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叫び声。地底の亡者どもが、一斉に声を張り上げたような。
輪切りにされた大蜘蛛の腹部から、青黒い体液がどっと溢れた。腐った血の匂いがした。体液に混じって、宝冠や腕輪など、無数の装身具が転がるのだが、なぜそんなものが、大蜘蛛の腹の中に詰まっていたのか、考えたくなかった。
青い血溜まりの中で、化け物は毛むくじゃらの脚を振って、のたうちまわっていた。
「見てのとおりさ、嬢ちゃん。これでもやつは、死にきれねえ。鬼になったとはいえ、やつの半分はまだ『人』だ。死にたくても死にきれねえとき、人は最も苦しむものさ。やつの想い人に似たあんたが、その奇麗な手でとどめを刺してやるのが、慈悲ってもんじゃねえのかい」
返り血を浴びたすさまじい形相で振り返り、ヘンリー王はニタリと笑う。低地人の少女を抱いたまま、心なしか蒼ざめた顔で、レムエルはのたうちまわる大蜘蛛を見つめていた。
「助けてくれえ、助けてくれよおおお、なあ。宝なら、いくらでもやるからよお、なあ、助けてくれよおおお……!」
善鬼が顔をそむけるのを見届けて、ぼくはヘンリー王にささやいた。
「やつの首を。あとはぼくがやる」
「是非に及ばねえや」
大蜘蛛が口から放った緑色の毒液をかわし、かれは地を横に滑るようにして身構えた。さらに、鞭のように打ちかかってくる何本もの脚を、右に左に、ぎりぎりのところで避けながら、相手のふところに飛び込んだかと思うと、剣が抜かれた。
タム・ガイの首が切断されるさまが、やけにゆっくりと目に映った。
ぼくは短剣を抜き、刀身に片手を軽く添えた。呪文を唱えると、古代文字の刻まれた刀身が、緑色に発光した。「首」はなおも命乞いしながら、紫色の舌をひきずり、血溜まりを這い回っていた。蓬髪がよじれて、蜘蛛の脚と化しているのだ。
「……なあ、助けてくれよ、なあ」
予想どおり、吐きかけられた暗緑色の塊をよけた。捕縛の呪文で動けなくしてから、近づいてゆくぼくを、タム・ガイは三白眼をいっぱいに開いて、ぎょろりと見上げた。あらゆる罵詈雑言は、けれどもはや、くぐもった呻き声にしかならなかった。
ぼくは相手の目を見つめたまま、片膝をつき、短剣を振り上げた。
「待ってください」
振り返るつもりはなかったが、動きを止めて、レムエルの次の言葉を待っていた。
「せめて、あの言葉をかけてあげてください。最高の、お別れの言葉を」
「わかったよ」
タム・ガイの首に、渾身の力で短剣を突き立てながら、ぼくははっきりとこう言った。
「くたばれ、下郎」
蒼い血がほとばしり、レムエルの悲鳴が響き、がらがらと世界が揺れた。崩壊を始めた家の破片が降り注ぎ、大蜘蛛の胴体を押し潰した。見れば、レムエルの姿はどこにもなく、代わりにヘンリー王が、低地人の少女を抱き上げるところだった。
果たして出口はあるのか。あの迷宮じみた廊下を行くうちに、ぼくたちも潰されてしまうのではないか。呆然と立っているぼくの隣で、ヘンリー王が謎のような文句をつぶやく。
「なに、ずっとここだけだったのさ。長い廊下も、無数の部屋も、すべて幻だよ。いわばおれたちは、やつの夢の中を、さまよっていたんだなあ」
絡みついた蜘蛛の巣とともに、降り注ぐ石の塊や材木の間を、かれは少女を背で庇いながら、ゆっくりと進み、奥の石段に足をかけた。その姿は、太古に滅び去った巨人族をおもわせた。上り詰めたところにドアがあり、それは黒ずんで鋲が打たれた、この家の入り口の扉とよく似ていた。
ぼくは石の雨をマントで防御しながら、ヘンリー王の後を追った。手が塞がっているかれにかわって、取っ手をつかむと、たしかな手応え。力を込めて押したところ、百年も開かれなかったような固さとともに、少しずつ動くのだった。
ドアの後ろには、中央の磨耗した石の階段があり、その上に満天の星空が覗いた。階段を駆け上がり、振り返ったとたん、人食い宿屋は基底から沈むように、一挙に崩れ去った。土煙が、もがき苦しむ大蜘蛛の姿を描き、それもやがて消えうせた。跡には、地面が陥没したような、大きな穴が開いているばかり。
「レムエル……」
呼んでみたが返事はなく、ただ右手の薬指に嵌めた指輪が、どこか哀しげな光を帯びた。




