第2話 研究の理由
アリアは差し出されたノートを受け取る。
ノートというよりも、これはもはや本だ。分厚くて、ずっしりとした重さがある。
パラパラとめくると文章だけではなく、グラフやスケッチも多数あって、実験記録のようにも見えた。
「ええと、これってなに?」
アリアの問いかけに、老医者は空になった自身の手を見つめながら、吹っ切れたように笑った。
「貴女は、これをどう使ってくれてもいい。憎いやつを殺すために使ってもいいし、本棚でホコリをかぶらせていたって構わない。だが、サウスの王には決して渡さないでくれ」
理由もわからないままアリアが頷くと、老医者は満足気に微笑む。
そのままアリアが止めるのも聞かずに出立の支度を始めてしまい、すぐにまた旅に出てしまったのだった。
老医者との出会いがきっかけとなり、まだ幼さの残るアリアの、毒と読書にとっぷりと浸る生活が始まった。
初めに読んだのは一番気になっていた項目。老医者が話していたヒ素だ。
ヒ素は最新の化粧水に含まれる成分で無味であり、無色。
重症の中毒の場合は嘔吐や下痢による脱水、ショックにより死亡する。と、一つ一つの項目を読み上げていくうちに、アリアはぴたりと動きを止めた。
「ヒ素中毒となった場合、爪に白い線が現れる。線は全ての爪の中央付近に出現し、中央あたりがやや膨らむのが特徴……」
母の爪と同じだ、と息を飲む。
いつからかクラヴィア王妃の爪には不自然な白い線が浮かんでおり「この線、不思議だね」と母とともに眺めていたことを、アリアは覚えていたのだ。
耳の奥でどくんどくんと拍動の音が響く。
優しい母が毒殺されたなどアリアは信じられなかったし、信じたくもなかった。
どうか間違いであってくれと、震える手でページをめくる。
「ヒ素が入った水を毎日数滴飲ませ続けると食欲が減退する。やがて全身倦怠感が出現し、体重が減少、衰弱の道をたどる。数か月後、静かに絶命する……。自然な衰弱死や病死に見えることだろう」
ノートの記録と、母クラヴィアの最期とが重なり、次第にアリアの呼吸は速く、荒くなっていく。
なにかの間違いだと思いたいアリアだったが、これは医療大国サウスの最先端の知識だ。他に文献が見つかるとは思えない。
人体実験をするわけにもいかず、この知識が合っているのか確かめるすべもなかった。
そこでアリアは、身体に侵襲のない『ヒ素が混入した液体に銀を入れると、銀の色が変わる』という知識(正確には、ヒ素を精製する際に抜ききれなかった成分が反応しているらしいが)を試すことに決めた。
この知識が間違っていればノート全体の信憑性も下がるし、反対に知識が合っていれば信用度は増すからだ。
アリアはレミィに頼み、銀のスプーンと化粧水を取り寄せて、皿に化粧水を垂らし、おそるおそるスプーンを浸した。
少し待つとスプーンは銀の輝きを失い、浸した部分だけが黒く変色しはじめる。どうやら老医者のノートは、空想の産物などではなかったようだ。
黒くなったスプーンを見て、アリアは膝から崩れ落ちた。母は病死などではなかった。暗殺されたのだ。
アリアはすぐに、父レガートに『母が暗殺された可能性があること』を伝えようと決意した。
暗殺ならば、大好きな母を手にかけた者を許せないし、次は王である父や、王子である兄が狙われる可能性だってある。
これ以上大切な人を毒で失いたくなかったのだ。
王妃暗殺となれば、それは国家を揺るがす大事件。猪突猛進のアリアも今回ばかりは間違いがあってはならないと、新たに文献を取り寄せて暗殺やヒ素について念入りに調べた。
時間をかけて書き上げたレポートは厚みを増し、それに伴って毒殺説の説得力も増している。
父がこれを読みさえすれば、すぐに犯人探しがはじまるだろうし、犯人が母クラヴィアを手にかけた理由もわかるだろうとアリアは考えていた。
暗殺ならば、犯人に母の墓前で謝罪をさせ、罪を償ってもらいたかった。このままでは終われない。母の死が報われない。
アリアはその一心でレポートを書き上げて、父レガートに「お母様は毒殺された可能性があります」と差し出した。
だが、アリアの期待は予想外の形で裏切られることとなる。
父はレポートを開きもせずに、そのまま突き返してきたのだ。
父レガートは『化粧品に含まれる成分で人を殺せるなど信じがたい』と言い張った。
アリアの主張を跳ね除け、医者の言う『持病の悪化』という見立てを信じ、食い下がるアリアを突き放した。
「毒見役がいまも健康である以上、毒殺なわけがない。たとえ、そうだとしても犯人を特定するのは困難を極める。そうなったら私はいったい何人……いや、何十人の疑わしき人物を殺して回らねばならなくなるのだ」と。
やがて、国王は「二度と毒の話はするな」と、アリアを避けるようになり……。
そのまま暗殺の犯人を探すことは叶わず、さらにはアリアの住まいが城の本館から城はずれの塔にうつることが決まったのだった。
♢
――レポートを読んでもらえなかったことは悲しかったけど、兄様が絶対に調べると約束してくれたから、きっと大丈夫。立太子の儀さえ済めば、いまよりも力を持てるから、と。
王子の衣装を身にまとうアリアは、手元をぼんやりと見つめる。
磨き抜かれた銀のスプーンには、兄によく似た自分の顔が映っていた。
――そういえば、いつの間にかカトラリーが全部銀製に変わってた。王妃殿下とのお茶会のときも銀スプーンだったっけ。
銀のスプーンさえあれば、ヒ素の混入がわかるし、摂取も防げる。
レポートの件以来、アリアは父に避けられていたため、銀食器の導入検討について兄に相談していたのだ。
思い込んだら一直線なアリアとは違い、ベルカントは冷静に周りを見て根回しをするのが上手い。
おそらく毒の単語を出さずとも、自然な形で銀食器導入を決めさせることができたのだろう。
「ベルカント、どうした。気分でも悪いのだろうか?」
突然の父の問いかけに、アリアは大きく身体を震わせた。
――ぼんやりしてたけど、そうだ、いまは朝食の会の最中だった。
うつむいて過去に浸っていたせいで、父から体調不良を疑われたのだろう。
「いえ、考え事をしておりました。陛下の御前で、申し訳ございません」
アリアは慌てて頭を垂れる。
レガート国王は、謝罪する息子に眉一つ動かさない。苛立っているのか、心配しているのか、はたまた一切の関心がないのだろうか。
氷の賢王という異名も飾りではないようで、まったくと言っていいほど感情が読み取れない。
アリアがたじろぐと、レガート国王はアリアをまっすぐに見つめながら、静かに口を開いた。
「もしや、お前も私の噂を聞いているのか」
噂ってどんな? と、アリアは混乱する。
昔から父レガートの政治には、ぬかりがない。いつも兄が話していたから、それは間違いないはずで、父の悪評が広まるのは考えにくい。
なにか問題が起こるのだとすれば、近隣国であるユーリア三国とジュピト帝国の戦争に参加するか否か、どちらを支援するかというところだろうか。
レガート国王は戦争を是とせず中立でいると決めているが、王弟スラーは国力増強を図るため、ジュピト帝国を支援し、領土拡大を狙うべきと主張している。
宮廷も戦争に関して意見が割れているようだと兄が話していたことを、アリアははっきりと覚えていた。
戦争のことについてなにか噂されているのかもと見当はついたものの、下手に突っ込んだところでボロが出るだけ。
「いえ、俺の耳には入っていません」
アリアはあれこれ詮索せず、聞かれたことにだけ答える。
レガート国王は「そうか」と呟くように言い、再び口を開いた。
「近頃、貴族たちの間で私の悪評が流れているようでな」
「悪評、困ったものですね……。どのような内容なのですか?」
ゆったりと紅茶を飲む父につられるように、アリアもティーカップを手に取り、紅茶を口にしながら尋ねた。
「私が、サウス王国よりマバルの葉を取り寄せて、楽しんでいるという噂だ」
「げほッ!」
思いもよらぬ発言にアリアはむせこみ、慌てて呼吸を整えた。
マバルの葉は、強い毒性と中毒性からムジカ王国で輸入を禁じられた危険極まりない葉だ。
葉巻にして煙を吸えば、虜になって手放せなくなるとされている。
生産国であるサウス王国では、興味本位で手を出した挙げ句、家具を売るだけでは飽き足らず、家を売り、土地を売り、築き上げた地位や人間関係を崩壊させてまでも、マバルの葉巻を吸い続けた者も多く存在するらしい。
――そんな破滅の葉巻を、一国の王が好き好んで吸うわけがないのに。
アリアは、ちらと父の顔を覗き見る。
危うい立場に置かれているにも関わらず、父は変わらず眉一つ動かさない。
――でも、お父様はお母様を亡くしてから、ますます表情が乏しくなって、人形みたいに見える。マバルの葉に心がとらわれたと思われても、仕方がないのかも。
「私はマバルの葉に手を出してはいない。下らぬ噂を聞いても、惑わされぬよう」
レガートは淡々と告げて立ち上がり、仕事があるからと先に部屋を出てしまった。
一人になった部屋で、アリアは窓から見える庭の薔薇に視線を送る。
赤と白の見事な薔薇だ。
――柔らかな白銀の髪と、温かな赤色の瞳。お母様の色。
お母様が生きていた頃は、家族みんな仲がよくて、笑顔が絶えなかった。
だけど、いまは……。
目を閉じると、母が優しく微笑む姿が浮かぶ。
「ねぇ、お母様。どうか皆を守ってね」
アリアが祈るように願うと、庭の薔薇が風に吹かれて、ゆるりとうなずくように揺れたのだった。
ストックが少なくなってきたので、今回から週一回の更新に減らします。
ストック増えてきたら戻します!




