第1話 氷の賢王
「朝食の会場はこちらです」
廊下の最奥で、アルヴィスが足を止めて言う。
部屋の前には王を守る護衛騎士が二名立っており、アリアの姿を確認するなり扉を開けた。
「これより先は、ベルカント王子殿下お一人でお願いいたします」
空気が引き締まるような、護衛騎士の声が響く。
アルヴィスとレミィは姿勢を正して一歩下がり、アリアはおそるおそる中へと足を踏み入れた。
朝食の会場はこぢんまりとした部屋で、壺や絵画といった美術品と小型の暖炉、小さなシャンデリアくらいしか目立った物がない。
中央にあるテーブルには、国王だけが着座しており、配膳を待つ使用人一名が部屋の端に控えている。
氷の賢王と呼ばれる父、ムジカ王国国王レガート。
落ち着いた月色の金髪に、瞳はアリアと同じく透き通る空色をしている。
美しく整った顔つきは人ならざるもののようだと、いまもなお他国の者からも噂されるほどだった。
「ベルカント、ここに」
感情の読みにくい懐かしい低音に、アリアはびくりと身体を震わせた。
自分を憎んではいないだろうか。恨み言の一つや二つ飛び出てくるのではないだろうか。
後ずさりをして警戒するが、すぐに『いまの自分はアリアではなく王子なのだ』と思い至り、慌てて胸を張った。
「本日はお招きにあずかり、大変光栄でございます」
穏やかな笑みを繕い、着座する。
アリアが腰掛けたのを合図に、使用人がカートから朝食を取り出して、二人の前に並べ始めた。
パンが一つとスープとサラダ、そして卵と塩漬けの肉。アリアが想像していたよりも、ずっと質素な食事だ。
アリアの母が健在で、家族四人で和やかに食卓を囲んでいた頃と少しも変わっていない。
兄のノートによると、母クラヴィアが亡くなり、アリアが塔に幽閉されて以降、父レガートは誰かと食事をとることをしなくなったらしい。
どんなに忙しくとも、一日も欠かさず家族と食卓を囲んでいたあのレガート国王が、だ。
――私にはずっと、レミィや侍女長がいたけれど、兄様やお父様はいつも一人だったんだ。
アリアはふと、兄が入れ替わりの提案をしてきたときのどこか悲しげな顔を思い出す。
これまで兄が見せてこなかった寂しさや傷に触れてしまった気がして、ずきりと胸が痛んだ。
やがてセットを終えた使用人が部屋を離れ、二人だけの朝食の会が始まった。
無言のままサラダを口にする父の顔は、最後に見た日とほとんど変わっていない。
ただ、以前にも増して表情が乏しくなったようにアリアは思う。
――最後にゆっくりお話しできたのは、いつだった? あぁ、そうだ。私が『お母様は病死じゃない。毒殺されたのだ』と言った日だ。
アリアは無言のまま、うつむいて下唇を噛みしめる。
――いつしかお父様は『双子は不吉の種』という言い伝えを信じるようになり、私を避けるようになった。あの頃の私は、悲しくて、苦しくて、辛くて。もしもあの人に会えていなかったら、いまも苦しみの中にいたかもしれないな。
アリアは懐かしい老医者との出会いを思い出し、まぶたを閉じて過去に思いを巡らせた。
♢
母の死をきっかけに父から疎まれるようになった十二歳のアリアは、悲しみのあまり、生きる意義さえわからなくなっていた。
毎日毎日、城を抜け出し、城下の教会で懺悔し祈ることの繰り返し。
当時は『不幸を呼ぶ双子』という罪の意識に押しつぶされ、死という未来もちらついていた。
苦しみの海に溺れるアリアだったが、ある日突然自罰的な考え方がひっくり返ることとなる。
城下町で、運命を変える出会いがあったのだ。
六年ほど前のこと、まだ幼さの残るアリアが教会に向かうと、路地裏で人が倒れているのを発見した。
見覚えのない老齢の男で、飢餓状態。見るからに憔悴していた。
男は薄汚い浮浪者のような見た目をしており、よぼよぼとして力もない。
このまま放っておけば、死神がすぐに迎えにくるだろうと、アリアにもすぐに予想ができた。
急ぎパン粥を作って与え、宿屋の主人と交渉して寝床を用意し、アリアは死にものぐるいで男を介抱した。
命が尽きるのを防ぎたいという思いもあったが、不吉な自分でも誰かを救い、希望を与えることができると信じたかったのだ。
アリアは、不潔な服を着替える手伝いをし、砂にまみれた男の身体を拭き、高熱を下げるために冷たいタオルを何度もひたいにのせ直す。男が唸っている様子があれば、手を握って励ましの言葉を送り続けた。
翌朝「なぜ城にお戻りになられなかったのですか!」と血相を変えたレミィが宿に飛び込んできて、そこでようやくアリアは我に返る。
自分は帰城するのも忘れ、夜通し看病をしていたのだ、と。
渋るレミィを説得したアリアは宿で男の介抱をし続ける。そのかいあって、男は歩けるまでに回復した。
アリアに深く感謝した男は「礼がしたい」と話し、とんでもないことを言い出した。
それは『肌の荒れを治療する薬の調合についての知識を授けよう』というもの。
アリアが助けた男は、浮浪者でも、力ない老人でもなかった。
医療大国サウスのはぐれ医者で、魔法とも思えるほどの進んだ医学知識を持っていたのだ。
話を少し聞いただけでも、医学薬学が遅れたムジカ王国にとって、最先端の知識と技術を用いて調合された、画期的な薬なのだとすぐに分かる。
これを作って美意識の高い貴族の娘たちに売れば、一生遊んで暮らせるほどの金が手に入るのも想像にかたくない。
こっそりと塔を抜け出し、一人で生きていくことも可能となるだろう。
誰もが飛びつくような提案だったが、金に頓着せず、兄から離れることを考えられなかったアリアは断り「一つだけ教えて」と呟いた。
「お母様の持病が悪化し、亡くなってしまったのは、やっぱり私のせいなの……?」
一人で抱え続けた疑問を、ぽつりぽつりと老医者に問いかける。
アリアは、不吉で不幸の種と言われる双子。自分が不幸を招いたことで、母が持病を悪化させて亡くなってしまったのではないかと、何ヶ月も一人で苦しんでいたのだ。
老医者は、アリアから王妃が死に至るまでの経過を詳しく聞き取り、原因は呪いでも持病によるものでもないとはっきり言った。
君の母はヒ素によって殺されたのだ、と。
混乱するアリアに、老医者は逡巡したのち、ボロボロの麻袋から分厚いノートを取り出して差し出した。
「お嬢さん、これを読んでご覧なさい。君が望む、答えのヒントがある。このノートは貴女にあげよう。サウスの王もまさか、こんな可愛らしい少女が持っているとは思うまい」




