第3話 王族を狙う蛇
「大臣、階段から落ちたのか!? 怪我はしてないか?」
すぐさま駆け寄ったアリアは、カランド大臣の隣で膝をつく。
近くに人がいると思っていなかったのだろう。大臣は苦笑いを浮かべて、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「猫に驚いて足を踏み外しました。幸い怪我はなさそうです。いやはや、お恥ずかしい」
「なんと、それは災難でしたね」
あとからやってきたアルヴィスが、座り込んだままの大臣に手を差し伸べる。
だが、大臣はアルヴィスの顔を睨むように見つめるばかりで、少しも動こうとしない。
やがて「結構です」と小さく告げながら、一人で立ち上がった。
「まったく、あの猫のせいでとんだ赤っ恥です。腕に発疹まで出てしまいましたよ」
「発疹?」
「どうも動物は苦手で。ああ、そんなことよりも! 殿下にお伝えしたいことがあって参りました」
大臣は、ちらとアルヴィスに視線を送る。アルヴィスは気を回したようで、アリアたちから少し離れた木陰へ移動した。
「伝えたいことって、なんだ? 側近にも聞かれたくないようなものなのか?」
アリアの問いかけにカランド大臣はうなずいて、真剣な表情を浮かべた。
「殿下。側近からアルヴィスを外すチャンスです。今回の外出でミスをでっちあげ、罪をかぶせましょう。王族を狙う毒蛇をふところに招き入れるなど、正気の沙汰ではありません。なにか弱みを握られてしまったのでしょう?」
『毒蛇』という単語にアリアはぴくりと反応し、遠い記憶を手繰り寄せる。
――そういえば、兄様も過去に『王族を狙う毒蛇』について話していたような。
あれは、ベルカントが貴族学園を卒業してまだ間もない頃のこと。
突然兄が神妙な面持ちで蛇について意味不明な問いかけをしてきたことを、アリアは覚えていたのだ。
兄から尋ねられた内容は、ムジカ王国に生息する毒蛇である『ムジカヘビがもしも王族を狙っていたら、アリアはどうするか』ということ。
ムジカヘビは執念深く、致死性はないが牙に神経毒を持っている。
守りを固めて城に侵入できないようにするか、先手必勝で二度と刃向かえないように攻撃するか。
どちらにすべきかベルカントに尋ねられたアリアは、どちらの選択もとらず『そばに置いて大切に飼う』と答えた。
ムジカヘビは、毒虫を食すことにより身体に毒を蓄積するとされている。
つまり、餌を管理すれば毒が生成されることはない。そのうえ、落ち着いた環境下で育てれば、獰猛さも消失するとされているのだ。
老医者のノートでムジカヘビの生態を知っていたからこそ、アリアは『飼う』と答えたし、他意はなかった。
だが、いまになってアリアは考える。
ベルカントの問いは、本当にヘビについて尋ねたかったのだろうか。もしや、何か別の意図が込められていたのではないか、と。
――そういえば、兄様はもう一つおかしなことを言っていた。
黒い頭に、金の瞳をした狡猾なヘビが、城内に侵入しようと企んでいるのだ、と。
ムジカヘビの死骸を何匹か塔内で保管しているアリアだが、そのような色合いのものは見たことがなかった。
だが、いまは黒と金の組み合わせに心当たりがある。
漆黒の髪と黄金の瞳……側近、アルヴィス・ノヴァリーの色彩。
ベルカントは、入れ替わり中に難敵となりうるアルヴィス・ノヴァリーの扱いを、アリア自身に選ばせたのだろう。
入れ替わりの計画をアリアに気取られないよう、わざわざヘビという暗喩まで用いて。
――ああ、そうか……。兄様はアルヴィスを狡猾なムジカヘビのように考えて疑っていた。側近に選んだのだって、私が『飼う』と答えたから。ただそれだけ。兄様は、アルヴィスを少しも信頼していなかったんだ。
いつも正しく、道を間違えない大好きな兄がアルヴィスを疑い、信頼できないと判断している。
その事実に胸が痛み、アリアは視線を落としてうつむいた。
「殿下、聞いておられますか? 今回の外出はノヴァリーの魔の手から離れる千載一遇のチャンスで……」
「大臣。俺は、弱みなんか一つも握られていないよ。アルヴィスはいいやつで信頼できる。だから、いつもそばにいてもらってる。ただそれだけなんだ」
「ですが、あのノヴァリーの……」
食い下がる大臣に、アリアはむっと口を曲げた。
確かに彼は、政敵ノヴァリー家の息子。だが、それがなんだというのだ。自分がそばで見てきた彼は、悪でも敵でもなんでもなかった。
なぜ、敵というポジションでしか物事を判断しないのか。なぜ、彼自身を、彼の行動を、彼の考えを知ろうとしない。
大好きで尊敬していたはずの大臣に、腹の底からぐつぐつと熱いものが込み上げてきた。
「心配してくれるのはありがたいけど、これ以上アルヴィスを侮辱するのはやめてくれ。俺はもう行くから」
「お待ちください、殿下!」
制止も聞かず、アリアは逃げるように大臣のもとを離れる。そのまま待機していたアルヴィスの手をとり、無言のままずかずかと歩き出した。
「殿下。ベルカント王子殿下!」
困惑したようなアルヴィスの声に、アリアはようやく足を止めて我に返った。
「……悪い、どうした?」
「どこに行かれるおつもりです? そちらは厩への道ではありませんよ」
顔を上げてみると、バラ園の入口が見える。何も考えずに歩いていたせいで、道を間違えてしまったようだ。
「ごめん。頭に血が上ってた」
「いえ、構いませんが、ちゃんと聞かなくてよかったのです?」
「何を」
「お小言を、ですよ。年配者の忠告には耳を傾けたほうがよいのでは?」
こてんと首をかしげたアルヴィスが微笑む。
相変わらず感情は読めないが、嘘くさい笑顔の下にポジティブな感情が隠れているとは到底思えなかった。
「さっきの話、聞かれてたか」
誰にも聞かれたくなかったのにとアリアは眉を落とし、アルヴィスはあきれたようにため息を吐き出した。
「なぜそうまでして僕をかばうんです? 貴方の立場が悪くなるだけでしょう」
「かばう……? 違うよ。誤解を訂正してるだけだろ。たったこれだけのことで立場って悪くなるもんなのか?」
未だ苛立ちが収まらないアリアは、睨みつけるようにアルヴィスを見つめる。
刺々しい声色で問いかけられたアルヴィスは考え込むように唸り、あごに手をあてて首をひねった。
「そんなことをしたら、立場が悪くなるに決まっている……んでしょうか……?」
「ぷはっ、なんで俺に聞き返してるんだよ」
自信なさげに話すアルヴィスがめずらしくて、アリアは噴き出すように笑う。不思議と先ほどまでの苛立ちは消え去り、気分も軽くなっていた。
「ふふっ。以前は殿下をつまらない人物と思っていましたが、いまではよほど僕のほうが常識に囚われているのかもしれませんね」
柔らかな笑顔を浮かべるアルヴィスに、アリアの視線は釘付けになる。
いつもの作り笑顔とは全く異なる、滅多に見ることのできない、柔らかく自然な笑顔だ。
「俺、アルヴィスのその顔、好きだなぁ」
「え……!?」
「もっと笑えばいいのに」
――そうすればきっと、周りも変な誤解なんてしなくなるし、アルヴィスと親しくなりたいと思う人だって出てくるはず。
言動や態度こそ問題ありだが、アルヴィスは仕事には真面目で、不正や手抜きは一切しない。
それなのに周りから誤解されているのは、アリアにとって悔しく、納得がいかないことだった。
「もっと笑う、ですか? いつも笑顔でいると思いますが。周りからは、胡散臭いと大変好評です。毎度のことながら、殿下はおかしなことをおっしゃいますね」
――違う。いまの顔は、いつもの顔とは違うんだ。柔らかくて優しくて、綺麗で。見ていると、胸の奥がきゅっとなるんだよ。
楽しげに笑うアルヴィスに、アリアはなぜだか頬が熱くなる。
それまでなんとも思わなかったのに、手を繋ぎっぱなしでいたことが恥ずかしく思えて、慌てて離れた。
「悪い。また『誰かに見られたら、あらぬ誤解を生むからやめてくれ』って言われちゃうな」
「いえ、僕は噂になっても構いませんよ。殿下の困った顔も可愛らしくて好きですから、間近で拝見できそうで、役得です」
じぃと顔を見つめてくるアルヴィスに、アリアは『どうせ本心ではないくせに』と唇を尖らせる。
とはいえ、本当に可愛いと思われていても、いまは代役中の身。自分も恋愛を禁じられているから困るはずなのだが。
「アルヴィス。お前、さっきの言葉を真似して、俺をからかってるだろ」
「さぁ、どうでしょうね」
真意を見せない、人をおちょくったような態度に『そういうところが誤解されるんじゃないか』と、アリアはあきれ返り、むくれたのだった。




