第7話 打ち解けゆく二人
「アリア嬢、って、どこのどなたです?」
玄関ロビーに着くなり、アルヴィスが呟くように尋ねた。
「え……?」
突然自分の名を呼ばれたアリアは、言葉を無くして立ち尽くす。
大臣に忘れられていたことに加えて正体までばれるとは最悪にもほどがあると、視線を落とした。
「殿下は先ほど『アリアが会いたがっていた』とお伝えしていましたよね。記憶にない名なので、気にかかりまして」
「ああ、そうか、ええと……」
慕っていた大臣から忘れられていたことがショックで、アリアは頭が働かない。心ここにあらずといった姿を見かねて、レミィが助け舟を出した。
「アリアは私と同じ、マルチア様付きの侍女です。昨年故郷に帰りましたが、彼女も城はずれの塔に住んでいたので、アルヴィス様がご存じないのも当然のことかと」
レミィは、ちらちらとアリアに視線を送りながら説明する。大臣との思い出話を飽きるほどに聞かされていたため、アリアが悲しみに暮れているのがわかったのだろう。
「そうでしたか。殿下にとって、アリア嬢はとても大切なお方だったのですね」
「え……なんで? 一度もそんな話してなかっただろ」
話の流れが読めずにアリアが尋ねる。訝しげな視線を送ると、アルヴィスは目を細めて、にっこりと笑みを見せた。
「誰の意見も聞かずに突っ走り続けた貴方様が、アリア嬢のお話で突然しおらしくなられましたから。おそらく特別な方なのだろうな、と」
「よく見てるんだな」
目を丸くして感心するアリアに、アルヴィスは両の口角を引き上げた。
「そりゃあ、そうですよ。他人の弱みを握っていたぶったり、有利にことを運ばせたりするのが僕のやり方ですから。しっかり見ておかないといけないんです」
満面の笑みを浮かべたアルヴィスに、レミィは顔面を引きつらせる。
あまりにも悪趣味な人間観察に引いてしまったのだろう。
それまで茫然自失状態だったアリアは二人の顔を交互に見て噴き出し、肩を震わせて笑い出した。
「ふふっ、なんだよそれ。せっかく観察力がすごいと褒めたかったのに、見てた理由は最悪じゃないか」
「おや、今頃気づいたんですか? ですがもう、側近から外すは言いっこなしですよ?」
アルヴィスは人差し指を自身の口元にあてて、にぃと笑う。
冗談めいた楽しげなセリフに、アリアは笑い声を止めて穏やかに目を細めた。
「言わないよ。俺は、アルヴィスがいい。お前じゃなきゃ嫌なんだ」
澄んだ空色の瞳が、側近騎士を見上げる。
アルヴィスは言葉をなくして大きく目を見開き、すぐに顔を背けた。
「そんなキラキラした瞳で見ないでください」
「ん、どうした?」
「……貴方様は、本当におかしな人ですね」
アルヴィスは、どこか照れたような、あきれたような顔で笑う。
なんだかそれを可愛いと思ってしまった自分がおかしくて、アリアは人知れずくすりと笑った。
♧
「クソ! あの使えない愚図が!」
ノヴァリー家の屋敷に、怒号が響く。声の主は、アルヴィスの兄ラルゴだ。
屋敷に潜入し、使用人として働き始めたベルカントは上司とともに書類の整理をしながら、ラルゴの様子をうかがっていた。
ラルゴは顔を真っ赤に染め上げて、手には血管を浮かせている。遠目から見ても、相当に怒り狂っているのが手に取るようにわかった。
「昔からアイツはそうだ。俺のために動いていればいいのに反抗ばかり。しつけが足りなかったか」
ラルゴは手に持った手紙をグシャグシャに丸めて床に放り投げた。
あの手紙は、今朝アルヴィスから届いたものだ。
何が書かれているのか気にはなったが、上司がくいとベルカントの袖を引いて耳打ちした。
「まずい、逃げるぞ。音を立てずについて来い」
ベルカントは頷いて、静かに部屋を出ていく。
扉の向こうに出る瞬間振り返ると、ラルゴが壁にかかっていたムチを取り出し、柱を強く叩いているのが目に入った。
「ふー。危機一髪だったな」
廊下に出るなり、上司が冷や汗を拭いながら苦笑いを浮かべた。
扉の向こうでは、幾度もムチの音が響いている。
「まさか、あのムチで叩かれることもあるのですか?」
ベルカントがおそるおそる尋ねると、上司が静かにうなずいた。
「俺たちより、アルヴィス様がよく叩かれてたなぁ。気に食わないことがあると、毎度ラルゴ様はアルヴィス様の背中に厶チを入れていたんだ」
ベルカントは目を丸くして、言葉を失う。
いつも飄々として人をおちょくり、決して本心を見せないアルヴィスが実家では酷い扱いを受けていたなど、ベルカントは思いもしなかった。
ムチの音は、未だ鳴り止まない。過去を思い出したのか、上司は顔を歪ませて扉を睨みつけた。
「アルヴィス様も意地になっていたのか、絶対に謝罪も懇願もしないんだ。ラルゴ様が飽きるまで打たれていてさ。でも、俺ら使用人にはどうすることもできなくて……」
上司はこぶしを握りしめて、視線を落とした。彼の無力感と後悔とが痛いほどに伝わってきて、ベルカントも同じようにうつむいた。
「なぁ、ルバート。生まれた日がたった一年違うだけで、立場がこんなにも変わるなんて、貴族の世界って恐ろしいよな……。アルヴィス様はよくわからないお人だけど、なんだかんだで尊敬できるし、頼りになるんだ。次期当主が変わってくれりゃいいのに」
上司の呟きに、ベルカントは耳を疑った。
『狡猾』『考えが読めない』『目的がわからない』そんな男だとずっと思っていた。
彼は誰からも信用されないし、決して信頼してはならない悪の存在だ、と考えていたのに。
途端、荒々しい音をたてて扉が開く。ラルゴが出てきたのだ。
慌てて頭を下げて、様子を伺う。
話を聞かれていたか、とヒヤヒヤしていたが、ラルゴはうるさいほどの足音を立てて、二階に上がっていった。
「はー、ビビったぁ。ルバート、さっきの件は内密に頼むぜ」
上司はいたずらっぽく笑い、ベルカントは「もちろんです」と、大きく頷いた。
――ノヴァリー家が国王を引きずりおろそうとしている証拠は、未だ掴めない。もっとノヴァリー伯爵とラルゴに信頼されて、近づかなければ。
――だが、アルヴィス。君はいったい何を考えている……?
部屋に入り、ラルゴが捨てたアルヴィスからの手紙を幾度も読み返す。
何度見てもそこには、王子や国王を失脚させるような、有益な情報は一切書かれていない。
アリアが扮するベルカント王子の好きなものと苦手なもの、王子が居眠りをしてしまったときに話していた寝言など、なんの足しにもならない、日常の些細なことしか書かれていなかった。




