第6話 忘却の大臣
「殿下、ご迷惑をおかけしました」
毒薔薇事件から数日後。支度を済ませたアリアが兄の自室を出るなり、廊下で控えていたアルヴィスから謝罪を受けた。
「今日から復帰だったのか! 無事に戻ってきてくれてよかったよ」
アリアは「またよろしくな」と屈託なく笑い、アルヴィスも「はい」と微笑む。遅れてレミィが合流したところで、アルヴィスが今日の予定を伝え始めた。
「本日のご予定ですが、まずレガート国王陛下から朝食のお誘いがございます。午後は、領地に関する書類をご確認いただきます」
「陛下が俺と朝食を……? 王妃殿下が誘ってくれたのかな」
アリアは、いぶかしげに尋ねる。兄のノートには『忙しい父と、ともに食事をとる機会はほとんどゼロになった』と記載されていたからだ。
「いえ、王妃殿下へのご招待はありません。陛下と殿下のお二人だけでとうかがっております」
「そうか」
アリアは呟くように言う。父とはもう何年も話をしていない。アリアが最後に見た父の顔は――嫌悪や憎しみを孕んだような冷たい顔。
ずきりと胸が重く痛むのを感じる。心の奥に刺さった棘が、いまもなお抜けずにいるのだろう。
レミィが不安げな様子で近寄り、アリアのひたいに滲んだ汗をハンカチで拭いた。
「ベルカント様、お顔が青くていらっしゃいます。お休みになられますか」
気づかうレミィに、アリアは首を横に振る。
いまの自分はアリアではなく、ベルカント王子。父が朝食に誘ったのも、自分ではなく、兄なのだ。何も問題はないはずと言い聞かせる。
やがて、感傷に浸っていても仕方ないと、アリアは顔を上げて自らを鼓舞するように笑った。
「大丈夫だよ。さぁ、行こう」
♢
朝食の会場に指定されたのは、一階の再奥にある部屋だ。三人は階段を降りて、絵画や花瓶が飾られた華やかな廊下を行く。
会場の扉が見えはじめた頃、アルヴィスが突然足を止めて呟いた。
「おや。あれは、カランド・トリル大臣……」
アルヴィスが窓の向こうを見つめて言う。
懐かしい人の名にアリアは高揚し、思わず身体が震えた。
すぐさま窓に張り付き、アリアも庭を見る。緑溢れる中庭の端で、白髪混じりの中年男性が誰かと話しているのが目に飛び込んできた。
「カランド大臣……」
確かめるように呟き、懐かしさと喜びのあまり、アリアの目にじんわりと涙が浮かんだ。
幼い頃、外出を許されなかったアリアと内庭でよく遊んでくれたのが、カランド大臣だった。
木にブランコを取り付けてくれたり、草笛を教えてくれたりしたことも、昨日のことのように思い出せるほど。
親猫に捨てられた子猫にエサをあげて二人で育てたことも、花冠を作ってプレゼントしたことも懐かしいと、アリアは微笑む。
友だちのいないアリアにとって、カランド大臣は歳の離れた友人であり、父のようでもあり、家族同然の人物だったのだ。
塔に幽閉された頃から大臣はアリアに会いに来なくなったが、アリアはそれでもずっと大臣を慕い続けていた。
大臣がいつもアリアにくれた、温かな言葉。
「双子は、不幸の種などではありません」
「王女と呼ばれることはなくとも、貴女様はまぎれもなく、陛下と王妃殿下の大切なご令嬢です」
そういった言葉かけの数々をアリアは全て覚えていたし、彼の優しさを幼い頃から心の拠り所にしていたのだ。
「アルヴィス、レミィ。俺、ちょっと中庭に行ってくる!」
居ても立ってもいられなくなったアリアは踵を返し、足早に玄関ロビーへと向かう。
様子が異なるアリアにアルヴィスは首をかしげて、事情を知るレミィは穏やかな笑みを浮かべながら後を追った。
玄関ロビーを抜けて、中庭に飛び出ると同時に眩いばかりの朝日の光が飛び込んでくる。
目を細めたアリアは大臣がまだ庭にいることを願い、中庭の端に視線を向けた。
「いた! けど、あれって……テナー?」
アリアは首をかしげて、凝視する。
大臣の話相手が王子の一番の学友であるテナー・フラットだと気づいたのだ。
朝一番でなんの話をしているのか疑問に思いながら、アリアは二人に駆け寄った。
「カランド大臣、テナー、おはよう。めずらしい取り合わせだね」
アリアが近づいた途端、二人は話をやめて穏やかに挨拶をした。
「フラット伯爵からの願いもあり、彼が本日から、政治勉強のために城配属となったのですよ。ですが、めずらしい取り合わせなのは殿下も同じではないですか。ご学友ではなかったノヴァリー伯爵令息などを連れて、塔にお住まいのマルチア様の侍女までもご一緒だなんて」
表情は、過去の大臣と同じく穏やかだ。だが、声はどこか刺々しく突き放すようなもので、アリアは思わず後ずさる。
記憶とは違う大臣の様子に笑みをなくし、全身を強張らせた。
大臣に忘れられてしまったのかもしれない、と胸のざわめきが止まらない。
遅れてアルヴィスとレミィがやって来て、大臣の隣に立つテナーがアルヴィスに近寄る。
そのままテナーは「おはよう、壮健そうだね」とアルヴィスの肩を軽く叩きながら、耳打ちをした。
「王妃殿下の茶会で毒花を飲んだそうじゃないか。怖かったろう。私がお役目を代わってもいいんだよ」
「おかげさまで、このとおり生き長らえております。変わらずいまも側近として殿下をお守りすることができるなど、光栄の極みです」
「フン……自作自演じゃなければいいが」
アルヴィスは満面の笑みで当てこすりをし、テナーはあからさまに不愉快そうな顔で悪態をついた。
「まぁまぁ、お二人ともそのくらいで」
一触即発の二人を、大臣がなだめる。困ったような笑顔は、かつての大臣の顔そのもの。
大臣はあの頃から変わっていないと、アリアは小さく安堵の息を吐いた。
「なぁ大臣。アリアが久しぶりに貴方に会いたいと話していたよ」
双子は不幸の種であり、王族に双子がいるなど許されない。決して、存在を周りに知られてはならない。
そんなことはわかっていたが、我慢できずにポロリとこぼす。
アリアは、自分の名前を出せば思い出してくれると思っていたのだが、期待はすぐに地へと落とされた。
「アリア嬢……どちらのご令嬢でしょうか?」
頭を殴られたかのような衝撃が走り、アリアの胸が抉られる。大臣は、アリアのことをすっかり忘れてしまっていたのだ。
だが、それも当然のことだろう。
塔に幽閉されて以来、アリアは本館に入ることも許されず、ずっと存在しないものとして生きてきた。大臣とともに遊んだのも、もう十年以上も昔の話。
国政で忙しい大臣が、あのささやかな日々を覚えているほうが奇跡だ。
「いや、すまない。俺が人違いをしていたようだ」
アリアがごまかし笑いを浮かべると、大臣は穏やかに微笑んで口を開いた
「そうでしたか。そんなことより、国王陛下に錬金術の資金援助を頼んでくださいませんかね。国王陛下は、どうも錬金術を眉唾ものだと思われているようで」
困ったように笑うカランド大臣に、アルヴィスが質問を投げかける。
「錬金術とは『賢者の石の錬成を目指す』という、あの錬金術ですか? 城内にも研究所があると聞きましたが」
「ええ。王立研究所によると、赤き賢者の石の一歩手前である白い石までは錬成できたようなのですよ! すぐに壊れてしまったとのことなので、あと一歩だと思うのです。神の力をも得ることのできる賢者の石は、このムジカ王国にこそふさわしい」
大臣の話は次第に熱がこもり、声も大きくなっていく。
よほど、力を注いでいるのだろう。
おもちゃを見つけた子どものように、茶色の瞳もきらきらと輝いていた。
「賢者の石、か……。陛下にもお話ししておくよ」
「くれぐれもよろしくお願いいたします。他の国に、先をこされてはなりませんから!」
花開くような明るい表情の大臣とは対称的に、アリアは悲しげに笑った。
かつて、アリアに優しく接してくれた大臣はもういない。彼は錬金術に心を奪われ、アリアとのささやかな過去を忘れてしまったのだ。
「ベルカント様……」
レミィが不安げにアリアを見つめ、アルヴィスも不思議そうな顔を浮かべていた。




