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しかしなぜ、このイコと名のる少女グレムは、ぼくを「ご主人」呼ばわりするのだろう。本来なら、ル・アモンこそ、そう呼ぶべきではないのか。というのは、けれど愚問に過ぎないのだろう。「メシ」を食わせてくれた相手なら、だれかれかまわず、主人にしているに違いない。
だからペテン師なんぞに、簡単に捕らえられる。
「あーあ、ひでえな。貴重な食料を、ほとんど平らげちまいやがった。おれだって、昨日から何も食ってないんだぞ」
腰に手をあてた姿勢で、アモン伯爵は突撃ラッパのように腹を鳴らした。食えない男にも、メシは必要らしい。満足そうに腹を抱えているイコと見比べながら、ぼくは肩をすくめた。
「ボッカーが飛べる以上、心配はご無用では?」
「それもそうだな。もちろん、魔法使い殿も乗って行くだろう。お世辞にも、広々としちゃいないが、あんた一人なら、何とかなる」
かれが指さした操縦席は、どう見ても一人乗りだが、後ろに荷物を放り込めるスペースがあった。ビア樽はとても詰め込めないが、たしかに少年一人くらいは、収まりそうである。舐めるような伯爵の視線を浴びて、ぼくはさっそく逃げ腰になる。
「遠慮しておきましょう。ガルシアを乗り捨てるわけには、ゆきませんから」
「そのジンバなら、単独で砂漠を越えるくらい、たやすいとお見受けしたが。荷を背負っていなければ、駆け抜けるのに、一昼夜もかかるまい」
返答に詰まった。ル・アモンの言うとおりであり、ガルシアなら、ズ・シ横丁の家まで帰りつけるくらいは、充分頭がいい。それに、伯爵がまたイコを「虐待」しないかどうか、心配でもあった。なぜか魔法使いという人種は、人間よりむしろ、精霊に対して同情的になる傾向が強い。
おそらくぼくの憂慮は、いかにも狡猾な伯爵の計算に、入っているのだろうけれど。
「ぼくはお尋ね者です。いつ何時、刺客をけしかけられても、不思議じゃありません」
「そいつはお互いさまだ、と言っておく」
「後悔しても知りませんよ」
伯爵は片目を閉じて、親指を立てた。だめだ。こんな突撃野郎に、とてもイコを預けておく気にはなれない。砂漠を越えて、どこか「メシ」にありつけそうな街に着いたら、さっさとグレムを解放してしまおう。そう目論んで、この怪伯爵との同行を承諾した。
残りの荷物をボッカーに移したあと、ガルシアに指示を与えた。彼女は胴震いして応え、しばらく荒野に首を巡らせていたが、東の方へ歩み始め、二、三度振り向いたあと、風のように駆け出した。たちまち砂の彼方に消え去ったジンバを見送って、ル・アモンは口笛を鳴らした。
「すごいね。いい馬だ。闇市に引いてゆけば、三千万、いや、五千万はかたいな」
ぼくは苦笑を禁じ得なかった。かつて王国を震撼させた、初代ガルシアの娘が、安く見積もられたものである。盗賊ごときに捕まるような彼女ではない。家までたどり着けば、あとは厩の精、コイワイが世話をしてくれるだろう。
(しかし、こいつは本当に飛べるのか)
あらためて、ダイオウカゲロウの翅を用いた上翼を見上げた。日の光が、翅脈の間に虹を描いていた。機械の修理は終えたと、伯爵は豪語していたが、ロブロブからはまだ、こびりついた砂が、さらさらと降ってくる。そうして最も重要な「エンジン」であるイコはというと、下翼の上で腹を抱えたまま、居眠りを始めていた。
おのずから、溜め息が洩れた。先にジンバを帰してしまったのは、致命的なミスではなかったか。
「イコ、起きてくれ。これから砂漠を越えたいんだが。飛べそうかい?」
戯画的に目をこすりながら、少女グレムはぼくを見上げた。屈託のない笑顔を見せると、自身の腹をぽんと叩いた。
「メシはいただきましたから、問題ありませんねえ」
じつに心もとない太鼓判である。
ぼくたちはボッカーに乗り込んだ。操縦席は、魚油のにおいがした。ホコラの屋根の上に、ちょこんと座り、イコは何やら思索的な表情で、空を見上げた。この辺りは、さすがにグレムらしい貫禄がある。と、感心したところで、
「あの雲は、じつに旨そうな形をしていますねえ」
「食い物の話はいいから、さっさとロブロブを回してくれ!」
業を煮やしたル・アモンが叫び、けれどイコは上機嫌にうなずくと、額のツノをきらきらと輝かせた。たちまち、ものすごい勢いで、ロブロブが回転し始めた。




