第2話 猫
「今日は、レミィさんはよろしいのですか?」
隣を歩くアルヴィスに尋ねられ、アリアはさみしげに眉を落としてうなずいた。
「行きたがってたけど、申請が通らなかったんだ。いつも世話になってるから、何か土産になるようなものを持って帰ろうと思ってるよ」
「なるほど、そうでしたか。いまの時期なら、運がよければ木苺があるかもしれませんね。おや……あれはなんでしょう」
エントランスを抜けて中庭に出るなり、アルヴィスは呟き、アリアも庭の植木に視線を送る。
すると、ジャンプをしても届かないほどの枝の上に、もふもふとした丸い塊が乗っており、細かく震えているのが見えた。
「もしかして猫、か……?」
どうやら中庭に住み着いている猫が、木から降りられなくなっているようだ。
野良猫同士でケンカでもして、逃げているうちにうっかり木に登ってしまったのだろう。
「可哀想に……すぐ助けてやるからな」
「おやめください、怪我でもしたらどうするんです!?」
「だけど、アルヴィスは剣とか弓とか装備をとくのが大変じゃないか。大丈夫、そんなに高くないし、俺にまかせろ! 木登りは得意なんだ」
アルヴィスが止めるのも聞かず、アリアは器用に木を登り始める。
最後に木登りをしたのはずいぶんと昔のことだったが、カランド大臣と遊んでいた幼い頃のように、スルスルと登ることができた。
「ほら、上手いもんだろ!」
アリアは震える猫を抱きかかえ、堂々とアルヴィスに見せつける。誇らしげに胸を張っていたアリアだったが、足元を見て表情を曇らせた。
「なぁどうしよう、アルヴィス……」
「……今度はなんです」
「俺、片手が使えないこの状態で、どうやって降りればいいかわからない」
足下から深いため息が聞こえる。
危険な高さというほどではないため一か八か飛び降りてもいいのだが、上手く着地できる保証はない。
どうしたものかとアリアが思いあぐねていると、アルヴィスは何かを思いついたような顔をして装備をときはじめ、にっこりと笑みを浮かべた。
「アルヴィス、何かいい案でもあるのか?」
アリアの問いかけにアルヴィスは大きくうなずいて、両手を広げた。
「どうぞ、飛び降りていいですよ。抱きとめて差し上げます」
楽しげに笑うアルヴィスに、アリアは無言のまま目を見開く。
抱きとめる、とアルヴィスは言うが、上手く受け止めてもらえるとは限らない。
さらに、決してガタイがいいとは言えないアルヴィスに飛び込むのもまた、勇気が必要だ。
それを理解しているからこそ、アルヴィスはあえて飛び降りの提案をしている。
考えなしに木登りをした仕返しも兼ねて、困惑するアリアの反応を楽しんでいるのだろう。
「ご安心ください、冗談ですよ。すぐに梯子を……」
「よし、わかった! ちょっと怖いけど、信じるよ。猫もいるから背中からいくぞ」
「はい!?」
アリアは『冗談』という単語が聞き取れていなかったようで、猫を胸に抱きかかえる。
不安から険しい顔をしたアリアは、勝手にカウントをし始めた。
「殿下、貴方まさか……!」
「さん、にぃ、いち……いくぞ!」
目をつむって、背中から飛び降りる。
ひゅっと息を呑む落下感のあと、すぐに軽い衝撃を感じる。
「細っ……!」
頭の上から驚いたような声が聞こえた。
無事に抱きとめてもらえたことに安堵したアリアは身体の緊張をほどき、まぶたを開ける。
目の前にはなぜか、アルヴィスの不安げな表情があった。
「あの、殿下。三食食事とってます? 身体、軽すぎでは……?」
「軽い? 出されるごはんは全部美味しいし、みんな会うたびに『これ食べて』とお菓子も勧めてくれるから、最近は食べ過ぎてるくらいなんだけど」
「食べ過ぎ!? これで?」
アルヴィスは怪訝な顔をして、横抱きにしたアリアをじっと見つめている。
「確かに、近頃殿下への餌付け……いや、お裾分けが流行ってるみたいですが、それにしたって軽すぎませんか」
入れ替わりを知らないアルヴィスは、ずいぶんと華奢な王子に衝撃が走ったらしい。
無謀なことをしたアリアを叱ることさえ忘れて、ただただ水色の瞳を見つめ続けていた。
「……ええと、アルヴィス」
「なんでしょう」
「だっこも、そんなに見られるのもさすがにちょっと恥ずかしい。そろそろ降ろして欲しいなぁ、なんて」
「――っ! 失礼いたしました」
へらっと照れ笑いをするアリアに、アルヴィスは目を見開く。
アルヴィスはめずらしく、おちょくったり困らせるようなことを言ったりすることなく、動揺した様子でアリアを地面に降ろした。
「ありがとう。猫、お前も無事に助かってよかったなぁ」
アリアは猫を思い切り抱きしめる。固まっていた猫もそれで我に返ったのだろう。ジタバタとキックを繰り返して、アリアの腕からすり抜ける。
見事に着地した猫は、振り返ることなく一目散に逃げてしまった。
「おや。恩も忘れて逃げるとは……」
「あはは、まぁいいじゃないか! でも、もう少しだけ撫でていたかったなぁ」
柔らかな毛の感触がなくなってアリアが残念がっていると、猫が逃げた方向から叫びに似た男の声がした。
アリアとアルヴィスが同時に声のほうに視線を送る。
おそらく、猫に驚いて中庭へと出る階段を踏み外したのだろう。カランド大臣が最下段に座り込んで、痛そうに自分の尻をさすっていた。




