驚かせた」
「……いえ、こちらこそ申し訳ありません。手を汚させてしまいましたね」
アルヴィスは左手で支えるようにアリアの手を持ち、ハンカチーフで丁寧に優しく血を拭う。
普段アルヴィスの手を意識したことはなかったが、比べてみると大きな手だとわかる。長い指は硬くて節があって、力強い。自分の手とはまるで違う。剣や弓を使う人の手だ、とアリアは彼の手を見つめる。
アルヴィスに触れられたところからじんわりと温かい熱がつたって、互いの温度が混じり合っていくのを感じた。
――心地よくて、なんだかどきどきする……あともう少しだけ、触れていてくれないかな。
「あの、殿下……血は全て拭きとりましたが?」
困惑したようなアルヴィスの声が聞こえる。
ぼんやりと遠い目をしていたアリアはすぐに我に返り、アルヴィスの視線の先に目を向けた。
そこにあったのは、アルヴィスの指を握りしめる自分の手。
離れがたいと思うあまり、無意識に指を掴んでいたのだろう。
「俺、何してるんだろう。ごめんな。拭いてくれてありがとう」
「いえ、構いません。そろそろ時間ですし、城に戻りましょう」
「楽しかったから、帰るの寂しくなるな……。また、一緒に来れるのかな」
――私の本来の居場所は、城はずれの塔。兄様が帰ってきたら、ここには来れない。アルヴィスとはもう、二度と会えない。
立ち上がったアルヴィスの隣で、アリアは倒木に腰掛けたまま静かにうつむいた。
「近場ですし、殿下の仕事の進み具合次第ですぐに来れますが?」
「そういうことじゃないんだ。あのさ、アルヴィスは今日のことをずっと覚えていてくれるか?」
アリアは眉を落として、静かに笑う。
彼の記憶の中では、アリアではなく兄の姿だとしても構わない。それでもいいから、今日のことを一生覚えていてほしい。
自分と同じように、彼にとっても今日が『かけがえのない特別な記憶』であってほしい。
そう強く願ったのだ。
「よくわかりませんが、そんなに森を気に入ったのなら、特別な思い出にする必要はないでしょう? 近いうちにまたお誘いしますよ。約束します」
アルヴィスは不安げなアリアの前で片膝をついて小指を前に出してくる。
いつものアルヴィスらしくない態度にアリアは目を瞬かせた。
そんな態度をとらせるほどに自分は弱っていたのかと思うのと同時に、彼の気づかいに胸が温かくなる。
自分の小指をおそるおそるアルヴィスの小指に絡めたアリアは、くすぐったそうに笑った。
「ありがとう」
――ねぇ、兄様。兄様の進む道はいつも正しかったし、判断を間違えたことだってなかった。でも、今回だけは誤解だよ。アルヴィスは兄様が思うような、悪い人じゃない。
アリアはこの日初めて、兄に対して怒りに似た感情を抱いたのだった。




