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ぼくだって、ダテに修羅場をくぐり抜けてきてはいない。剣術使いほどではないにせよ、気配を察するカンは、鈍いほうではないと自負している。にもかかわらず、たいして広くもない、同じ小屋の中にずっといながら、まったくそいつの存在に気づかなかった。
「よくご存知で。ここはまさに、異界の中の異界。一度足を踏み入れたが最後、二度と出られない植物の大迷宮でしてな」
異様に幅広い耳が、前後に動く。肌は生白く、ひび割れるほど乾いている。小粒な目、尖った口もとがモグラをおもわせる。背は五、六歳の子供ほどだが、ずんぐりした体つき。黒い、ぼろぼろのフロックコートを着ており、靴は履いていない。
その素足の、平たい形状からして、どう見ても「人」ではない。ハーフエルフのゼモ族と踏んで、間違いなさそうだ。
しかしゼモ族ならば、一般に、地下に棲むものと認識されている。とはいえ、グノーム系の小人たちのように、前人未到の地中深く潜っているわけではない。人里からほど遠からぬ穴倉に棲みつき、時には交易を行ったりする。
だからこんな樹の上で、仲間も連れていない、たった一匹と出くわすのは、ちょうど水の中から雀を釣り上げたくらい、意外なのだった。
「ふん、ずいぶんもの慣れた口上をたれてくれる。あんたみたいなモグラが、こんな鳥の巣に隠れているのは、何か魂胆があるからじゃねえのかい」
「めっそうもない。わたくしめもまた、蟻女どもに捕まったがゆえに、こんな所にいるわけでして」
「この辺りをうろつき回らなきゃ、捕まることもなかったろうさ。え? モグラの旦那。カネのにおいを嗅ぎつけたからこそ、樹の上まで、のこのこ出てきたんだろう」
得てして、地下に棲む精霊やエルフは、財宝に目がない。あの無頓着なジェシカでさえ、城を落とすたび、金目のものを掠奪したがったのも、地の精のサガだろう。現に、このゼモ族の男の、尖った口がひくつき、小粒な目が狡猾そうに瞬くの見た。図星なのだ。
モグラ男は、ボレと名乗った。かれこれ二月近く、ここに放りこまれているという。
「あんたが握ってるネタは、洗いざらい、喋ってもらえるんだろうね」
バシの実を奥歯で噛み砕きながら、ル・アモンが凄みを利かせた。ちょっと素人とは思えない、そのへんのちんぴらなら、たちまち震え上がりそうな迫力があったが、ボレは、にやにやするばかり。
「そいつは取り引き次第で」
「あいにく持ち合わせはないぜ。この少年魔法使い殿は、どうだか知らねえが。おれの空手形でよければ、いくらでも出してやるよ」
「いやいや、わたくしめは鼻が利きますからな。空手形なら、においでわかります」
肩を小刻みに上下させ、ボレはくくっ、と、動物じみた笑い声をたてた。このハーフエルフの見かけから、年齢を推測するのは難しい。ゼモ族は長寿であり、また総じて老けて見えるが、よぼよぼの老人かと思えば、意外な敏捷さに、驚かされたりする。それでもまあ、ぼくより年寄りであることは、間違いあるまい。
ぼくたちと比べれば、ル・アモンは、「ひよっこ」なのである。
いつしか、夕闇がせまりつつあった。格子窓を見上げると、濃い葉叢の間から、わずかに洩れる光は、だいぶ赤みを帯びていた。塒へ急ぐ鳥たちがざわめき、猿たちはせわしなく呼び交わした。何かと騒々しい、かれらが寝につく頃には、夜行性の生き物たちが、ひっそりと這い出してくるのだろう。
ぼくは蛍貝の化石に灯を入れた。ほう、と感慨深げに、ボレが溜め息を洩らした。
「こいつを三つ四つ、収集家に売りつけるだけで、ちょっとした財産になりますぞ。もっとも、あなたさまの左手の指輪一つにも、到底及びませんがね」
「あんたもそう思うかい。だが、この美少年が最も大切にしているのは、右手に嵌めた、たった一つの指輪らしいぜ。あんたやおれには価値がなくても、魔法使い殿にとっては、特別なんだろうさ」
と、意味ありげなウインクを寄越した。どうもル・アモンは、魔法使いと騎士、及びその成れの果てと言われる剣術使いを、ごっちゃにしているらしい。たしかに、騎士や剣術使いの多くは、一人の女性を自分だけの「姫」と称し、「姫」のためなら、身を投げうって奉仕する誓いを立てている。
その女性が、必ずしも血統的な「姫」である必要はない。また相思相愛であるかどうかも、関係ない。自身が心に定めた相手が「姫」であり、例えば青猫亭の看板娘ロザリオは、少なくとも三人の剣術使いから、勝手に「姫」に祭り上げられていた。
ヘンリー王にも「姫」がいたかどうかは、定かでない。考えてみたこともなかったし、本人の素振りからは想像もつかない。もしいるとすれば、彼女は酒瓶の形をしているのではあるまいか。ともあれ、そんな習慣は、魔法使いとは無縁であり、ぼくは苦笑しながら、右手の薬指を眺めるしかなかった。
どこまでも透明な水晶は、依然、沈黙したまま。




