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「まったく、ほかに言いようがあるだろうに。てめえにかかっちゃ、何でもかんでも、自分のもんになるんだな。妹だろうと、他人の命だろうと」
ビア樽がまともなことを言うなんて、じつに珍しい。かれは姿勢を低くして、片膝をつくと、柄に右手をかけた。
「わざと逃げたのか? やつをここへ導くために」
「さあな。どっちかってえと、誘い込まれたのは、おれたちだからな。ただ、あんな狭苦しい部屋で、暴れたくはなかったって話だよ、フォルスタッフ殿」
目の端で振り返り、ヘンリー王はニヤリと唇をゆがめた。たしかに、あの部屋で大立ち回りを演じられたら、潰されていた可能性が高い。
ぼくは何歩か引き下がり、干からびた骨を靴で掻き分けて、少女の体を床に降ろした。化け物は対峙したまま、ビア樽同様、まったく動かない。その姿を眺めたとたん、ぼくは驚愕すべき事実に気づいた。
切断されたはずの一本の脚が、再生を始めたのだ。傷口から、ぶるぶる震える脚の先端が、奇怪な虫のようにあらわれて、見る間に押し出されると、粘液にまみれている以外、まったく無傷な、脚のもう半分に変わっていた。
(人鬼は斬れない、とは、こういうことなのか……?)
無精ひげに覆われた顔が、勝ち誇ったようにゆがみ、紫色の舌で唇を舐めた。続く大蜘蛛の体が、狂喜するように小刻みに揺れた。
「へへへ……ぶん殴ってやりてえよ。手足も首もばらばらになるくらい、ぶん殴ってやりてえ」
ビア樽は、けれど片膝をついた姿勢を保ち、本物のビア樽になってしまったように、動かない。おそらくどこを見ているかわからない、半眼のまま。
「なるほどな、ゼイロクもそうやって、『ぶん殴った』わけだ。いい年こきやがって、言ってることが、城壁の不良少年どもとたいして変わらねえ」
ビア樽の言うとおり、この人鬼の行動につきまとう印象は、幼さだ。自身の欲望や怒りを制御できず、最も手っ取り早いやり方で処理しようとする。思いどおりにならなければ、すぐに暴れる。弱い者を平気で苦しめる。小動物を虐殺する子供の感性。ばかでかい蜘蛛の姿をしていながら、幼虫、という印象がぬぐえない。
案の定、タム・ガイはヘンリー王の挑発に、まんまと乗った。
「ここはおれの家だぞおおらああああああ!」
蓬髪を振り乱して突進してくる。
化け物の巨体を、ヘンリー王は左へかわし、逆手に柄を握りこむと、蒼い閃光をほとばしらせる。
おぞましい悲鳴。飛び散る粘液の中に、大蜘蛛はもんどりうった。
「なぜ斬れる? なぜおれが斬れるんだよおおおおお!?」
タム・ガイが叫んだところを見れば、やはりこれは異常事態なのだ。斬れるはずのないものを、一時的であれ、ヘンリー王の剣は斬っている。
(あたしとわたり合ってるとき、こいつはすでに生きちゃいないんだよ)
ジェシカの言葉が、思い合わされた。死にきることで生きる剣、それがイ・アイル流だとか。ゆえに、すべての執着から超越している。執着の塊である人鬼の体を、断つことができる。
切断された三本の脚が、床の上でのたうちまわっていた。大蜘蛛は腹で地を這いずりながら、残りの脚を狂気のように振り回した。再生するまでには、おそらく間がある。とどめを刺すなら、今しかない。いかに人鬼といえども、頭部を潰してしまえば、二度と蘇らないはずだ。
なのにヘンリー王は、剣を鞘に収めたまま、ばかみたいに突っ立っているではないか。
「どうして攻撃しない?」
「やつがどうしようもなく厄介なのは、ばかじゃねえからだよ」
かれの言葉が終わらぬうちに、化け物の口から白い塊が吐き出された。それは何百万本もの強靭な蜘蛛の糸と化し、束になってヘンリー王に突き進んだ。かれの顔に瞬時、動揺が走るのをぼくは見た。糸の束はかれの面前で、瞬く間に断ち切られたが、そのまま勢いを殺さず、四方に広がった。
「ちいいっ!」
ヘンリー王の舌打ちが、こだまを返した。ぼくは、突進してくる糸を避けるのが、せいいっぱいだった。床を転がりながら、低地人の少女が糸に絡められるのを、どうしようもなく眺めていた。
少女は気を失ったまま、細い体を宙に持ち上げられ、おぞましい大蜘蛛のほうへ、見る間に引き寄せられていった。




